1 秋山緑風記念美術館。 名前がその全てを物語る美術館で、男はのんびりと休日を過ごしていた。 円形状の建物は中央が吹き抜けになっていて、そう広くはない敷地を使って、上手く閉塞感の無い空間を作りだしていた。 優雅な時間だ── しみじみと男は思う。 その気にさえなれば、いくら県境とはいえ、それほど苦もなくやってこれるこの美術館に、行こう行こうと思いながら、3年もの間足を運べなかったのは、多分、普段の仕事が忙しすぎるせいであろう。 自分が教育係を務める新人は、情熱があるがイマイチ実力がついてこない。 とはいえ、漫画や小説のように、はじめから何でもうまくこなせる人間などそうはいない。 一歩一歩階段を上るように身に付けていくしかないのが仕事というものだ。 ひととおり1階の展示を見て回り、目的の絵画を見つけられなかった男は、階段を降りて地下1階へと向かった。 そのままのんびりと絵を捜して歩くつもりでいたのだが、階段を下りきったところにカウンターがあり、学芸員らしい中年の女性が立っているのを見て、予定を変えた。 「あの」 「はい?」 書き物の手を止め、女性が男に向き直った。 「失礼。『光る風の少年』はどちらに?」 「あれは……、売却いたしました」 悔しそうに、女性の唇が一瞬噛みしめられる。続いた言葉を聞いて、男はその意味を理解した。 それは、この美術館の人間である彼女のみならず、彼にとっても残念なことだったからだ。 「売却? そうですか。もう一度見たかったんですが、それは残念です」 「もう、こちらには何度も?」 先程の表情を取り繕うように、女性は笑顔で語り掛けてきた。 「いえ、職場近くの小さなギャラリーで5年ほど前、風を表現するのが得意な画家の特集をやってましてね。その時に」 そう、その時に、数ある絵の中で『光る風の少年』はひときわ彼の心に残ったのだ。 「そうですか」 「深い詩情と哀愁を帯びた画風に感銘を受けました」 「ありがとうございます。私、館長の菊本といいます」 「これはどうもご丁寧に。緑風は画壇の異端児と呼ばれていますが、現在の若いアーティスト達にも相当の影響を与えているのではありませんか」 「その通りです。緑風の神秘的で象徴的な画風を愛する若いファンの方がいらっしゃいます」 「もっと評価されて然るべき人です」 「父が聞いたら喜びます。私、緑風の娘なんです」 お愛想ではなく、本当に嬉しそうに彼女は告げた。 自分の父の絵を、そして父親自身を心から愛しているのだろう。 「そうでしたか。不躾なことを申しまして」 「いえ、失礼ですが、美術評論家の先生でいらっしゃいますか?」 銀縁眼鏡を掛け、学者然とした容貌の男の語り口を見て、女館長は問いかけた。 「いえ、只のしがない公務員です」 ある時は学者に、ある時は美術評論家に、そしてまたある時はきちんと刑事に見える……、果たして、その正体は── 言うまでもなく、大阪府警捜査一課の係長、鮫山警部補であった。 * * * 「森下、お前に客や」「はい?」 船曳から声を掛けられ、森下は目下一番の敵である、やたら面倒な書類から視線をそちらに移した。 「高校の同級生やとか言うとったぞ。特別に許可してやるから、気分転換してこい。それ1枚に何時間掛かっとるんや。鮫やんがいてへんからて、気ぃ抜くな」 「……はい」 森下は素直に席を立った。 別に教育係の鮫山が居ないからといって、書類整理の手を抜いている訳ではないのだが、遅々として進んでいないことも確かだ。 傍らに鮫山がいたのならば、げんこつをくれながらも解らない部分を丁寧に解説してくれるので、仕事の進みも早いというだけだ。 念願の捜査一課に配属されて、やるきだけは充分あるのだが、どうも実力がついてこない。 結局、現在の自分は、自らを奮い立たせる為に身に付けているアルマーニのスーツでさえ、からかいのネタにされている有様だ。 やっぱり半人前なんやなぁ〜。 ため息をつきながら、森下はロビーへと向かった。 が、そこで待つ友人の顔を見た途端、笑みが零れる。 「土田ぁ〜」 「森下〜、久しぶり〜。コレ、おみやげ」 「なになに、南急百貨店の紙袋やん」 「っても、中身はこれなんやけど」 土田は紙袋の中からせんべいの袋を取りだして見せた。その気になれば幼児の一人も入れて運べそうな紙袋に入れるには不釣り合いなものではあったが、そんなことはどうでもよかった。 「なんだ、せんべいかよ。って、うそうそ。サンキューな」 紙袋を受け取って、森下は自販機のある廊下へと土田を促した。 そこならば、ベンチもあるし、ちょっとした話くらいならできる。 いくら船曳の許可を得たとはいえ、勤務中堂々と外の茶店に出掛けるのは心苦しい。 「で、今日はどうしたよ? 又、借金の申し込みならお断りやで」 土田と自分の分のコーヒーを買いながら、森下は冗談めかして言った。 「違うて。恵ちゃんに借りてた金、返そうと思うてな」 土田はジャケットの内ポケットから、茶封筒を取り出した。 「えっ?」 「長いこと悪かったな」 封筒を受け取りながらも、森下は少々困惑していた。 その中身の2万円は、高校時代に離婚して母について行った年の離れた弟にどうしても会いたいという彼に、やったつもりで貸した金だったからだ。 結局、その両親の離婚が原因で、少々やさぐれてしまった土田は、定職に就かずに、その場しのぎの短期のアルバイトで生活をまかなっているという噂だった。 「いや、返して貰うつもりは無かったからな。でも、嬉しいわ。大事にしまっとく」 「しまっといたら意味無いやん。使え使え」 「せやな。で、お前、今ちゃんとやっとんの?」 「おかげさんでな。なあ、お前、今晩暇か。今、俺、ちょっとリッチなんや。おごるから呑みに行かん?」 「おごる? お前が? 後が怖いなぁ〜」 「いいからいいから、何時に終わるん? OK、その頃また来るわ。じゃ、後でな」 事件がなければ、7時頃かなぁ〜という森下の言葉に、土田は勝手に予定を決め、コーヒーの紙コップを握りつぶして、ゴミ箱に突っ込んだ後、さっさと踵を返す。 「あっ、オイ……」 どうやら、これは、もう決定事項のようだ。 まあ、予定があると思えば仕事の励みにもなるだろう。 森下は、残ったコーヒーを一気に飲み干して、面倒な仕事をやっつけに向かった。 2 「ご苦労様です」 鮫山と共に現場に到着した途端、先に到着していた船曳警部と話していた所轄署の刑事が森下に話しかけてくる。 「あのっ……、何か?」 所轄署の刑事に出迎えられ、森下は戸惑った。船曳警部が先に到着しているこの状況で、自分がわざわざ出迎えられる理由が解らない。しかも、鮫山を差し置いてだ。 「ホトケの服のポケットから森下さんの名刺が出てきたんです」 「えっ」 思わず被害者の方を振り向いて、森下は驚愕した。 「土田……。土田っ。土田だ。間違いありません」 森下は、立場も忘れて思わず土田の身体にすがりついた。 先程感じた疑問の答えは、衝撃的な事実と共に一気に出た。 土田と呑んだのは3日前。 互いの近況を語り合い、新しい父親と折り合いが悪いらしい弟をいつか自分で引き取りたいと、弟の写真を見せびらかしつつ語る友人を、だったら定職に就けよと茶化しながら呑んだ夜は、つい3日前なのだ。 「ホトケとの関係を教えて下さい」 「………」 無言の森下に鮫山が険しい声を上げる。 「森下っ。ホトケとの関係や」 「高校の……同級生です。こないだ会うたばかりで……。その時一緒に酒呑んで……。なんで……」 森下の呟きに、所轄署の刑事が応えてくれる。 くやしい位に、淡々と。 「死因は失血です。ナイフで胸をひと突き。抵抗した形跡はありません。まあ、泥酔状態やったみたいなんで、抵抗したくても出来んかったとは思いますが。犯人に心当たりはないですか?」 「……ありません」 「そうですか。財布がなく無くなっとるんで、物取りのせんかもしれませんね。ホトケの手にこれが握られていました。解りますか?」 差し出されたのは、3日前に土田に見せびらかされた弟の写真だった。 現在は11歳になっているという話だが、土田の持つ写真の少年は多く見積もっても小学校に上がるか上がらないかの年の頃だ。それだけ古い写真なのだろう。 「土田の弟です。両親が離婚して、現在は離ればなれだそうです。いつか引き取りたいと言うてました」 * * * 「土田の奴、どんな気持ちであの写真握りしめとったんやろ。きっと悔しかったんやろな。もう1度、健太君に会いとうて。それで写真を……。係長、どう思います?」捜査会議の後、3日前に土田と一緒にコーヒーを飲んだ廊下のベンチに腰掛けながら、森下は鮫山に問いかけた。 「さあな」 が、鮫山の返事は素っ気ない。 「せつなすぎて、遺族に言えませんよ。こんなこと」 「そうやな」 「そうやなて! 鮫山さんっ」 「故人を偲ぶのも結構やけど、お前にはすることがあるんやないのか?」 「すること?」 「友人の為に、犯人を挙げてやることだ」 鮫山の言葉に森下は唇を噛みしめた。 鮫山の態度が冷たかったせいではない、彼の言うとおりだと思ったからだ。 これだから、自分は鮫山に「早く刑事になってくれよ」などと言われるのだ。 「森下っ」 と、決心を新たにした森下の処に船曳警部が血相を変えて駆け寄ってくる。 「どっ、どうしました?」 船曳の形相にコーヒーをこぼしそうになりながら、森下は応じた。 「お前、殺された土田と知り合いやったな。3日前にお前この土田から接待受けたんやって」 「せっ、接待て。居酒屋でメシ奢ってもらっただけですよ」 言い訳をする森下を制して船曳は続けた。 「こちら、捜査二課の太田さんや」 言われて見ると、船曳の背後には二人組の男が控えていた。 「えっ? 二課ですか? でも、これ経済事件じゃないですよね」 「殺された土田には詐欺の疑いがあります」 二課の人間だという男に言われて、森下は目を見開いた。 「土田が詐欺? 冗談でしょう」 「それが、冗談やないらしい」 船曳の言葉尻をとって二課の太田が続ける。 「数日前、MMフィナンシャルから明和銀行樟葉(くずは)支店に巨額の振り込みがあった。しかし、そこの口座は架空口座で、翌日土田はそこから全額現金で引き出している。そして今朝、刺殺体で発見された。引き出された大金は消えたままだ」 「たっ、大金って、いくらぐらいなんです?」 森下は思わず太田に問いかけた。 「1億五千万」 「1億……五千万」 * * * 金を振り込んだMMフィナンシャルの柿崎の話によると、ことの次第はこうだ。柿崎は得意先から電話で融資の依頼を受けた。電話は得意先の専務からで、声もよく似ていたので疑わずに振り込んだ。偽物だとは思わなかった。 相手は振込先をいつもの明和銀行尼崎中央支店の口座ではなく、樟葉支店の架空口座に振り込むように言ったが、特に疑問は持たなかったという。 大金なのに、上の決済を取らなかったのは、得意先でもあったし、大至急という先方の要望があったので、自分の判断で振り込んだとのこと。 土田にも見覚えがないと言う。 それを受けて、一課の方針も、物取りから詐欺グループの仲間割れの線に変わった。 現在、森下は鮫山と共に、明和銀行樟葉支店の支店長と対面していた。 黒縁眼鏡に七三分け。いかにも銀行マンらしい風体の支店長は、鮫山の質問にため息と共に応えた。 「5日前です。お客様から電話がありました。なんでも大きな不動産取引があるとかで、急に現金が必要になった。口座から1億五千万引き出すので準備しておいて欲しいと」 「それで用意したんですね」 鮫山が膝の上で手を組み換えながら確認を取る。 「ええ、確かに口座にはお金がありましたので。4日間に通帳とご印鑑をもってお客様が当支店においでになりました。その現金を紙袋に詰めて持ち帰ろうとなさるので、大丈夫ですかと確認したのですが、お客様が、こんな紙袋に大金が入っているだなんて、誰も思わないから却って安全だと」 信じられませんよとでも言いたげに、支店長は大きく首を横に振った。 森下もそれには同感だ。いくら大金が入っているとは思われないとはいえ、自分ならば袋の底が抜けないかと心配になってしまう。 「その1億五千万円は続き番号でしたか」 「いえ、違います。旧札でとのご指定でしたので」 返事をした後、支店長は一端ソファから立ち、机の上の金庫から、帯封のついた二つの札束を取り出した。 「こちらの白い帯封のものが日銀から送られてくるものです。新札で続き番号です。こちらの銀行名が入った茶色の帯封の方が、通常当行で用意するもので、旧札で続き番号ではありません」 「土田さんは旧札でと指定したんですね」 「ええ、そうです」 * * * 「銀行の架空口座に大金を振り込ませて、それを土田が降ろしとる。彼がなんらかの役割を演じとったことは間違いないな」銀行からの帰り道の車中で、鮫山が言った言葉に森下はくってかかった。 「待ってください。あの土田が詐欺に関わってたなんて、僕にはどうしても信じられません。あいつは詐欺なんて出来る人間やありません」 「お前がいくら信じられん言うたかて、銀行の防犯カメラに土田の姿が映っとる。それに、お前の話だといつになく金に余裕がありそうな口振りだったそうやないか」 「ええ。居酒屋の支払いの時、チラッと財布の中身が見えて。多分20万くらいは持ってたと思います。ああ〜、なんやもう、解らんようになってきました」 そう、言われるまでもなく、自分が確認したのだ。南急百貨店の紙袋を抱えて銀行から出てゆく土田を、くたびれた外観に不釣り合いな程の現金が入っていたその財布を。 しかし、そんな決定的な映像を見せつけられても、森下には土田がそんなことをするとは思えなかった。 いわゆる世間に認められる立派な大人とは言えないだろうが、土田は解りやすい正義感の持ち主だ。 高校生の頃から、自分が少しでも後ろめたく感じることならば決してしない、そんな奴だったのだ。 頭を抱える森下に、鮫山はやれやれと喝を入れる。 「一応刑事なんだから、そないなところで投げ出すな。これまで土田に犯歴はないんやったな」 「ええ」 「初犯にしては鮮やかやな」 「はい?」 「融資の盲点をついた手口といい、あらかじめ旧札を指定しとることといい、見事なお手並みや。せやけど初犯の人間が、あれほど鮮やかに大金を奪えるもんやろか」 腕を組みつつ、述べられた鮫山の意見に、森下は声を上げた。 「じゃあ、あれを計画した人間が別に?」 「その可能性はある。遺留品に気になるものはなかったか」 「いえ、得には……。あっ」 「なんや?」 「いえ、なんか引っ掛かることが、あったんですけど、それが何だったか」 「もう1度見たら思い出せそうか?」 「多分」 3 捜査会議においても目新しい報告はなかった。 もともとが短期のバイトで食いつないでいる土田は、現在そのバイトもしておらず、話を聞ける職場の人間というのが居ない。 現場周辺の聞き込みでも、得に収穫はなかったようだ。 銀行の帰り道に考えついた意見を鮫山が述べると、それをきっかけに活発な意見交換がはじまった。 共犯者がいるとなれば、なんと言っても怪しいのはMMフィナンシャルの柿崎だ。 そんな電話を受けたと言っているのは彼ひとりだし、内部に手引きした人間がいるとなれば、この詐欺事件が成功する確率はぐっと上がる。 しかし、証拠がない。 更に、土田の声を知っている森下自身が確認をとったのだが、得意先の専務とやらの声は確かに彼と良く似ていた。 結局、柿崎の行動に目を光らせると共に、現場周辺への聞き込みを続けるということで、一端会議は終了した。 「森下、遺留品の再確認はしたのか?」 会議後、例によって自販機の前で休憩をしている時、鮫山がふいに森下に問いかけた。 「あ、忘れてました。戻って直ぐに会議やったもんで」 「しっかりしてくれよ」 あきれたように、鮫山はため息をついた。 「すみません」 慌てて立ち上がり、森下は鑑識へと向かった。 土田の遺留品は現在そこで調査中だ。 気になることがあったと言っても、そう大したことではなかったからこそ、思い出せないのだと考えつつも、今の森下は土田の汚名をはらすためなら、どんな些細なことにもすがりたい気分だった。 鑑識の許可を得て、土田の遺留品を見せて貰う。 どれやったやろ? と考えながら、遺留品をひとつひとつ確認する。 あまり多くはない遺留品の半分ほどを確認した時、森下はそれを発見した。 「あ、これです。この、美術館の半券」 森下が指差す美術館の半券を見て、鮫山は少々驚いた。 自分の目で土田の遺留品を見たのはこれが初めてだったので、今まで気付かなかったが、その美術館は先日鮫山が訪れた秋山緑風記念館のものだったからだ。 そんな驚きを飲み込んで鮫山は森下に問う。 「で、これがどうしたって?」 「いや、どうてことはないんですけど。土田と美術館てあまり結びつかへんなて」 「結びつかへん?」 「ええ。あいつ、美術関係はさっぱりあかんくて。絵なんか見るだけで頭痛するて言うてました」 鮫山は考えた。会議でこの半券の話が全く出なかったところをみると、一応の確認は取れているのだろう。 しかし、土田が絵を見るのが嫌いとなれば、話は別だ。 「その頭痛のする場所に土田は居た。何か理由があってそこに居たて考えるのが妥当やな」 「ええ」 「明日、船曳警部に話して聞き込みに行ってみるか」 鮫山の言葉に森下は大きく頷いた。 収穫があるかどうかは解らないが、何もできないよりもずっといい。 森山は、自分にこの半券のことを思い出させてくれた鮫山に心から感謝した。 * * * 翌日、鮫山と森下は秋山緑風記念美術館を訪れていた。行こうと思いつつ、3年も来られなかったこの場所なのに、一端来ると続けてくるはめになる。鮫山は皮肉な運命に苦笑しながら、館内中央の階段を降りた。 先日と同じ場所に、この間の女性館長が居るのを確認し、鮫山は彼女に歩み寄った。 「先日はどうも」 「ああ、まあ、またいらして下さったんですね。いいニュースがあります。『光る風の少年』ここに戻ることになると思います」 館長は鮫山のことを良く覚えていてくれたらしい。調子に乗ってべらべらと話した記憶があるから、多分そのせいだろう。 にこやかな笑みと共に報告されたそのニュースは、もちろん鮫山にとっても喜ばしいものであった。 ただし、次にこの美術館に来られるのがいつになるかというのが、最大の問題ではあるが。 「そうですか、それは楽しみです」 「知り合いなんですか」 森下はそんなふたりの様子に目をしばたかせた。 仕事も忘れて思わず鮫山に問いかける。 「ちょっとな」 「あの、今日はなにか」 「あ、ちょっとお伺いしたいことがありまして」 館長に問われて、森下はやっと自分の仕事を思い出した。身分証明書を提示しながら彼女に告げる。 「…公務員って刑事さんだったんですね」 「無粋な仕事で恐縮です」 戸惑った様子の館長に、鮫山が頭を下げる。それを横目で見ながら、森下は彼女に土田の写真を見せ、聞き込みを開始する。 「ここで、この男を見かけたことはありませんか?」 「さあ、存じ上げません」 写真を手にとって、ちょっと眺めた後、館長は首をかしげた。 あまり、真面目に考えている様には見えなかったので、森下は食い下がる。 「良く見て下さい。何度かここに来ている筈なんです」 「覚えていません。あの、事件か何か?」 「この男は殺人事件の被害者です」 「殺人事件? それが、当館と何か?」 それを告げても、館長の我関せずといった風の態度は変わらなかった。そんな彼女の態度に森下は苛立ちを感じた。 それを察した鮫山が森下のフォローに入る。 「今、それを調べているところです。学芸員の方かどなたかいらっしゃいませんか」 「国松さん。ちょっと来てくれる」 「はい。なにか?」 館長に呼ばれて、若い女性の学芸員が近づいてくる。彼女に土田の写真を見せて彼女は聞いた。 「この写真の人、見たことあるかしら」 「ええ、この人、よくお見えになってました」 写真を見て、頷きながら学芸員が応える。館長のくせに常連の顔も覚えていないのかよと、覚えかけた反感を、森下は仕事仕事と自分に言い聞かせることで追い払った。 気を取り直して、質問する。 「この人はここで何をしていたんですか?」 「そこの椅子に座って、ただ一日ぼうっとしていらっしゃいました」 「どうして彼はここに」 「さあ」 学芸員の応えに、森下は自分が間抜けだったと反省する。土田が単なる美術館の客ならば、そんなことは当の本人以外に解りっこないからだ。 「ここが静かで落ち着けるからじゃないでしょうか」 「静かで落ち着けるところなら、他にもありますよね。入場料を払う必要もないと思いますが」 正にとってつけたような館長の意見に、鮫山が理論的に反論する。 「そうですね」 館長はあっさり認めた。 そんなに簡単に撤回できる意見ならば、最初から言わなければいいんだと、森下はあまり根性の良くないことを思う。 そんな森下にはかまわず、鮫山は質問を続ける。 「わかりました。つかぬことをお伺いしますが、ここはMMフィナンシャルと何か関係ありますか?」 「いいえ」 * * * 「つながりませんねぇ」美術館を出て、車に戻った森下はため息と共に呟いた。それには応えず鮫山は彼に告げた。 「ちょっと引っ掛かることがある」 「なんです?」 「お前が話す土田像と、実際の土田がかけはなれているところや」 「と言いますと?」 「お前、昨日、土田と美術館は結びつかん言うとったやろ。せやけど、あの学芸員の話やと土田はあそこの常連だった風やないか」 「ええ」 「更にお前は土田に詐欺なんて出来んと言うた。が、彼は見事に1億5千万円を騙しとっとる。これはどういうことや」 「僕に人を見る目がないということですか?」 「そんなことは言うとらん。つまり、お前は土田について何も知らないということや」 「土田が俺の前では自分を偽ってたいうことですか? 係長もあいつが詐欺グループの片割れやて言いたいんですね」 「せやから、そんなことは言うとらんやろ」 「土田は確かに社会からはちょっと落ちこぼれてますけど、悪いことができるような人間やないんです」 「そこまで言うなら、それを証明してみせろや」 「証明て言われても、手がかりは何もないし……あっ」 こんな有様だから、いつまでたっても一人前の刑事だと認めて貰えないんだと、自分のていたらくぶりを情けなく思いつつ、森下は車を急発進させた。 手がかりになるかもしれないものが、自分の手元にはある──。 2003. 03. 25
ごめんなさい。例によって続きます。 |