虜 〜始まりのハナシ〜


 虜

1.

あの時から、幸せな恋が始まるのだと思っていた。


・・・だけどそれは、大きな間違いだった。



「第2学年2学期、期末考査の答案を返却する。名前を呼ばれた者は、速やかに取りに来るように。」
自分の出席番号が一番最後である事を、恨めしく思う。
次にそう思うのは3学期末のテストで、同じく数学の答案用紙を返してもらう時だろう。

――先生が好きです。

放課後の数学準備室。夕日が差し込むこの部屋でそう告げた時、先生の眉間に皺が寄った。
『恋愛するのは勝手だが、学生の本分は勉強だ。』
冷たい刃が身体に食い込んでくる。
激しい動悸の中、振られたんだと納得して、数学準備室を出ようとした時、力いっぱい二の腕を掴まれて・・・唇が塞がれた。
状況が飲み込めないまま、私の歯列を割り、先生の舌が潜りこんで来た。
初めてのキスは余りに激しくて、心臓がおかしな脈を打った。
ゆっくりと先生の舌先が、私の舌に絡んでくる。
綺麗な音を奏でる指先が私の髪を撫で、首筋を這う。
『・・・ん・・・っ・・・。』
やっと声を洩らすと、長い間重なっていた唇が開放された。
『・・・せんせ?』
長い長いキスで、頬が熱くなっている。
『・・・続きは期末考査の結果次第だ。』
先生はいつものままで、まるで何も無かったように私を蔑視していた。
『あの・・・。』
おずおずと先生の言葉の意味を尋ねようとすると、先生は私にクルリと背を向けて元居た席へと戻る。
『勉強との両立を期待している。』
『ハイ!』
私の想いを、受け入れて貰えた。
それだけで、私は幸せだと思った。


先生の唇が、私の名を呼んだ。
他のクラスメイトと、何も変わりのない声のトーン。
私は短く返事をすると、不自然にならない程度に先生の元へと急いだ。
「よくやった、満点だ。」
表面的には褒め言葉。
でもそれは”氷室先生”の言葉。
「ありがとうございます。」
私も生徒の顔をして、担任教師からの賞賛に応える。
答案を受け取り、席に就くと誰にも気付かれないようにそっと答案の裏を見た。

今週土曜日、18:00。 
はばたき駅西口、正装で。

満点のご褒美への招待状に、私は口端だけで笑うと、ペンケースから赤いペンを出して先生の解説に耳を傾けた。




最近出来たばかりの、50階建てのシティホテル。
その最上階のレストランで、先生と食事をした。
料理はきっとすごく美味しいものなんだろうけど、私には緊張でその味が解らなかった。

「先生。今日はありがとうございました。」
エレベーターを待ちながら、この幸せな一時をくれた先生にお礼を告げる。
「まだ、帰さない。」
そう言うが早いか、軽い鐘の音がエレベーターの到着を告げる。
先生は踵を返して、エレベーターに乗り込んだ。
オロオロする私を、先生が目で乗るように促す。
ドアが閉まると、先生は36と書かれたボタンを押した。
「え?」
状況が飲み込めないで、ぼんやりを階数を知らせるランプを眺めていると、先生が私を壁に押さえ込んだ。
「・・・せんせ?」
質問を許さないと言わんばかりに、唇が塞がれる。
初めてのキスよりずっと乱暴で、唇が引きちぎられそうに痛い。
・・・怖い。
頭が咄嗟に危険を感じると、さっきまでの浮かれた気分が嘘のように引いてゆく。
「・・んっ!」
必死で身をもぎ離そうとしても、先生との力の差は歴然だった。

鐘の音と共に、エレベーターが止まる。
先生は私を解放すると、何も無かったようにエレベーターを降りた。
「・・・来なさい。続きはこれからだ。」
逃げようと思えば、出来た。
なのに私は逃げなかった。
何の抑揚もないその声に、私は・・・恐怖以外のものを感じてしまっていたから。


先生が慣れた手つきで鍵を開けると、私の部屋位の広さのリビングが目に入った。
その奥には、大きなベッドらしきものが、うっすらと見える。
「服を脱ぎたまえ。・・・満点のご褒美が欲しいのだろう?」
部屋のドアを閉めるなり、嘲るような口調で先生は私に言った。
「・・・服、ですか?」
私は唾を飲むと、ドアへと向かう。
「・・・帰ります。」
屈辱的だった。まるで私が男に飢えているかのような扱いに、腹が立つ。
「無駄だ。そのドアは開かない。」
先生の足音が、近づいてくる。
私はそれを無視して、ドアノブに手を掛けた。
「・・・無駄だと言っている。」
言葉通り、ドアは開かない。
先生は私の手をドアノブから引き離すと、薄笑みを浮かべて私を見下ろしていた。
嫌悪感が、急速に膨らんでくるのを感じる。

・・・何故、こんな男を好きなんだろう。

食事を終えるまでは、先生は真面目で・・・誠実な人に見えた。
マナーも心得ていて、全てにおいて完璧な人なのだと改めて尊敬しなおしたばかりだった。
・・・あれは演技だったのだろうか?
そう思うと、後悔が波のように押し寄せる。
「・・・開けて下さい。帰ります!」
目の前に立ちはだかる男の顔から、目を逸らす。
「誘ったのは君だろう。」
「は?」
言いがかりだ。私がいつ先生を誘ったと言うのだろう。
「・・・無意識か?君のその眼差しは。」
顎を掴まれ、無理矢理顔を上向かされる。
「気付いていないのなら、教えてやろう。君がいつも私に向けていた視線。
 あれは男を誘う眼差しだ。・・・私はそれに応えてやっているだけだ。」
先生の眼差しは、いつも以上に鋭い。
私はその視線に、軽い眩暈を覚えた。






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