虜

5.


先生がくれた二度目のご褒美は、私を大きな迷路へと閉じ込めた。

身体の火照りは家に帰って食事をした後も、消える事は無かった。

明日は、天之橋さんとデートだっていうのに。

早めに眠ろうと部屋の明かりを消しても、もやもやが抜けずに眠れない。
火照りの中心に手を伸ばす。
『無駄だ。』
不意に先生の声が、耳元に蘇った。
その言葉通り、一人では達っする事が出来ないのを知ってしまった。
どうにもならないというのに、先生の指の動きを身体が克明に思い出す。
同時に頭が先生の詰問を再生し出した。

―私はそんなに、君の父親に似ているか?
―幼少期に欲しくて堪らなかった父親の愛情を、私に求めているのだろう?

何を求めているのか、自分自身でも解らなくなってしまった。
あの時責苦に喘ぎながら言った事が、どこまで本心なのか解らない。
快感が欲しくて先生の望む答えを口にしたのか、それとも先生が言うように私は父の愛に飢えていて、
遠い記憶の中に住む父と雰囲気の似た先生に、恋心を抱いているのか。
「・・・解らない。」
大きく溜息をつくと、私は眠る事に集中した。


ホテルのロビーの柱に寄りかかって、天之橋さんを待つ。
「待たせたかな?」
背後から耳に心地よい声がして振り返ると、少し髪を乱した待ち人が立っていた。
「いえ。私もさっき来たばかりなので。」
「じゃあ、行こうか。」
天之橋さんに促されるまま、私はエレベーターに乗り込む。
先生と行ったホテルのスカイラウンジで、天之橋さんと過ごすのは少し不思議な感じがした。
天之橋さんは優しい。
私が黙ると、さりげなく会話を繋いでくれる。
エスコートもバッチリで、紳士なんだなぁと改めて感じる。
こういう人に愛されたら、きっと幸せなんだろうと思う。
「・・・どうしたんだい?」
じっと見つめる私に、天之橋さんは困った顔をする。
「いえ、素敵だなぁと思って。」
私の言葉に、天之橋さんは頬を染めて俯いた。
「・・・期待してしまうよ。そんな目をして、そんな事を言われると。」
「え?」
「何でもないよ。折角のラウンジだ、君も一杯ワインなどどうかな?」
ソムリエを呼び寄せると、慣れた様子でオーダーをする。
「シャンボール・ミュジニー・レ・ザムルーズ」
フランス語のようなオーダーを受けると、ソムリエは私の方をちらりとみて微かに笑みを浮かべると、天之橋さんに何かを囁いた。
「・・・何なんですか?」
不機嫌を隠さずに天之橋さんに問う。
知らない人に笑われるなんて、気分のいいものじゃない。
天之橋さんはナイフを動かす手を止めると、困ったような顔をして私を見る。
「私の望み・・・かな。今だけは、あのワインを飲み干すまでは・・・“そう”有りたいと願っているよ。」
私には、その言葉の意味が解らない。
でも天之橋さんの眼差しは、これ以上の追及を飲み込ませた。
「失礼致します。」
沈黙を破るように運ばれてきたワインは、今までのワインのイメージを打ち消した。
アルコールの嫌な刺激もなく、柔らかく口の中に香りが広がってゆく。
「お気に召したようだね・・・もう一杯いかがかな?」
薦められるままグラスを差し出すと、綺麗な赤い液体が注がれる。
グラスの向こうには、優しい笑みを浮かべた紳士。
アルコールも手伝ってか、私は軽い眩暈を覚えた。


「今日は・・・有難うございました。」
食事を終えて席を立ち天之橋さんにお礼を言うと、目の前がぐらぐらと回る。
「おっと・・・。」
天之橋さんに抱きとめられ、胸が高鳴る。
満たされない身体が、厚い胸板に過剰反応しだした。
「ちょっと飲みすぎたかな?」
低く柔らかな声が、近い。
見上げると、優しい眼差しに出会う。
「・・・その瞳は、罪だね。」
耳元で甘く囁かれ、身体が痺れる。
身体が、“男”を強く求める。
「少し・・・休んでいくかい?」
私は黙って頷くと、先を行く天之橋さんの後について行った。


「く・・・ふ・・・。」
腰を這う舌に、身体が震えた。
先生とは違う・・・優しさに満ちた愛撫。
身体は欲しいものを得て、淫らな蜜を溢れさせている。
天之橋さんの手を取り、そこへ導くと何の抵抗も無く指先を飲み込んだ。
「・・はんっ・・・・・。」
もっと欲しいと貪欲に脚を開く。
指を繰る度、シーツの中から粘りのある水音が聞こえた。
彼はシーツに潜りこむと、花芯に口付けをくれる。
身体が意思に反して痙攣する。
舌先で弄ばれ、腰がいやらしくくねるのが解った。
「・・・きゃ・・・あん・・・。」
情けない声を上げて、私は全身の汗が流れ出すような錯覚に陥った。

絶頂を掴むと、急速に身体が冷えた。
心地よかったワインの酔いも、嘘のように消えてなくなる。
“男”を受け入れれば、何か変わるかもしれない。
天之橋さんの目での問い掛けに、私は黙って頷く。

欲しいと求めたものを得て、全てが気持ちよかったのは一瞬だった。

身体は悦びに乱れていた。
繋ぎ目からは止めどなく蜜が溢れて、天之橋さんを歓迎している。

行為だ。
これはただの・・・行為。

心は完全に冷めきっていた。
冷静に、まるでAVを見るように他人事に見えてくる。

私は何が欲しいの。
私は誰が欲しいの。
私は誰の何が欲しいの。

歳の離れた大人の男性に、父を求めていただけなの?
身体が求めるまま、貪っていただけじゃないの?
本当に得たい温もりは・・・どうやったら得られるの?

今までしてきた事の虚しさに、涙が出た。
身体が潤っても、満たされないのはその所為だ。

欲しい人は、ただ一人。
その人は私を嫌いだと言った。
当然だ。愛される事だけを望んで、私は何もしなかった。
確かに・・・勉強をした。テストで満点を取った。
だから何なのだろう。
欲しいものに縋りついて、言われるまま勉強をしただけ。
・・・何を、得られた?


「・・・解っていても虚しいものだね。」
達して体を離した後、天之橋さんは天井を見つめてそう呟いた。
私には、何も言えない。
「一夜の夢を、有難う。」
私を詰る事もせず、静かに穏やかな瞳でそう言う天之橋さんの気持ちが、私には解らない。
「どうして・・・私を責めないんですか?」
「恋や愛というものは愚かでね。君の心に、自分が住んでいないと知っても、
 君を抱かずには居られなかった。ただ・・・それだけだよ。」
どうして私はこの人を愛せないのか、解らなかった。
この人を愛せれば、求めるものも安易に手に入るかも知れないのに。
「愚かでも・・・抗えないね。この感情には。」
私も・・・同じ。
愛してしまったら、どんなに苦しくても・・・その人じゃなきゃダメなんだ。
「・・・ごめんなさい。」
自分の浅はかさが、身にしみる。
天之橋さんは黙って私を抱きしめると、幼子をあやすように黙って頭を撫でてくれた。


その優しい手の温もりは、あんなに探しても見つからなかった父の温もりに似ていた。






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一鶴さんの頼んだワインについて

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