天空の泉
天を馳せるは、翼有る竜よ。
千里を行き、万里を越える、大いなる翼よ。
ベルンの天蓋を覆いたまいし翼の、高らかに響く声を聞け。
手綱を取り、翼を駆るは、ベルンの騎士よ。
もののふの誉れ、勇ましき王家の、槍は綺羅々に輝けり。
そのかんばぜは美しく、目は天空の青より清ら。
つはものと称えられし、ベルンの翼の勲を聞け。
越し方よりは今の世までも、竜と騎士とは共に有り。
常永久に謳われよ、ベルンの竜騎士よ。
夜半、暗闇を縫って流れてくるのは、吟遊詩人の歌う凱歌である。ここ、ベルンは峻峰に囲まれた、古の竜の国。その王城は天空近く、岩山の上に聳え立ち、大陸一の強者と歌われる竜騎士たちが守る。西の大国エトルリアが、華やかな文化の彩りを誇るならば、東の要ベルンは質実剛健の武勇を誇った。
ベルンの人間たちは皆、竜騎士とその番いの竜を誇りとしている。竜を謳った歌は市井の人々にことのほか好まれており、場末の酒場でも、流しでやってくる吟遊詩人たちに向け、歌ってくれと銭が投げられることは多い。
ラガルトのいる安宿にも、その歌声が流れてきていた。寝台を離れ、窓際近くのテーブルの上に置いてある酒に手を伸ばす。
「窓を閉めてくれ」
寝台の上からかけられた声に応じて、立て付けの悪い鎧戸を閉める。常には澄んだ感じの声が、今は、喉にかかってかすれている。
「お気に召さねェかい」
寝台のほうを振り返る。
そこには、腰のあたりだけを掛布で覆ったしどけない姿で、歌に称えられている当の竜騎士である男が臥している。
その手がゆっくりと上がって、顔を隠した。
「あまり―――こういう状態で聞きたいような歌ではない」
騎士としては細めの身体ではあるが、形よく鍛えられた筋は、竜を駆りながら長槍を振るうことのできる、人並すぐれた能力を顕にしている。緑の髪が敷布に散っていて、その中に銀色に光って見える筋がいくらか紛れこんでいる。
出合ってすぐの頃、その髪は染めたのか、と聞いてみたことがある。生真面目そうな表情の男は、生まれつきなのだ、と答えた。自分は竜騎士だから、身なりにかまけるようなまねはしない。そう答えた横顔から、硬く、青い印象を受けとった。
ベルンの逃亡兵、というありがたくない肩書きにもかかわらず、どこか作り物めいた清潔な印象のある男だった。話しかけてみれば、その心も、声も、きれいに澄んで堅い。自分とは正反対、それでいて、置かれた立場はとても近いものがある。奇妙に惹かれ、口を出し手を出しして、構わずにはいられなかった。
頑なな男は、こちらの問いかけに、ぎこちなく答えてきた。繰り返し話しかけ、からかい、怒らせてみたり、笑わせてみようとしたりしているうちに、ゆっくりと鎧が解けて来るのが分かった。
こっちの姿を見ると、目元だけで笑いかけてくるようになって、なんだ、そういう顔もできるんじゃねぇか、とまたからかった。
じきに、からかいに対し、戸惑いではなく、拗ねたような子供っぽい顔を見せるようになった。
随分と懐いたじゃねえか、と可愛く思っていたら、茹であがったような真っ赤な顔で、
「おまえが好きだ」
と言われたのである。
ラガルトは、差し出された堅く青い宝石をためらわずに手に取った。触れてみたその肌にも身体にも、思っていた通り、どことなく硬質で、なめらかに冷たい感触がある。
押し開いて、入り込んで、その堅さを内側から溶かしてやる。しなやかな身体は、つい先ほどまで、ラガルトの下でみだらに撓められていた。その声は、初めて他者を受け入れる苦痛と快楽に耐えながら、ラガルトの名を呼んでいた。
愛しい体、愛しい声。
ラガルトは、酒瓶を持ったまま、寝台に戻る。酒を口に含み、瞳を隠したままの男に口付ける。顔を隠す手が外され、唇は微かに震えながら、受け入れるために開いた。
唇を吸い、口に含んだ液体を流し込んでやる。ついでに、ぬるむ口内を軽くかきまわして唇を離すと、熱い吐息が追いかけてきた。
その、いつもは真っ直ぐに人を見据えてくる、薄い水色の宝石のような瞳が潤んで溶けている。
泉のようだと思う。冷たくて、甘い水を湛える、天空に有る泉。
「俺は酒には弱くて―――」
そう言いながら瞳を伏せる。
指を伸ばし、酒に濡れた唇を辿ってみる。指先にかかる息がひどく熱いのは、酒のせいなのか、体内に残る熱のせいなのか。
もう一度、唇を合わせる。唇で唇を嬲るだけの、浅い口付けをして、相手の息が肌に触れるのを楽しむ。
腕が背中に回ってきて、掴むでも、撫でるでもなく、ただそこに留まる。その温みが愛しいと思う。
まいったねェ―――
自分は何にも囚われることなく生きてきたけれど、背に留まる緩い枷に捉まるのはとても気持ちがいい。
「俺ァ、おまえさんが好きだ。ずっと一緒にいたい」
「俺も、おまえが好きだ。もう、どこにも居る場所がない俺だけれど、おまえといると安心する」
気恥ずかしいような言葉を真剣に交わす。
それから、ただ緩く抱きしめあって、たわいのない話をしようと思う。
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