虜 〜覚醒〜


 虜

6.

「おはようございます。」
すれ違いざま声をかけられた生徒は、見覚えはあっても名前までは不覚にもすぐ出てこなかった。
「・・・おはよう。」
感情の籠もらぬ挨拶を返し、交点から数メートル離れた後、黄色い悲鳴があがるのが聞こえた。
「おはようございます、氷室先生。朝から大人気ですね。
 うちの学年にも氷室先生に憧れる生徒が多いんですよ。」
昨年赴任してきたばかりの私より2歳若い教師が、羨ましげに私に言った。
「・・・下らない事だ。」
「は?」

そう、下らない。
この年頃のましてや教師などどいう者へ対する恋は、一種のはしかに過ぎない。
独り善がりで熱を上げ、あっという間に引いてゆく。

恐らく女という性ならば、そこに傷跡すら残さずに。


「今日からこのクラスを担任する、氷室 零一だ。」
私の担任をするクラスの生徒の9割は、顔が引きつっている。
残りの1割の半分は、今朝ほど黄色い悲鳴を上げていた女生徒と同じような分類の表情をしていて、
もう半分は純粋に学習環境として、我が氷室学級に在籍するのを良しと捉える先行き安泰な顔をしている。
奇しくもまた私のクラスとなり、最後の出席番号をあてがわれている彼女を見やる。
しかし彼女はぼんやりと窓の外を見つめていて、あの不快な視線は返って来ない。

あれ以来・・・春休みの特別講習には顔を出していたが、以前のように個人的に質問に来る事は無くなった。
そして、課外授業にも姿を見せていない。

所詮、はしかだったのか。

私と父親と重ねている、という指摘に目を覚ましたのか。
或いは私以外の誰かに、相変わらず媚を売っているのか。
―馬鹿馬鹿しい。
彼女の事を考えるのを、無理矢理止める。
「本日から、進路指導を行う。これから名前を呼ばれた生徒は、放課後順に進路指導室に来るように。」
今日面談する生徒の中に、彼女の名前も有った。
名を呼ぶと、返事が返って来る。
その声は、今まで聞いた事の無い落ち着いた声だった。


「・・・君は、中途半端だ。」
彼女の成績は、二流大を薦めるには出来がよすぎて、一流大を薦める程出来も良くない。
「一流大を目指します。」
「そうか。」
個人票にメモを取ると、改めて彼女へ目線を投げた。
よく見れば、顔つきまでも変わっている。
縋るような眼差しは消え、上目遣いも無くなった。
口調も作ったような甘ったるさは消え、語尾まではっきりと発音するようになっている。
「先生。私の顔に、何か?」
私の視線に、彼女は怪訝な表情を浮かべる。
「一つ・・・聞きたい。何が、君を変えた?」
私の問い掛けに、彼女は少し苦笑した。
そして汚れない真っ直ぐな瞳で、はっきりとこう答えた。
「・・・ある人のお陰で、自分の弱さに気付きました。
 私はその人を傷つけるまで、自分の愚かさに気付けませんでした。
 縋りついて甘えるだけでは欲しい物を得られない事を、その人は教えてくれました。」

彼女が去った後の指導室で、何をするでもなくぼんやりと天井を眺めていた。
彼女の変貌ぶりは、衝撃だった。
認めたくはない、が、私は明らかに焦っていた。

愚かな少女に、罰を。
代用品へ偽りの愛を告げる者に、償いを。

変わり果てた彼女は、もう私の嫌悪の対象外だ。
取り残されたような脱力感が、否めない。

『縋りついて甘えるだけでは欲しい物を得られない事を、その人は教えてくれました。』

今の彼女は、何を得たいのだろう。

・・・俺は、何が欲しいのだろう。

ふと浮かんだ自問に、すぐに答えは出なかった。




自分へ投げかけた問いに答えの出ぬまま時は流れ、定期考査の採点に取り掛かる時期となった。
私は今回の考査へ向けて、彼女に何の言葉も掛けなかった。
にも拘らず、彼女はまた満点を取った。
今までと同じなのは外観上だけで、その内容は今までとは全く異なっていた。
彼女が己の力で、己の意思で得た満点。
私はそこに、一抹の虚しさを感じた。
答案を裏返し、次は何処へ呼び出そうと思考を巡らせても、何も浮かばない。
彼女にはもう、裁きは必要ない。

何も書かずに、彼女の答案をそのまま採点済みの山へ重ねた。



・・・オレハ、ナニガホシイノダロウ。

彼女と同じ様な視線を俺に投げてくる女生徒は、他にも居る。
挨拶を返しただけで、耳障りな声を上げる愚かな者も居る。
何故彼女だけ・・・あんなに不愉快になったんだ?

・・・オレハ、ナゼカノジョダケヲニクム?

自ら出したその問いに、俺は派手に声を上げて己を笑う。
答えは簡単だ。
父を愛した彼女に抗えなかったのと同様に、俺は数多居る女生徒の中で、
あの少女の誘うような視線にだけは抗えなかっただけだ。

答えを出せなかったのは・・・それを、認めたくなかったからだ。

渇いた笑いを止めると、彼女の答案を引き戻す。

次週日曜 9:30 自宅前待機。

答案の裏にそう書き足すと、彼女の答案を再び採点済みの山へ伏せた。


―理由など最早不要だ。
 どんな手を使っても、彼女を決して・・・逃がしはしない。
 






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