懐中時計 〜 at that the time 〜 


「零一さん、チューしてください。」
別れ際彼女はそう言って私の首に腕を回すと、目を閉じキスをねだる。
彼女のそんな仕草を、愛らしいと思う。
が・・・実のところ“チュー”という言葉には、戸惑いを覚える。
同じような状況で“ギュー”と言ったのも有ったか。

言葉が乱れている。

言いかけて、何度も飲み込んだ説教文句。
言えば君の表情が、曇ってしまうのは間違いない。
しかし・・・どうも耳が馴染まない。

彼女が私との嗜好の差を埋めるべく、努力をしていた事は良く解る。
故に・・・“チュー”だの“ギュー”だのは、私たちの関係が安定したが故に生じた、
彼女の年相応の甘えなのだろう、という事までは理解できた。
理解は出来るが・・・願わくば、それは止めて貰いたい。と言うのが本音だ。
何故なら・・・人前でやられると、私ほどの年齢だと大変気恥ずかしいものだから、だ。




―8月10日 午後4:30

「零一さーん。」
彼女は大学のサークルで、私は課外授業で時間を取られた休日。
会えないのは淋しいと、臨海公園で待ち合わせた時の事。
私より少し遅れた彼女が、嬉しげに駆け寄ってくる。

・・・此処までは良かった。

「零一さん!会いたかった。ぎゅーしてくださいよぅ。」
・・・目立っているというのに。
彼女はなんの躊躇いも無く、公衆の面前で言ってはならない事を言った。
「・・・馬鹿な事を言うんじゃない。」
本当はギューでもチューでも・・・人前でなければ、幾らでもするのだが
私と彼女というただでさえ不釣合いな組み合わせに、周囲から好奇の視線を注がれている。
彼女は可愛い。しかし・・・注意力散漫なところが有る。
「・・・行くぞ。」
私に拒絶され、唖然としている彼女の腕を掴むと、足早にその場から立ち去った。


「何でぎゅって、してくれなかったんですか?」
観覧車は、2周目に突入した。
「自分で考えたまえ。」
これで7回目となる質問に、私は同じ答えを返す。
当初の予定はこの観覧車で夕日を眺め、この後私の部屋で夕食を楽しみ・・・・・・(先生、口籠もってます)
というつもりだったのであるが、先刻の一件で雰囲気は最悪となった。
頑固な所がある彼女は、遠まわしに謝罪を要求している。
解っている、謝れば彼女の機嫌は間違いなく直る。
しかし。
また同じ過ちを繰り返されては堪らない。
観覧車が降り口に近づくと、彼女は堰を切ったようにまくしたてた。
「零一さんは、きっと私の事好きじゃないんです。
 だからぎゅってしてくれなかったんでしょ?」
・・・始まった。
これが始まると、それこそ“ぎゅ”して“ちゅ”しないと機嫌が直らない。
余りに酷い我侭に、私も遂に堪忍袋の緒が切れた。
「・・・そう思うなら、勝手にそう思いたまえ。」
「ヒドイっ。」
彼女の頬を大粒の涙が落ちる。
言い過ぎた、か?
彼女は鞄から取り出した小さな箱を私に投げつけた。
「待ちたまえ。」
そしてドアが開くと同時に彼女は私の制止など聞かず、持ち前の運動神経で見事に観覧車から舞い降りる。
「もう一周?」
やる気の無い係員が、私に笑いを噛み殺した表情で問い掛ける。
「・・・降りる。」
ニヤニヤと笑う係員を一睨みすると、彼女の残していった小箱を拾い上げ、早足にその場を去った。


全く、困ったものだ。
今回の一件に関しては、私も譲れない。
原因は年齢差によるものだ。
私にはどうしようもない。
上着をハンガーに掛けると、右ポケットが大きく膨らんでいるのに気付いた。
あの時彼女が私に投げつけた箱をしまっていたのを思い出すと、おもむろにポケットに手を突っ込む。

箱を開けると、更に指輪など貴金属を入れるような箱が入っていた。
そしてカードが一枚。

―零一さんへ。
 サークルの買出しで公園通りの雑貨屋さんへ行った時に、
 素敵なものを見つけたのでつい買っちゃいました。
 大事にしてくださいね。

箱の中身は懐中時計。
私の嗜好に、完全に合致するものだった。
彼女の去り際の泣き顔を思い出し、胸が痛む。

深い溜息を吐くと同時に、携帯が鳴った。
番号を見ると、彼女からだった。
謝る気になったのかと、軽く咳払いをして電話に出る。

「は・・・。」
『氷室先生!?夜分に済みません。』
私の言葉を遮るように、電話の相手は慌ててまくしたててきた。
「誰だ?」
『あ。済みません・・・有沢です。』
電話の向こうから、けたたましいサイレンが聞こえてくる。
「どうした?」
只ならぬ様子の有沢。嫌な予感がした。
『彼女が・・・彼女が!車に・・・』
サッと血の気が引いていくのを感じた。

有沢に彼女が運ばれた病院を聞くと、私は急ぎ身支度を整え部屋を出た。

病院に着くまで間、生きた心地がしなかった。
あの運転で無事辿り着けたのは、奇跡としかいいようがない。

「先生!」
ロビーに着くなり、涙目の有沢が駆け寄ってきた。
「ご家族の方は?」
「今、集中治療室に・・・。」

動揺している有沢を落ち着かせると、待合室の椅子に並んで腰を降ろす。
「連絡を入れてくれて感謝している。」
大きくうなだれ、すすり泣いている有沢に感謝の言葉を告げると、有沢は黙って首を横に振った。
「彼女、落ち込んだ様子でうちに来て・・・先生に我侭言って、怒らせちゃったって言ってたんです。
 私・・・悪いと思ったのなら、明日にでも謝ったら?ってアドバイスしたら、ちょっと元気になったんですよ。
 なのに・・・その後・・・うちの近所で・・・。」
有沢の声に、涙が滲む。

言い様の無い後悔。あの時些細な事でもめなければ・・・。

有沢は声を殺して泣き、私も何も言葉を発する事も出来ず、重い沈黙の中冷たく秒針が時を刻む音が響く。

それからどれだけ時が経ったのか解らなくなり始めた頃。
固く閉ざされていたドアが開き、彼女の両親が出てきた。
「・・・氷室先生。」
私に気付いた彼女の母親が、青ざめた顔で歩み寄ってくる。
「この度は私の不注意で・・・。」
「いえ、そんな事!今回の事は・・・不幸な偶然です。」
彼女の父親も、母親の言葉に黙って頷いた。
「完全看護なので、付き添いは出来ないそうです。  今のところ小康状態で・・・。意識はまだ戻ら無いんですけど・・・。」
小康状態、の言葉の割に声のトーンが低い。
確かにそうだ。意識の無い時間が長いと、後遺症の残る可能性がある。
己の無力さに、拳を握り締めた。



―8月11日 午前7:00

あれから有沢を送り、帰宅した。
何時鳴るやも知れぬ電話に怯え、眠る事も憚られ長い長い夜を過ごした。
睡眠不足が手伝い、気分は晴れない。
しかし身体はいつものように髪を整え、着替えを終える。
コーヒーメーカーをセットしてスイッチを入れた。
朝食の準備を整え、席に着くと新聞を開く。
彼女の事故が、隅に小さく載っていた。

轢き逃げ事故、はねられた女子大生が重体。

タイトルを見るだけで、眩暈がした。
グラスに注いだ牛乳に手を伸ばすと、テーブルの上に佇む昨日の彼女からの贈り物が視界に入る。
あの時、私も大人気なかった。
あんな子供染みた意地など張らずにいれば、こんな事にならなかった。
きつく時計を握り締め、振り返ってもどうしようもない事を悔やむ。
・・・無駄と知りつつも、悔やまずには居られない。

ふと文字盤をみると、少々遅れて時を刻んでいた。
ツマミを引き上げ、懐中時計の時刻を2分戻す。

すると・・・・。

用意した食事は消え、立ち込めていたコーヒーの香りも嘘のように消えた。
「・・何っ!?」
着衣はパジャマに戻り、もしやと思い頭に手をやると、直したはずの頑固な寝癖が蘇っている。
「馬鹿な・・・。」
狐に摘ままれたようだとは、正にこの事なのだろう。
まさかと思い、掛け時計を見やると6時40分。

何もかも、20分前に戻っている。

・・・私だけ、『今』から20分後の記憶をそのまま残している。
状況から判断するに・・・私という個体の内面だけが、時間を遡っている。
信じられん。
タイムスリップ、などという現象は虚構の世界、つまりフィクションでしか起こり得ない。

しかし、私はそれを体験している。
時間軸を捻じ曲げたものは・・・。

テーブルの上で何食わぬ顔をして時を刻むものを、私は恐る恐る手に取った。








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