空と願い
「武成王、例の灌漑の件だが・・・む?」
ひょこっ、と部屋を覗き込んだ太公望は一瞬途惑い、次いで笑いを噛み殺した。
「おお、太公望どの。見つかっちまったか」
黄飛虎も一瞬間の悪そうな顔をして、それからがはははっ、と笑う。
天井まで届く見事な竹が部屋を占領し、太公望の視界を半分ふさいでいた。
「スース、駄目さあ。夕方驚かせるつもりだったのに・・。
こっそり竹運び込むのにこれでも俺っち苦労したんだかんね」
天化のぼやきに軍師は結局大笑する。
飛虎の横では天祥が墨を磨っていた。
小さな手がしゃこしゃこと健やかなリズムの微かな音を奏でる。
慣れ親しんだ、けれど新鮮な香りがほのかに部屋に漂う。
用件を済ますかたわら、太公望はそれを堪能した。
「何を書こうかなあ」
「天祥の好きなことを書けばいいんだよ。
大切なお願いだから丁寧に書くんだよ?」
天禄が筆遣いを直してやっている。
どうやら短冊を書くのであるらしい。
幼な子の手習いとはよいものよのう。
それは希望のひとつの具現。
武門の一族であるからには武芸に打ち込むのも当然ではあるが、
力のみに支配されない時代を文字はもたらす。
こやつはそのようなことまで考えてはおるまいに。
だんだんに手を墨で汚しながらもひたすら文字に向かっている天祥に、 太公望は聞かせるともなく呟いた。
「できた!」
大きな声に飛虎も兄弟三人も、太公望も短冊を覗き込んだ。
「どう?」
結構うまく書けたでしょ、という口調で天祥が聞く。
濃墨の伸びやかな文字。元気に溢れているが乱れることはなく。
『強くなれますように』
「おお、うまいじゃねえか」
言いながら、飛虎と息子たちはやっぱりな、という視線を交わす。
こやつら・・全員同じ事を書いたのではあるまいな、と太公望は可笑しくなった。
文字に託される願いはそれでもやはり武芸のことか。
ひとかけらの矛盾を感じながらも
一家の顔を見ればそれはあまりにも自然であって、
太公望は自分の複雑な思いがまた可笑しい。
ひとはより高みを目指すいきものだ。
彼ら一家はあまりにも人らしい。
「太公望どの。あんたも書くか?」
仕事をそっちのけにして飾り付けをはじめた飛虎が水を向けた。
「わしか?」
太公望は笑って首を振る。
星への願いは純然たるひとの営みだと思っている。
・・ここにいる人も仙道もいま生き様において変わるところはないのだが。
天に願ったとしても願いは自分で叶えるもの。
ここで願う誰もがそれを自覚していると承知していながら。
にもかかわらず、星に願いは掛けられない。
きっと自分は素直でないのだ。
「ねえ、これこの後どうするの?」
夕方、武王さまたちのところに持って行ってびっくりさせて。
その後はお星さまを見ながら宴会かな。
笹飾りは明日の朝、川に流すよ。
それでも若い者達が賑わしく祈りの行事をするさまは、とても好もしい。
己の中にふたたび見つけた矛盾は太公望を苦笑させる。
「のう、天祥。今夜満天の星を見せてやろう」
そして気がつくと、彼はそんな言葉を掛けていた。
「ズルイさ、天祥だけさ?」
「四不象にはそう何人も乗れぬからのう」
天化の茶々を軽くかわすと飛虎がまたがはははっ、と笑った。
*
夜。
約束どおり、太公望は宴の席から天祥を連れて抜け出した。
視界を遮るものなど何もない、草原の直中に降りる。
「広いっスね・・」
四不象が呟いた。
涼風が彼方から吹き彼方へ抜ける。
天祥はまるで声を失ったかの様子。
二人と一匹は肩を並べて坐り込み、
そして、天を見上げた。
広い広い空。
深い深い闇。
満天の星。
飲み込まれるような沈黙のひととき。
「懐かしいのう」
ややあって、太公望が呟いた。
天祥のもの問いたげな視線に言葉を補う。
「おぬしほどの頃、よく寝床を抜け出して星を見たものよ」
わしはひとりで空を見るのが好きであった。
この空の、この大きさが好きだった。
語るともつかず、ひとり呟くともつかず、太公望はゆっくりと言葉を発する。
遊牧の暮らしを送りつ見た空と、今見る空に変わりはない。
自身の境遇はそれこそ天と地ほどにも違うのに。
空が果てしなく大きいこと、いささかも変わらない。
いや、ややもすると空は少し遠くなったかも知れぬ。
変わらぬことが嬉しいのか悲しいのか。
いや、自らが変わったことが悲しいのか嬉しいのか。
いつしか口を噤んで取りとめなく考えていると、天祥が密やかに尋ねてきた。
「昔も空はこんなに大きかったの?」
うむ、と太公望は小さくいらえを返す。
天祥は少し何かを考える。
そしてさらに一回り声を絞って言った。
「僕がおおきくなっても空は小さくならないの?」
重ねて問う心は痛いほど伝わって、そして太公望は頷いた。
「きっともっと大きくなるであろうよ。」
人とは小さなもの。
仙道であっても、天然道士であっても、
天の前にはいかほどの違いもないだろう。
人とは小さなもの。
世界を知れば知るほどその思いは募る。
そんな人の変化さえ、天の前にはいかほどの違いとも映るまい。
人とは小さなもの。天は大きなもの。
嬉しいとも悲しいとも言えぬ、それは峻厳な事実。
この広大な天に、微小な己の願いを託すなどやはり考えることすら出来ない。
それは素直な素直な感情だった。
己は変わっていない。仙道となるずっと以前から。
空は大きすぎて、人は小さすぎて、ただ空の大きさに見惚れていた。
人はこんなにも小さい。
「母さまに会えたらいいのに」
不意に天祥が零した小さな小さな呟きを太公望は聞いた。
人は小さくて小さくてたまらないから。
天は大きくて大きくてかなわないから。
そう。
それゆえにこそ人が発する、ささやかで贅沢な願いがこの世にはある。
高みを目指すのとはまるで逆。けれどまた、あまりにも人らしい。
文字には託せない。
光の満ちた昼間には、前へと進むべき昼間には決して零せない。
自分で叶える願いではない、叶わないとは知っていながら願わずにいられぬ切なる願い。
ひとには如何とも出来ないこと。
だからこそ天に縋ってみたくなる。
叶わないと知っていながら。
童顔の道士は聞こえなかった振りをしながらも幼な子の頭に優しく手を置き。
二人はずっと満天の星空を眺めていた。
ううう、テーマ分散しすぎ・・。
いつものように嘘報告は
こちら
。
自分で選んだ小道具まで嘘という・・
だけど墨の匂いって好きなんです。
宮城谷昌光『太公望』谷川俊太郎『聞こえるか』に影響されてます。
『聞こえるか』は詩ですが詩集名が分かりません。ごめんなさい。
結構お祭り好きだと思う飛虎。
教育パパだったりは・・しないか(代わりに天禄がしてるかも)。
みなさま、笹飾り作られました?
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