【C】
ノックの返事を待たず、朝日奈と葉隠が順に中へと入る。
「実ノ梨ちゃん、入るね」
「よっ実ノ梨。大丈夫か?」
パーテーションのカーテンを開けて、朝日奈が葉隠を灯滝のほうへ遣ると、灯滝は葉隠が来たことに少し驚きを見せた。
医務室に居たのはベッドに横たわる灯滝一人だった。軽度の熱中症とのことだったが、スタッフが離れていられる程度には落ち着いた容態らしい。
「ごめんね、私はすぐ戻んなきゃなんだけど、葉隠置いてくから、何かあったら世話頼んで。あっでも頼りなかったら即行で看護スタッフ呼んで」
朝日奈はてきぱきと用件を伝えていく。
「だーいじょうぶだって。任せろ朝日奈っち」
「本当は私が付いていられれば一番なんだけどさ」
「ううん。仕事終わってないのに、ここまで……ありがとう」
いじけたように唇を尖らせる朝日奈に、灯滝は眉を下げる。朝日奈が仕事を残している原因に自分の事情も絡んでいると、薄々感じているのだ。しかし朝日奈はそんな素振りなどまったく出さない。
「お礼なんて言わないでよ……でも、元気になったら、ドーナツよろしくねっ」
「もちろん」
「それじゃ、お大事にね。……葉隠、しっかり付いててよ」
「へーへー。朝日奈っち、案内どうもな」
灯滝には笑顔、葉隠には念を押して厳しい顔。コロコロと表情を変えて告げると、朝日奈はカーテンを閉めて去っていった。
朝日奈にひらひらと手を振り、カーテンが閉まると、葉隠は灯滝の方に向き直った。
側にあった椅子を引き寄せて腰掛ける。背もたれのない簡素なパイプ椅子は、大の男には些か小さかった。
葉隠は横たわる灯滝に顔を寄せた。普段より顔色が悪い。瞳はどことなくぼんやりして、動きが緩慢に見えた。
「……葉隠くん」
「だーから熱中症は怖いっつったべ」
「ごめん……」
はあ、と葉隠が大仰にため息をつくと、灯滝は申し訳なさそうに呟いた。
「まさか、こんなになるとは……」
「オメーはどんだけ料理に夢中なんだか……水も塩もすぐ近くにあったべ?」
詳しい状況は分からずとも、何となく想像はついていた。葉隠が言わんとすることは灯滝も察したようで、だが図星らしく押し黙る。
「……で、でもね。点滴打てば治るんだって。そんなに重症じゃないんだよ」
「一般人が点滴打ってんのは普通じゃねーぞ」
「う……」
「とにかく。早く良くなるように、安静に。まだ、だるいんだろ? 寝とけって」
今日の灯滝は反論への返しも鈍い。考えて喋るという行為も普段通りにはいかないのだろう。葉隠に言われるばかりだった。
しかし寝るように促された灯滝は、なかなか目を閉じようとはしなかった。困ったように葉隠を見るだけだ。
しばし、空調の控え目な機械音が空間を支配する。
葉隠は、見つめ続ける灯滝の前髪を横に流して、耳に掛けるように指先を滑らせた。指の腹で、首元に寄った髪を薄く掬って撫でる。指の背は彼女の頬の外側をなぞった。冷房のせいか、少しひんやりとしていた。
ふいの感触に灯滝は顎を引いた。
「……あのね、もうだいぶ楽になったから、葉隠くんも仕事に戻って大丈夫だよ」
「なっ、俺を追い出すんか、実ノ梨っちの薄情者っ」
「そうじゃなくて……わざわざ仕事抜けてきたんでしょう? だったら」
「や、それがちょうどいいんだ」
灯滝は意味を解りかねて、きょとんとする。彼女の額に手を当てた葉隠は、納得というように、うん、と頷いた。
「俺は寝るべ。実ノ梨も早いとこ寝た寝た」
「…………サボりは、よくない」
「うんうん、おやすみ実ノ梨……起きたら元気になっててくれなー」
ようやく思い至った灯滝の咎める言葉を、葉隠は敢えて拾わなかった。僅かにしわの寄った薄い掛け物を整えてやり過ごすのだった。
*
いつものように押し返すことができない灯滝は、不満の顔を作る。しかし葉隠はイスに座り直ると、器用に横の棚側へともたれて目を閉じてしまった。
これ以上言っても彼が寝るのをやめるとも思えず、灯滝は思いのやり場なくその顔を見つめる。
灯滝の不調にかこつけて体よく仕事を抜けられた、と言うわりに、葉隠に浮かれた様子はなかった。
見舞い目的かサボり目的か、あるいはどちらも含んでいるのか、彼の真意は掴めない。
灯滝は時間を掛けて、ひどく検索しにくい状態の頭の中から記憶を探し出すことにした。
――「熱中症って脳みそがフットーしちゃうらしいべ! おお怖っ……」
……確かに、そんなことを以前に言っていたような気がしてきた。思い返したから治るわけでもないが、葉隠は自分との些細な会話をよく覚えていたものだと思う。
ただ彼は思うままに動いているだけなのだろう。それでも……何かと自分を気に掛けている気がするのは、自惚れではなさそうだった。
葉隠はベッド横の、ちょうど灯滝の肩口あたりに座っていた。間近の腕を上げれば彼の膝に届くだろう。
思い立った灯滝は手を動かした。が、気付く。
この腕は点滴の真っ最中だった。動かす度に点滴の管がついてくる。刺さった針の違和感も加わって、灯滝は顔をしかめて腕を戻した。
自由の効く逆の腕を掛け物から抜き出してもみたが、こちらは身体ごと動かさない限り触れることは叶いそうにない。
……1メートルもない、なんてことない距離。しかし身体が普段と別物のように重い。
強引にできなくはない、と思っても……だるさと頭痛が意思を歪めて、彼との距離ををこんなにも遠くする。
名を呼べば葉隠は目を覚ますだろうか。こちらに寄ってくれるだろうか――。
無性に恋しかった。……自分は弱っているのだ。今さらながらに、そう感じる。
ああ。早く治さなければ。早く治って。…………だけど、今は、……すがりたい。
*
「……葉隠くん」
小さな呼びかけに、葉隠はゆっくりと瞼を開けた。まるで、今の今まで微睡んでいたかのように。
そのまま瞳を灯滝に向ける。彼女の瞳は、すでに切々と訴えていた。
見るや、葉隠は緩慢な動作をするのも忘れて、棚に寄り掛けていた身を起こした。
「どうした」
「手……」
点滴の管が静かに揺れていた。
その片腕が出るように、葉隠は掛け物を捲る。素人目だが点滴に異常はなさそうだった。
目線を腕の先に遣った。灯滝の手は、指が内側へと緩く丸まっていた。――寂しげだった。
彼女に足らなかったものを、葉隠が乗せた。しっかりと、握った。
灯滝がやわらかく握り返す。
同じ部位の皮膚が触れ合い、重なって、ぬくもりが伝わってくる。
挟まっていた小さな氷が少しずつ解けるように、灯滝の口元は次第にほころんでいった。……待っていたのだ。
葉隠は空いている手で掛け物を直し、灯滝の頬に触れた。すると瞼が、そっと下りていく。
「おやすみ、実ノ梨」
「……ん」
満たされたような、短い返事。
ようやく微笑んだ彼の顔は見えただろうか。
瞳を閉じた彼女の髪を、葉隠は再び撫でた。
ベッドに横たわる灯滝は胸を緩やかに上下させていた。すうすうと規則的な寝息――ようやく浅い眠りに落ちた、といったところか。
葉隠は、ふっと息をついた。自分が医務室に来た時にはすでに症状の重い時期を抜けていたようだが、それでも肝を冷やした。
体調が優れない時、不調を知覚することでかえって眠りにつきにくいことがある。
何となくでやってみたものの……この様子の灯滝を見るに、葉隠は間違っていなかったのだろう。
繋いだ彼女の手を上に辿れば、いかにも病人らしい代物が腕に刺さり、テープで固定されている。
人工的な管の先、点滴パックは未だ袋の半分といったところで、しばらく終わりそうにない。誰かが処置に来るまで余裕がありそうだ。
どちらにせよ、この手は灯滝から離すまで解く予定はないので、葉隠には何ら関係ない話なのだが――。
「……ふあ……っ」
ふいに欠伸が出てきた。手先が温まったせい、もあるが……自分まで気が緩んだらしい。
そろそろ本当に一眠りでもしようかと、葉隠はゆっくりと瞼を閉じた。