それは……私が師匠のところで修行を始めて、数ヶ月経ったころの話だ。
 小学校が夏休みに入ったことで、私は一日中師匠の店の厨房で料理を学ぶ日々を送っていた。
 当時から有名な料理人だった師匠は海外に赴くこともしばしばで、その日、渡航を聞かされた私は喜んだ。学校が休みなら私も海外に付いて行ける。師匠もそのつもりで私に言ったようだったけれど――私はパスポートを持っていなかった。
 急な決定だったこともあり、出立は数日後。私のパスポートは発行が間に合わず、結局師匠は別の弟子を連れて発った。

 師匠が不在の間の私は、かつて師匠の弟子だった人が料理長を務める、大きな家の厨房にお世話になるよう言われた。
 あとから聞いた話では、師匠は自分が帰国するまで、私を親のところに戻すつもりでいたという。しかし縁あって直前に話がまとまったのだ、と。私は料理をしたい気持ちが強くあったので、知らないところで嬉しいご縁があったのはありがたいことだった。


 一週間の短期滞在では、兄弟子である料理長に付いて学ぶほかに、一つの課題を出された。
――「君がここで作る最後のディナーは、ご子息様の誕生日を祝うものになる。そのスープを君に任せよう」
 修行に出てから初めて一品を任されることになった私は、俄然張り切った。ただレシピ通りに作ったところで、兄弟子が首を縦に振るはずがない。空き時間に試作をしては兄弟子に味見をしてもらい、助言を仰ぐ毎日だった。
 一品に対してここまで深く考えたことは初めてだった。短期間だったけれど……だからこそ、と言っていいかもしれない。とても充実していた。
 悩んだ末、スープは前日の夜に兄弟子から認めてもらえるものに仕上がった。当日は仕込みに時間を使わなければならないので、本当に何とか間に合ったのだった。



 夜に出すスープの仕込みを済ませた昼下がり。わずかの自由時間に、私は今更ながらに建物内を歩いてみた。
 その日までは必死に試作をしていたので、厨房と与えられた部屋の往復ばかりだった。まあ……私は料理が大好きだから、それで特に困ることもなかったのだ。
 中途半端な時間帯だったこともあってか、一回お手伝いさんを見かけてからは誰ともすれ違わなかった。大きな家と聞いていたものの、だだっ広い廊下をポツンと一人で歩くのは、子供心を怖がらせるには充分だった。
 戻ろう、と思った時には遅く、同じような景色の中で私は完全に迷ってしまっていた。いざという時の携帯電話は何故か圏外で、頼れるものもない状態だった。

 うろうろと彷徨う中、曲がり角から見えた人影を私は縋るように追いかけた。しかしなかなか追いつかない。
「あ、あのっ!」
 私はたまらず声を掛けた。……振り返ったのは、何となく見たことのあるような男の人だった。
 呼び止めたその人に近づくと、思った以上に背が高かった。下睫毛が長くて、どちらかというときれいな顔をしているけれど、機嫌は良さそうでなく……私は彼に声掛けしたことを後悔した。
 見下ろされる視線が怖くてその場から逃げるに逃げられず、とどまっているうち、その人は不機嫌から怪訝に表情を変えて口を開いた。

「……お前……何でこんなとこに居るんだ」
「な、なんでって……料理するからです」
 しかし彼は、じいと私を見るばかりだった。無言の威圧に、もっと何か説明をしなければと、私は頭の中に散らばる言葉を繋ぎ合わせた。
「シェフが、ししょうの弟子だから、ええと――」
「いつから居たんだよ」
「えと……5日くらい前? です」
「5日前? ずっと居るのか?」
「あした、帰ります」

 彼は少し考えたようにしてから、そうか、と返した。とりあえず私がここにいる理由は納得してくれたらしい。だが、ほっとしたのも束の間、彼は更に続けた。
「……お前、灯滝実ノ梨だろ」
「わ……私のこと知ってるんですかっ」
「前に店で会ったろーが。オレを覚えてないのか」
 彼は師匠のお店で会ったお客の人だから、何となく覚えがあったのだった。師匠がテーブルをまわる“ごあいさつ”には何度か同伴していたけれど……誰が誰だかは、もうわからなかった。
 ただ、ここの主には数日前に会っていて覚えていたので……それを一か八かで、答えてみた。

「…………えっと、トーワ、さん」
「ここに住んでりゃ、だいたい塔和だろ。名前だ名前」
「トーワの、お兄さん。」
「……灰慈だ」
「わかりました。あの、私、道にまよってて……ちゅうぼうはどっちですか?」
 苗字は正解だった。彼はここの家の人だったのだ。
 そのトーワの人は、まくし立てた私をすぐに厨房まで連れて行ってくれた。……怖そうに見えて、親切な人――そんな印象を持った。





 ディナーは滞りなく、全ての料理が提供されていた。
 その最後、兄弟子に連れられた私はテーブルの前で挨拶をした。ここの主こと塔和十九一氏ほか、彼の家族や親類と思われる面々を前に、名乗って一礼する。
「――本日のスープ、ヴィシソワーズは彼女によるものでございます。如何でしたか」
 兄弟子の一言に、彼らはざわめいた。大の大人が作った品々と遜色ないものを、年端もいかない子供が作っていたことに対する、驚きだ。
 私が師匠のもとで修行していることを明かすと、納得した表情で唸る。
 そんな中で十九一氏だけは自慢気な顔をしていた。

「そうか、やはり……もちろん美味であったよ。シェフのヴィシソワーズも素晴らしいが、また違う良さを感じた。……さすが“料理界の至宝”の愛弟子だ」
「ありがとうございます、トーワのおじさん」
「今度はお店で君の料理をいただこう。今から楽しみだ」
「はい!」
「ヴィシソワーズは今日の主役も絶賛だったな、灰慈」
 私をここで預かる手筈を整えたのが、この十九一氏だ。彼が満足そうに見ていたのは、さっき私を厨房まで連れて来てくれた男の人だった。

 十九一氏とは対を成すように、灰慈と呼ばれたその人は、あまり楽しそうではなかった。
 兄弟子や十九一氏からどことなく会話を促されたので、私は恐る恐る近づくと彼に話し掛けた。
「……こんばんは、トーワのお兄さん」
「お前……ちょっと来い」
「?」
 バチリと目が合った。睨むとも違う鋭い視線だった。
「親父、お開きでいいだろ? 後は自由にさせてくれ」
 ほどなく十九一氏の諦めたような返事を聞くと、彼は立ち上がって私の手を取った。


 手を引かれて廊下を歩くも、私は事情がよくわからないままだった。
「あの、トーワのお兄さん、なんで――」
「ハイジ。オレの名前は灰慈」
「……はいじ、さん」
「たった三文字だ、覚えろ。次からそう呼ばねーと、お前の料理食うのやめるぞ」
 どうも彼は、私に呆れたような、怒っているような感じだった。
 数回会った程度の人の名があやふやになっても仕方がないと、今の私なら思うのだけれど……でも、それだけではない気もした。

「やめたらイヤです、えっと……灰慈さん。……あっ、それでさっき、ごはん食べるのやめちゃったんですか?」
「オレは食べ終えてた」
「……おいしかった、ですか?」
 おずおず、聞いてみると、一瞬私に目を遣った。
「……ああ、美味かった。お前が一人で作ったっていうヴィシソワーズも気に入った」
「ほんとですか!」
「何がどうとか細かい事は知らねーが、オレは好きだし、また作って欲しいと思う。……大したもんだ」

 てっきり私の料理が気に障ったものと思ったら、むしろ真逆の答えが返ってきて安心した。
 その頃の私は特に、自分の料理を好いたり褒められることが堪らなく嬉しかった。そして、その気分のままに喋ってしまうのだ。
「ヴィシソワーズ……今日は、ごしそくさまって人のたん生日ってシェフが言ってたから、おめでとうって思いながら作りましたっ」
「……お前、“ごしそくさま”が誰だか知ってんのか」
「わかんないです。でも……おいわいするごはんだから、私もおいわいの気もちです」
「……ふーん」

 ホールみたいな広いところに出ると、灰慈さんは手すりの前で歩くのをやめた。
 ぽっかりとあいた吹き抜けだった。私は何気なく隙間から下を見て、ちょっと足が竦んだ。
「は……灰慈さん、も、おいわいしたんですか?」
「オレは、いーんだよ」
「なんで?」
「“ご子息様の誕生日”なんざ、どーでもいい。」

 忌々しげに吐き捨てた灰慈さんは、黙って前を見るばかりだった。
 彼は“ごしそくさま”を良く思っておらず、あの場に居るのが嫌で……私を連れ出すことを口実に場を離れたのかな、と、無言の間に考えた。
 ただ……灰慈さんが好きじゃない人であっても、あんなに集まって祝われるのだから、それだけ大切な人だろう。
「……でも、ごしそくさまがだいじだから、みんなでおいわいしてると思います」
「大事、なあ……そりゃそうだ」
 少し俯いた溜め息混じりの声は、さっきの十九一氏の諦めたような返事によく似ていた。


「まあ……でも、今日はいい日だ」
「そうなんですか?」
 そんな言葉が出てくるとは、とても意外だった。昼から彼を見た限り、楽しそうな素振りは何一つなかったし、笑ったところも見ていなかった。……そういう人なのかと思っていた。
 灰慈さんは繋いでいた私の手を握り直すと、こちらを向いて中腰になった。
 目線が合ってあらためて見ても、彼の顔は端正だった。明るい表情を見せないだけに、余計にそう感じた。

実ノ梨、またここに来いよ」
「えーと……ししょうとシェフに聞いて、よかったら来ます」
「……社交辞令でも“はい”って言うとこだ」
「はい……?」
「それでいい」

 空いたほうの手で私の頭をひと撫でして、灰慈さんは「部屋まで送る」と元に直った。
 顔が遠のく一瞬に、口の端が上がるのが見えた。笑った、と思って見上げたものの二度はなかった。……笑顔を見られなかったのは、ちょっと残念だった。
 私の胸の内を知らずに灰慈さんは手を引くので、やや後ろから横顔を見上げつつ彼に付いて行った。
 部屋まで案内してくれるのは、やっぱり親切だと思いながら。


【Happy Birthday!! Haiji Towa 8/9】

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