はじめに注意書き。
端午の節句についての各解説は嘘ではありません。
もちろん諸説ありますので、事実とも断言できませんけれど。
しかしながらそれを「封神演義」の時代に持ってくると、全てが嘘です。
どうぞよろしく。
嘘1 端午の節句
「端午」とは「はじめの午の日」月のはじめの午の日です。
5月はじめの午の日に限らず、他の月のはじめの午の日を指していた時期もあるようです。
5月が午の月であることから、そのうち5月はじめの午の日を端午と呼ぶようになりました。
「端午」を「重なる午の日」と解す説もあります。
こちらの説はなぜ5月になったのかをわかりやすく説明してくれます。
でも「端」に「かさなる」の意味があることを確認できませんでした。
さて、「午」は「ご」ですのでそのうち「五」に転じました。
毎年5月5日が端午の節句となったわけです。
5月5日に固定化したのは漢代以降のことだそうです。
・・つまり5月5日が近いからって端午の節句の話を書こうという考え方そのものが、
封神の時代(殷周時代)にはなじまないというわけです(・・・汗)。
あ、肝心なことを書き落としていましたが、
上の話はすべてすべて太陰暦、いわゆる旧暦です。
旧暦の5月5日は、2001年でいけば6月25日あたりです。
夏至より後ということですね(これはあくまで今年の話です)。
ですから菖蒲が盛りとなるのです。
この盛夏5月は高温多湿のために、食中毒や伝染病が恐ろしい月です。
このような「悪月」ですので、邪気を払わなければなりません。
「悪月」である「5月」のなかでも「5日」という日は悪月を象徴するのでしょう。
そのためこの日には、菖蒲酒を飲んだり、蘭を入れたお風呂に入ったり、
蓬で作った人形や虎を門に飾ったりして邪気を払ったということです。
以上は基本的には中国大陸でのお話です。これが日本に伝わってまいります。
(↓嘘4 薬草摘みへ)
日本ではまた邪気を払うため流鏑馬神事なども行われたようです。
それからもうひとつ日本では、悪月であることと関係なく、
田植え前に早乙女が身を慎み穢れを祓ったことも端午の節句の基となっているそうです。
単に陽の数である5が2つ重なって目出度いな、という面もあるようですが。
ともあれ、かくのごとく様々な理由から端午の節句は成立いたしました。
嘘2 粽
「ちまき」です。
現代日本で見かける粽はもち米や葛粉のお餅を熊笹か茅の葉で巻いて蒸し上げます。
中華街などで見かける粽には、炊き込み御飯のようなものが入っていますよね。
どちらも亭主は大好きです。
・・亭主は大好きで、発や旦も好きだろうと思って物語を書いておりますが、
粽は中国の戦国時代の人、屈原の故事に由来する食べ物です。
いまさら言うまでもないことではありましょうが、
戦国時代とは発ちゃんの建てた周が
すっかりもう有名無実と化してしまった時代。
屈原さんは発ちゃんから約700年後の人です。
さて、屈原さんは楚の国の人。博学で詩文に優れ政治外交にも通じた賢人でありました。
楚王に忠義を尽くしましたが、讒言により江南に流されます。
不遇を嘆いた屈原は、湖に身を投げたのでありました。
紀元前277年5月5日のこととされています。
人々はこれを悲しみ、毎年5月5日には竹筒に米を入れて湖に投げ入れ、屈原の霊を弔いました。
(要はお供え物ですね)
ところがある日屈原が夢枕に現れて曰く、
「私を祭ってくれるのは有難い事だが、この湖には蛟が棲み、折角の米も奪われてしまう。
私を憐れんでくれるのならば、蛟の嫌う楝の葉と綵の糸で竹筒を巻いてもらいたい」
人々はこのお告げに従いました。これが次第に現在のようなちまきになり、
そしてそれを屈原の命日であり節句である5月5日に食するようになりました。
余談。
上記「ところがある日」は漢の建武年間(紀元後25〜56年)と言われます。
このタイムラグが楽しいです。
楝(おうち・栴檀(せんだん)の雅語)
綵(あやぎぬ・染め模様の美しい絹)
蛟(みずち・水竜)
このあたりの漢字、みなさんのパソコンでも見えるのでしょうか?(機種依存がよくわかってない)
粽は日本に入ったのち、茅の葉で巻いたところから
「茅巻(ちまき)」と呼ぶようになったそうです。
ところで屈原さんが讒言された理由は、妬みなどもありましょうが、
外交政策の不一致が主と考えられます。
時は秦国がますます強大となり、楚はその脅威にさらされていた時代。
屈原は斉と結んで秦に対抗すべきと主張する「親斉派」でした。(「合縱政策」ですね)
楚にはまた、秦と結んで国の安全を図る「親秦派」もおりました。(こちらは「連衡」ですね)
讒言で屈原を退けることによって、親秦派は親斉派に完全に勝利したのでした。
政策決定は必ずしも政策論争によるとは限らない。
もっとどろどろとして人間味が溢れていて、だから中国の古典は面白いんですよね。(ひとりごと?)
さてさてもうひとつ、屈原さんは先にも申しましたとおり、詩文に優れてもおりました。
楚の地方の詩文を集めた『楚辞』。これには屈原の詩が『離騒』など複数収められています。
ここで屈原は国を滅ぼす論が国を覆っている憂い、自らが理解されない嘆き、
そしてなにより楚という国への愛を美しく歌っているそうです。(原典にあたれよ>亭主)
『楚辞』に入っているのかどうかわかりませんが(たぶん違う)、漢文の教科書に載っていた『漁夫辞』は読みました。
これは彼の潔癖さ、理想の高さが嫌というほど感じられる作品です。
(蛇足ながら、『漁夫辞』や、『楚辞』のなかのいくつかの作品は、屈原作と言われつつ違う可能性があります。ですが重要なのは屈原がそのように高潔で国を憂う人だと「信じられていた」ことだと思うので、ここの追究はさぼりです。)
上記の故事や詩作から、屈原は高潔な憂国の英雄として現代に至るまで人々に慕われるようになりました。
かくのごとく慕われた故に、粽という風習、食べ物は現代まで残ったということも出来るでしょう。
ついでなので柏餅についても少し。
柏餅というのは、丸く平たく作ったお餅で餡をはさみ二つ折りにし、これを柏の葉で包んだもの。
亭主が例年食べているのはみそあんですが、普通のこしあんでも作りますね。
「かしわ」は「炊葉(かしぎば)」に由来し、食べ物を包んだり盛ったりした葉っぱの総称であったそうです。
それらの葉っぱの中でも、今言う「柏」の葉は広くしなやかで食べ物を盛るのに都合がよかったことから古くから食器として使われ、そこから「かしわ」がこの植物の名前になりました。
端午の節句につきものとなったのは江戸時代からということです。
柏は新芽が出てからでなければ古い葉が落ちない常盤木なので、松とともに長寿のシンボルであり、また家系が絶えないことも表し、縁起がよいとされています。
嘘3 竜舟競争
亭主に馴染みの言葉ならペーロン。英語にするとドラゴンボートレース。
沖縄ではハーリーというそうです。
いずれにせよ日本を含めアジアの各地で行われているボートレース。
現代の日本では必ずしも5月5日に実施されているわけではありませんが、
これもまた端午の節句にちなんだ行事です。
屈原を救おうと湖に船を出したのがはじめとか、
屈原の屍を引き上げようと船を出したのがはじめとか、
屈原の屍あるいは供えたちまきに水竜が寄らぬよう
湖に船を出し鐘や太鼓で大騒ぎをしたのがはじめとか。
それから競漕というお祭り騒ぎによって屈原の霊を慰めようとしたとか。
いわれはいろいろです。
その後には水害を防ぎ雨を乞い五穀豊穣を祈る祭りとしても、
豊漁を祈る祭りとしても、また、水難を避けるまじないとしても行なわれてきました。
この行事が長崎に伝わったのも、1655年強風のため中国船が長崎港から
出航できなくなった折、海神を慰め風波を鎮めるべく
港内で競漕をしたことからといわれています。
なにはともあれこのレース、銅鑼の音を合図にして竜のような長いボートを20人30人で漕ぎ、速さを競うもの。
亭主は1度長崎のペーロンを見に行きたいのですがまだ望み叶えておりません。
サイトを巡ってみたところ日本では、長崎県のほか沖縄県、兵庫県相生市などで行われている様子。
那覇の爬竜船の飾り付けがお祭りらしく晴れやかで憧れ。那覇では5月5日実施。長崎より歴史が古いらしい。
相生市は5月最後の日曜日。長崎のものが伝わったとのこと。
長崎は県内各地で行われているけれど、これを一堂に会した長崎ペーロン選手権は7月第4日曜日。
あ、遊びに行かれる際は上記は目安として実際の開催日時を主催者の方に確認してくださいね。
中国でも香港でもタイでもほかにも竜舟競争は行なわれているようなんですが、
情けないながら語学の壁に阻まれました(苦笑)。
とりあえず世界選手権とアジア選手権があります(これは日本語サイトで見ました)。
嘘4 薬草摘み
屈原さんからようやく離れます。
嘘1でも書きましたように、端午の節句に人々は邪気を払おうといたしました。
薫り高い野草は邪を払うと信じられており、故に古くから中国では菖蒲酒や蘭風呂や蓬人形の風習が興ったのです。
そして草摘みなどの野遊びも。要するにピクニックです。だって夏の盛り、いい天気ですものね。
(五月雨に降られないのか?)
さてこの風習、日本に伝来いたします。
既に大和時代に、宮廷行事として薬草摘みが行なわれています。
あかねさす紫野行き標野行き 野守りは見ずや君が袖振る 額田王
標野(しめの)
有名なこの歌も、端午の節句の草摘みの場で詠われました。
宮中ではまた、天皇が臣下に蓬などを配りました。
(これはもう少し後の時代かも)
枕草子には宮中も下々も菖蒲と蓬であふれんばかりという節句の様子が書かれています。
菖蒲を軒に挿し、菖蒲で髪を結う人々。宮中では薬玉を飾り。
色美しく香り芳しいさまが目に浮かびます。
清少納言は「節は五月にしく月はなし」とも言っているのです。
なお薬玉は沈香などの香料を絹の袋に入れ、菖蒲や蓬、花で飾りをつけ五色の糸をたらしたもの。
男性が女性に贈っていたのでしょうか?『あさきゆめみし』では源氏が花散里に贈っています。(『源氏物語』にはないみたいですけど)
それから平安時代の公式行事としては騎射などが行われています。
(もうこの節なんか封神と全く関係ないですね)
嘘5 菖蒲湯
端午の節句のなかでも「菖蒲」がとりわけ重要(?)となるのは、鎌倉時代以降です。
宮廷での優雅な行事の数々は、武士の時代ヘと移り変わってゆくにつれてだんだんと廃れていきました。
端午の節句もその例に漏れないのですが、「菖蒲」は「尚武」「勝負」と同じ音。
武を尚ぶ武士たちは端午の節句を尚武の節句として祝うようになったのです。
この日菖蒲はあちらこちらで出てきます。枕草子にもありましたが、
軒先に挿し、髪に挿し。
酒に入れ、風呂に入れ、枕の下に入れ。
また、葉の形が刀に似ていることから子供が菖蒲刀で打ち合って遊んだり。
縛った菖蒲で地面を打ちつけて邪気を払う行事もございます。
「尚武」の節句はごくごく自然に男の子の節句ともなりました。
男の子の誕生を祝い健やかに勇ましく成長することを祈って、武家では甲冑や刀を飾りました。
室町時代には兜人形が作られ、江戸時代には玄関前に幟や吹き流しを立てるようにもなりました。
そもそも端午の節句には、騎射が行なわれていたなど男の子の節句に転じやすい性質があったと言えます。
ちなみにこの流れから当然のことながら、鎌倉時代にはこの日流鏑馬が行われています。
さらに江戸時代の中期には、鯉のぼりが飾られるようになりました。
幟や吹き流しを立てることが許されていない町人が、その代わりとして立てたのがはじめです。
ところがそもそも鯉は滝登りの伝説から、立身出世をする縁起の良い魚。そのため武家でも鯉のぼりを立てるようになりました。
戦後、端午の節句は「こどもの日」として国民の祝日に定められました。
「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」日です。
もはや武士の時代ではないですから、性別にかかわりなくこどもの幸福をはかる日となったのは喜ばしいことでしょう。(でも3月3日も祝日になったらなお嬉しい)
とにもかくにも。災いなきようにと願うのは、子に健やかに、立派に育ってもらいたいと願うのは、
時代にかかわらず、身分にかかわらず、性別にかかわらず、人の世の常に違いありません。
あんちゃんも、発ちゃんも、旦も、どうか健やかであれ。
参考文献 (文献?)
世界歴史大辞典 教育出版センター 1991 「屈原」間瀬収芳
世界人物逸話大辞典 角川書店 1995 「屈原」小野寺淳
世界伝記大辞典2 日本朝鮮中国編 ほるぷ出版 1990 「屈原」小南一郎
世界大百科事典 平凡社 1988 「端午」田中宣一
国民の祝日に関する法律
・・・・辞典ばっかりじゃん・・
おこよみ焼き http://www.ffortune.net/calen/index.htm
仙塩情報 http://www.geocities.co.jp/HeartLand/3137/
平安武久(人形店)http://www.bukyu.com/index.html
国際学院埼玉短期大学・卒業研究論文抄録集
>平成5年度 五月女幸恵さんの論文 http://www.kgef.ac.jp/ksjc/ronbun/930520s.htm
甘春堂(和菓子店)http://www.kanshundo.co.jp/
>春のお菓子>端午の節句
漢詩を作ろう http://www.chitanet.or.jp/users/junji/kansi/
>今月のお勧め漢詩 1999年立夏
相生市公式ページ http://www.city.aioi.hyogo.jp/index.html
東京龍舟 http://www.tokyo-dragon.jp/
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どうなのかなあ。