望月
もう夜も更けたのだ。
洞府は静けさに包まれて、聞こえるものは虫の声のみ。
隣にあった人の姿がいつのまにか消えていて、気づいた普賢は床を離れた。
「望ちゃん?」
囁いたつもりの呼びかけは音になったのか。
夜のしじまを前にすれば人の声など塵に等しい。
ひそやかに室を抜け出し、外へ出る。
明るい。
予期しなかったほど明らかな黄色の光に、彼は少しだけたじろいだ。
月の光にくっきりと、人影が照らされている。
座り込んで食い入るように空を見上げているその人影。
「望ちゃん?」
傍らに普賢は歩み寄る。
その人は驚くでもなくいちど普賢の目を見上げると、ふたたび月に視線を転じた。
倣って座り、月を見つめる。
黄金の光が己の周りに満ちる。
押し付けがましいほどに激しくはなく。けれど優しいというには圧倒的な光。
引きずり込まれる。
穏やかに溢れるが故に引きずり込まれる。
静けさが張り詰めている夜の空気。
ふたり並んでいるはずなのに、隣の友人に手が届かない感触。
太公望が月の高さに引きずり込まれているような。
いま自分が感じているのは不安だと気づいて、普賢はもういちど声を掛けた。
「望ちゃん」
こたび太公望は応えを返した。
視線は月に向けたまま。
「普賢。今宵その名に最も相応しいのはわしではあるまいよ」
ひととせのうち、最も完璧な満月。
望月のうちの望月。
欠けることのないその完全さに、普賢の抱く不安はいっそう掻き立てられる。
ふと彼は仙界にあがった日のことを思い出した。
「おぬしの名は?」
二人を前に元始天尊が問う。
「呂望と申します」
「ふむ。
おぬしの名は今日から太公望じゃ」
質問も反論もその余地はなかった。
名前には意味がある。
以来呼ばれるたびごとに、太公望は心のどこかで考えているに違いない。
自分を望む太公とは誰なのか。
自分は何故どのように望まれるのか。
そのうえ望月のように完全であることを、太公望は自ら求めているのだろうか?
「何いってるの。望ちゃんは望ちゃんでしょ」
努めて軽く。けれどはっきりと。
自分の不安を打ち消すように彼は言った。
思いのほか強い声が出てしまったのだろう。
ほんのすこし驚いたような顔で、太公望が普賢のほうへと向き直る。
やっとこちらを向いてくれたのだから。
彼を月の光に奪われたくない。
真摯な普賢の表情に、太公望はややあって優しく笑った。
「心配をかけてすまぬな、普賢。ちょっと言ってみただけだ」
太公望の笑みは普賢の不安を消していく。
いま黄金の光はただ穏やかに満ちている。
太公望が手の届くところに降りてきたと感じて、普賢も微笑んだ。
望ちゃんがどのように望まれるのかは分からないけど。
完全を望まれることだけはあってはならないと思う。
太公からも。望ちゃん自身からも。
それは人の手の届かないものだから。
互いの笑みを認めたふたりはついと 視線を外して空を見上げた。
「団子でも持ってくればよかったのう」
「そうだね」
優しく緩んだ夜の空気に、あらためて月を愛でる。
明るい光は不完全な人の世をあるがまま優しく包み込む。
欠けることのない美しい月。
手を伸ばしても届かないから。だからこそ眺め楽しむことができる。
ここは空の上であるはずだけれど。
月はまだふたりの頭上。
仙界が月の高さになくてよかったと、心から普賢は感謝した。
今年の中秋の名月は10月1日。
仲秋かと思っていたら、中秋が正しいようで。
旧暦8月15日夜を中秋といい、
旧暦8月を中秋または仲秋というのだそう。
あんまりはっきり嘘はついていませんが、嘘はないとも言えません。
詳細
。
七夕話に似てしまったでしょうか、
亭主、夜空の下の太公望が好きなようです。
仙界で「同期」がどれほどの意味を持つのか分かりませんが、
いろいろ勝手な設定です。
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