「葉隠くん、ここに居たんだ」
「お、終業したか。お疲れさん、灯滝っち」
「お疲れさま……」
先に上がったはずの葉隠が見当たらず、しかし端末はデスクに置きっぱなし。連絡の取りようがなかった灯滝は、近くに居るはずだと葉隠を探していた。
もしかしたら、と開けたのは、突き当たりの非常階段に続くドア。彼が厄介事や人から逃れる時に使っているのを、灯滝は知っていた。
……結果は案の定。彼女の読み通りだった。
呼び掛けた声に葉隠は振り返ると、一瞬白い息を見せて灯滝に応えた。
「どこに行ったのかと思った……端末置いて出るの、やめてよ」
「あー、灯滝っちにだけ分かればいいかってな」
「それに、あまり一人で外に出るのは」
「建物内みたいなもんだろ? 未来機関管轄の、こんな微妙な場所を攻めねーって。万に一つ、ここで死ぬっつったら超絶スナイパーのヘッドショットくらいだべ」
「自分の頭吹っ飛ぶのも、葉隠くんが頭吹っ飛ばされるの見るのも、願い下げだよ……!」
事あるごとに「死にたくない」と言っている割に、葉隠の危機管理はどこか抜けていた。“卒業”してから度胸が付いた……というわけではなく、根が楽観的なのが原因だろうと灯滝は思っている。
「ま、こっち来い来い。」
「戻らないの? 寒いよ?」
「だから来てくれって。ちょっとだけ、ここに」
手招きしても近づこうとしない灯滝を引き寄せて、葉隠は後ろから抱きしめた。
灯滝は戸惑いの声を上げる間に、階段の柵と葉隠の間に入れられてしまった。更に彼のコートで包まれ、抱えるように前で腕を組まれては、もはや自力では出られなかった。
「まだまだ寒いから、羽織り無しじゃ外に居られんだろ?」
「いつも風通しの良さそうな着こなししてる葉隠くんに言われても、説得力が」
「そういうわけで俺もあったかいから、このままで頼むべ」
「はあ……」
背高細身な葉隠のオーバーコートは、ぴたりとくっ付けば、それなりに灯滝を覆うことができた。
コートから頭は出ているものの、灯滝が葉隠に向いて文句を言うには密着しすぎて余裕がない。
真冬の夜には勝てなかったのか、羽織りに袖は通さない性分の葉隠がジャケットにコートまで着込んでいた。前を留めないのは相変わらずだったが、やはり寒かったのだろう。カイロまで入れているらしく、彼のスラックスのポケットあたりがやけにぽかぽかした。
屋内は暖房が効いていて、冬でも厚く着こまない。そのままの服装で出てきた灯滝としても、葉隠に身を寄せれば寄せるほど適温へと近付いた。
ワイシャツ越しに感じる彼の温かさが、灯滝の言いかけた抗議をじんわりと、うやむやしていく。葉隠のおかしな言い草と、それを呑んで許してしまう自分に……ため息が出た。
*
「ここで一服してたの?」
「おや、分かるか」
「わかるよ。吸ってない人のほうが匂いに気付くから」
「……そうだな」
煙草の香りは、周りから感じるような吸いたてのそれではなく、灯滝の頭の上で喋る葉隠の口元から漂う程度のものだ。灯滝は、葉隠に抱きつかれてから気付いたのだった。
「タバコ、珍しいね」
「俺は吸わんでも生きていけるが……たまーに、この匂いに触れたくなるんだべ」
そこで話を切って、葉隠は外を眺めた。
ぽつぽつとまばらに見える灯りは、二人の立つ非常階段の薄暗い蛍光灯と同じく、夜を照らすには未だ心許ない。……それでも灯のあるところに、必ず人は生きている。
彼らはしたたかに生活を続ける市民かもしれないし、絶望に染まった暴徒かもしれない。あるいは……長らく会えていない自分の身内、かもしれない。
今の葉隠に、それを知るすべはなかった。
だから時折、葉隠は気紛れを装い、名残りを求めて紫煙を纏う。……少しでも気が紛れるように。
葉隠の言葉に対する灯滝の反応は、ふうん、の一言だった。そのまま、葉隠と同じように非常階段からの景色に目を遣っていた。
もっと聞いてくると思っていた葉隠には、肩透かしだった。その素っ気なさに、詮索されない安心感と少しの寂しさが湧く。
「……よし。ぎゅうぎゅうにして、灯滝っちに匂いをお裾分けだべ」
冗談めかして、葉隠はいっそう灯滝を抱きしめた。
匂いを移して、こちらの色に染めたいのか、それとも、そこに灯滝以外を見出したいのか。……どちらにしても、温かい彼女を手放す気は起きなかった。
*
「う、私つぶされる……?」
「ん? 胸は潰さんから心配せんでも」
「そういう話じゃ……うう、」
灯滝が必死に腿をたたくので、葉隠は渋々ながら拘束を緩めた。それでもなお、彼女はモゾモゾと動いて出たがる。
「私、渡したいものがあって探してたんだよ。出して」
「いーやー、だべ」
「じゃあ、まずは聞いて……」
灯滝の頭の上に顎を乗せ、葉隠が要求を拒むと、彼女は抗うのをやめた。その代わりと言わんばかりのため息の後、言葉で働き掛けた。
「葉隠くん、今日がバレンタインデーって知ってた? その……こんな世の中だけどさ、出来るだけ普通っぽいことをしたくて……チョコレートを用意してたんだ」
「バレンタインデーなあ……いろいろ貰えるお得な日だったが、今じゃそんな雰囲気欠片もねーべ。……で、それでもオメーは、チョコを、用意……」
キーワードを踏まえた葉隠は、思い出す。
今日の灯滝は、会うたび必ず誰かと話をしていたことを。そしてその都度、誰もが彼女に笑みを見せ、彼女も嬉しそうにしていたことを。
「……あーっ! あれってもしや、皆にチョコ配ってたんか……!」
「あ、見てたか……。葉隠くん、朝はまだ出ていたでしょ? 戻ってなかったから、いっそ最後に渡そうと思って……ごめんね」
後から立て込んで話すのが遅くなったのだと、灯滝は申し訳なさそうに言った。
イベント事にうつつを抜かすような環境でないと承知の上ながら、灯滝は日頃の感謝を込めたチョコレートを、会う人会う人に振る舞っていたのだった。
「もの作って食べてもらうのが、私なりの希望の作り方かな、って。……でも、イベントにかこつけて、私が思いっきり作りたかっただけなんだ。自己満足だね」
「なんだ……俺はてっきり、出張業務から戻って来たら灯滝っちが鞍替えを図っていたのかと……」
「えええ! 違うから!」
「老若男女問わず行ってたし、ずいぶん見境ねーなって」
「……なんか、ひどい誤解が生じていたんだね……」
灯滝と接触できずにいた数日間と、今日の彼女の動き。それらで募った灯滝への不満から、葉隠は今に至っていた。
普段は吸わない煙草を持ち出し、違う存在を想って、けむにまいてみたり。灯滝を試すように、ここまで誘導するような真似をして、我がままに付き合わせたり。
相手が去ろうと何処吹く風なはずの葉隠が、灯滝に対しては別の顔が出てくる。
……振り返ると、なんともバツが悪かった。
しかめた顔を灯滝に見られない体勢でいたのは……葉隠にとっての幸いだった。
*
「……えーと、つーことは今チョコ持ってるんか? ……潰れるってか、溶けるべ!?」
チョコレートの危機と思い至ると、葉隠は慌てて腕を解いた。
解放のカギがチョコレートとは思いもよらなかったが、ようやく自由になった……と灯滝が思ったのも束の間、今度は葉隠の手が脇腹付近や胸元を服越しにまさぐってくる。
せわしない動きでも、いかがわしさは感じない。葉隠はチョコレートを――袋や箱の所在を確かめていた。
「さ、さすがに今は持ってないよ。デスクに置いてるから安心して、そしてもう探さないでっ」
臀部に触れる葉隠の手を掴んで剥がすと、灯滝は葉隠に向き直った。離れた背中が空気に触れて冷たいが、しっかりと彼の表情を窺えたのは久方振りだった。
「いやあ、てっきり伸したか溶かしたと……。灯滝っちの手作りなのに、ダメにしたら勿体ねーってお化けが出るべ」
「手作りって言っても、そんな凝ってないし……みんなと同じもので……」
「物は一緒でも……送る俺への気持ちは、特別なんだろ?」
軽口のように聞こえるわりに、灯滝を見る葉隠の瞳は真面目に見えた。
葉隠の言い回しは、自信があるようにも、確かめたくて訊ねたようにも取れる。
……灯滝にとってはどちらでも構わなかった。自分が素直に答えることが、正解だと思った。
「……うん。」
「だったら充分だ。ありがとうな」
たった一声から受けた返答は、灯滝にとってこの上なかった。照れが入って、瞬間的に頬が熱くなる。
葉隠は目を細めて笑っていた。
自分だけに向けられるその表情が、灯滝は堪らなく好きだった。
「じゃ……後で、貰ってね」
「もちろんだべ。」
「……ありがとう」
言葉は尻すぼみに小さくなった。
嬉しくも恥ずかしく、灯滝は葉隠の胸に顔をうずめて隠した。
葉隠が頭をやわらかく撫でれば、思いはさらに込み上がり、灯滝は彼のジャケットの前裾を強く握るしかなかった。
それでも溢れて、言葉が、口をついて出る。
「私……大好きだよ、葉隠くんのこと……」
「……俺も実ノ梨が大好きだ。……だから、こっち向いてくれ」
灯滝はこのままでいたかった。今は、葉隠をまともに見られない。
それに……顔を向けたら、どうなるか。
感付きながらも――ついに、灯滝は彼の思いに従った。
前裾を掴む手をそっと緩めて、灯滝は見上げた。――目が合う瞬間を、葉隠は待っていた。
彼女の頬をひと撫ですると、そのまま顎に手を掛けて、葉隠は唇を合わせた。
一度離れて、灯滝を見つめる。唇の感触にまぶたを閉じた彼女が、ゆっくりと瞳を開く。その終わりを捉えたところで、葉隠は強くその身を引き寄せた。
食まれる唇。煙草の匂い。わずかな苦味が、灯滝の胸の奥をいっそう騒がせる。
灯滝を甘やかに溶かそうと企てる彼の舌が、腔内で誘う。灯滝は拒む素振りをせず、慣れないなりに同じものを差し出した。
触れ合う舌先に身体が震える。涙が零れる。……好きだ、好きだ、好きだ。
何度言ったとしても伝えきれない想いを、灯滝は口づけで懸命に訴えた。
XXX
*
どちらからともなく唇が離れると、葉隠は静かに灯滝を捉えてしばらくそのままでいた。
互いの口から零れる息が、刹那に白く現れては夜に溶けて消える。
……夢中、だった。
薄明かりにきらめく灯滝の口元が、潤む瞳が、一部始終を物語っていた。
彼女のひたむきな想いに応える――それ以上に、自分は彼女を求めている気がした。
「……ああ。実ノ梨は実ノ梨だな。催すべ」
彼に踏み込んで賑やかしていく有象無象でもなく、あの煙草の香りを纏った特別な存在とも違う。
他の誰にも抱かない感情に、葉隠自身が振り回されていた。
「……いまにも?」
「今にも。」
「……ん、帰ろう……」
「よしきた。」
半ば夢心地で灯滝がゆっくりと返すのとは対に、爛々と逸る。
離せばその場にへたり込みかねない彼女を支えて、葉隠は長居をした非常階段をようやく後にした。