4 森下が思いあたった手がかりになるかもしれないもの。それは、あの日、土田から返してもらった現金の一部だった。 返してもらったまま、何気なく机の引き出しに入れて、今まで忘れていたのだ。 さすが金に余裕のある奴はやることが違うな、等と鮫山にからかわれながら、その金を鑑識に回した。 結果、土田と森下、その他数名分の鮮明な指紋が採取された。 当然柿崎の指紋とも照合されたが、その中に一致するものは存在しなかった。 やっぱり駄目かとがっくり落とされた森下の頭を鮫山が軽く小突いた。 「そう、がっかりするな。この遺留指紋のおかげで、判断材料が一つ増えたんやから、それだけで儲けもんや。……そうやな、方向を変えてみるか」 「というと?」 「まずは柿崎に直接話を聞きたいな。仮に土田と直につながってなくても、柿崎とつながりのある誰かが土田とつながっとる可能性はあるやろ」 「もし仮に柿崎が黒幕だとして、そう簡単にボロを出しますかね」 「たとえ、収穫がなくても刑事が手間を惜しんだら終わりやないか。そら、警部に報告に行くぞ」 言い放つと鮫山はさっさと踵を返した。 * * * 翌日、森下は鮫山と共に、MMフィナンシャルの柿崎のマンションを訪れていた。「ですから何度も言った通り、土田なんて人は知りません。私だって被害者なんです。その男のせいで私は懲戒免職だ。人を騙すなんて酷すぎます」 柿崎はいかにも迷惑そうに言って、ソファに沈みこんだ。 確かに今、彼らがしている質問は、二課の事情聴取時や、その後一課の人間にしつこく聞かれたことだろう。 うざったく思う気持ちは解らなくはないが、たとえ柿崎が本当に単なる被害者だとしても、確認を怠ったのは自分なのだ。その点を棚に上げ、被害者意識が強すぎるのではないかと森下は思う。 質問自体は鮫山が行っており、メモを取るべき内容の話でもなかったので、森下はなにげにテーブルの上に置いてある、柿崎の携帯に目をやった。 最近主流の折り畳み式のものではなく、液晶画面がそのまま見て取れる。なにやら油絵らしい待ち受け画面を眺めながら、変わった待ち受けだなという感想を抱く。 「共犯者に心当たりはありませんか。そちらの内情を良く知った人間が絡んでいると思いますが」 「だいたい何なんですか? 二課だ、一課だと代わる代わる。市民の義務だと思うから事情聴取は受けますけどもね、せめて1回ずつにしていただけませんか。これ以上は弁護士と相談してからにしたいと思いますが」 嫌味ったらしく吐き捨てて、柿崎は携帯電話をとりあげた。 一瞬目を見開いた後、それを制して、鮫山は席を立った。 「その必要はありません。もう失礼しますので」 頭を下げてその場を辞す鮫山に習って、森下も続く。 当然、柿崎は見送りにも来なかった。 「弁護士と相談…か。何の相談するつもりなんだか」 「何か隠してる感じがしますよね」 マンションの敷地を出た途端、鮫山がぼそりと呟いた。同感だと軽く頷きながら森下はそれに応じる。 「お前は気付いたか?」 「何がですか」 「柿崎の携帯の待ち受け画面や?」 「えっ? ああ、なんか女の人の絵みたいでしたね。って、まさか」 「せや、あれは緑風の美人画、『響(ひびき)』や。あれを待ち受けにしとるいうことは、なにか意味があると思わんか」 鮫山の言葉に森下は今度は大きく頷いた。 「つながりましたね」 * * * 森下が鮫山が美術館へと出向いた時、丁度、館長は客を表に送りに出ていた。ひかり画廊と書かれたバンに乗り込むところを見ると、その客は商談相手なのだろう。 車を見送っていた館長が振り向いた拍子に、ふたりに気付いて会釈した。 「ご商談中にすいません」 詫びの言葉と共に鮫山が彼女に歩み寄る。 「いいえ、もう終わりましたから」 鮫山の言葉を否定して、彼女は彼らを館内へと促した。 「絵を買い戻すご相談ですか」 「えっ?」 鮫山の突然の問いかけに館長は文字通り目を丸くした。 「光る風の少年がここに戻ることになったと、先日あなたがおっしゃいました」 「ああ、そうでしたね」 続いた鮫山の言葉に納得がいったらしく、館長は頷いた後、愛しい者を思い出す様な表情を浮かべ語り出しす。 「あの絵は緑風が画風を確立した重要な絵ですから、やはりここにあるべきです」 「それはよかったです。貴重な緑風の絵が散逸してしまうのは実に残念ですから」 「ところで今日は?」 と尋ねられ、渡りに船とばかりに、森下は内ポケットから柿崎の写真を取り出した。 「この男に見覚えありませんか?」 写真を見て、館長は一転、表情をこわばらせた。 その表情の変化に森下は素早く反応した。 「あるんですね」 「顔も見たくない男です」 吐き捨てるように館長は言う。 「どうしてですか」 「援助がうち切られた後、融資をお願いしたことがあるんです。ここへも何度かお見えになりました。その度に絵を売れば金になるじゃないかとか、評価額がいくらだとか、そんなことばかりで。最低の人でした」 「前に聞いた時、あなたはMMフィナンシャルとここは関係ないと言ったじゃありませんか」 「ええ、融資の話はご破算にしました。ですから一切関係ありません。……この人が何か? 例の殺人事件の関係ですか?」 「ええ、まあ」 「殺された人とここで出会ったんですか?」 「その可能性もあります」 「それじゃ、その人が殺人犯なんですね」 「それを調べています。二人が一緒のところを見たことは?」 勢い込んで矢継ぎ早に質問してくる館長に面くらいながらも、それはうまく流して、森下は確信に触れた。 「ありません。あの…、今日は学芸員がお休みで忙しいんですが」 しかし、館長の答えは素っ気ないものだった。更に、暗に帰れと言っている。 もう少し考えたらどうだと、それを口にしようとした時、鮫山が割って入る。 「これは失礼。最後にもう一つだけ。殺された土田さんがいつも座っていた椅子はあそこでしたね」 「ええ」 「あの椅子の前には何が?」 「光る風の少年が展示されていました」 このやりとりに森下は首をかしげる。鮫山はこの菊本とかいう館長から何を聞き出したいのだろう。 「ありがとうございました。ああ、美術館のパンフレットがあれば頂きたいんですが」 「はい」 怪訝な顔をしながらも、館長はカウンターの上からパンフレットを取り、鮫山に手渡した。 結局、鮫山が何故あんな質問をしたのか、どうしてパンフレットなどを貰うのか……、意味のつかめないまま、森下はその様子を眺めていた。 * * * 美術館を出て、近くの駐車場に止めてある車には向かわず、すたすたと歩き出す鮫山の後に続きながら、森下は自分の考えを口に出す。「主犯は柿崎なんですかね。柿崎は会社の金を騙し取ろうと計画した。自分は詐欺の被害者を装い、美術館で知り合った土田を金の運び屋として利用した。ところが奪った金のことでトラブルになり、土田を殺した」 「惜しいところまで行っとるな。」 「どこか違うてますか?」 「土田を殺せば殺人罪や。せっかく大金を手に入れたところやのに、そんなリスクを犯すやろか」 「…そうですね。で、何処に向かっとるんですか?」 相槌を打った後、森下は自分でも今更だと思うが、やっぱり気になる質問を投げ掛けた。 「さあ、どこやろな」 「鮫山さん〜、いじわるしないで下さいよ〜」 「しとるのはいじわるやない。捜査や」 「捜査やて、せやから何処に……あっ」 鮫山に答えを貰う前に、質問の答えが出た。 角を曲がった途端、見覚えのある公園が見えてきたからだ。 「鮫山さん、ここ、土田が殺されとった公園やないですか」 「意外と美術館から近かったな」 「美術館からて、鮫山さん、まさか、あの女館長を疑ごうてるんですか? あっ、まさか、さっきパンフ貰うたのも、彼女の指紋を採るため?」 「おっ、鋭いな。ようやっと0.75人前くらいになってきたか?」 鮫山のこの表現は半人前より一歩前進と思っても良いのだろうか? などと考えかけて、森下は慌てて思考を事件に戻す。 「けど、土田を殺す動機がないと違います?」 「大金は消えたままや」 「金が欲しいなら、あそこにある絵を売ればいいやないですか。現に光る風の少年て絵は一度売っとるんやし」 「ああ。しかし、彼女にとっては身を切られるような思いやった。せやから、買い戻す決意をした」 「なんでそこまで執着するんです。たかが絵、言うたら何ですけど」 「緑風の絵を愛してるからやないか。いや、父親を、て言い換えてもいいかも知れん」 * * * 「はぁ〜〜」捜査会議の後、取りあえず一時帰宅した森下はベッドに寝転がった。 着替えを取りに行くついでに、今日は自分のベッドでゆっくり休んで明日からの鋭気を養えということらしい。 目を閉じたまま、先程の捜査会議を反芻する。 柿崎と土田が美術館でつながったという報告には、大きなざわめきがおこったものの、鮫山が続けて述べた館長犯人説には異論も多かった。 森下も思ったことだが、「たかが絵」でそこまでする人間がいるというのは、いわゆる一般人には理解しにくい感情だ。 パンフレットから採取した館長の指紋と、土田の持っていた現金に残っていた指紋の一つが一致したという後押しがあるものの、所詮は現金。そもそもが様々な人間の手を渡り歩く性質のものなのだから、誰の指紋がついていたっておかしくないといえばおかしくない。 もちろん、その方面でも捜査は進められるが、証拠としては確かに弱い。 そして、更に、その会議では胸が苦しくなるような報告も上がってきた。 土田が一緒に暮らしたいと言っていた弟。 やっと連絡の取れた土田の母親によると、その弟はもう3年も前に事故で他界していたというのだ。 そして、秋山緑風記念美術館は、まだ家族仲が良かった頃に良く行った想い出の場所だと。 頭が痛くなるというのは冗談にしても、あまり絵には興味がなかった土田が足繁くあの美術館に通っていたのは、弟、健太くんとの想い出の場所だから。 弟が亡くなったことを認められずにいた土田は、多分──名前から想像するに──光る風の少年という絵に彼の面影を見ていたのだろう。彼が生き続けていると思いこみたかったのだろう。 そして、もし、鮫山の言ったとおりに美術館の女館長があの詐欺事件に荷担しているのならば……。 土田がその片棒をかついだ理由は、自分にとって思い出深いその絵を有るべき場所に戻したかったから。いつも座っていたあの椅子の前には、あの絵がなくてはならなかったから── 想像だけならいくらでもできる。 事件の捜査というのは数学の文章問題みたいなものだ。いくら答えが解っても、そこまで導く計算式が合っていなくてはだめだ。 たとえ、その答えが合っていたとしても、点数は貰えない。 結局、その式を見つけ出すことは出来ないまま、森下は一端ベッドから起きあがった。 このまま寝てしまう前に、風呂に入って、明日からの着替えも準備しなくてはならない。 Yシャツに靴下に下着…必要なものを取りだし、テーブルの上に置く。 さて、何か丁度良い紙袋はあったかな、とクローゼットを覗き込んだところで、森下は「あ゛〜〜っ」と叫んで自宅を飛び出した。 5 森下がロッカーに突っ込んだまま忘れていたのは、あの日──土田が彼を訪ねて来た日に受け取ったせんべい入りの南急百貨店の紙袋の存在だった。 何故もっと早く気付かなかったのだろう。 そう、あの紙袋は土田が現金を降ろした時に持っていたのと同じものだった。 慌てて府警に戻り、ロッカーからそれを引っ張り出して船曳警部に子細を告げた。 傍らにいた鮫山に「いい加減にしてくれや。このマイナス0.5人前!」と、大いにへこんでしまう評価──マイナスがつくというのは、足を引っ張っているということに他ならない。マイナス1人前じゃなかっただけまだましか──を下されたのも、まあ当然といえば当然だ。 経緯はともかく、その紙袋を鑑識に回し、南急百貨店に確認を入れた結果、やっとのことでここまでこぎつけたのだ。 隣の鮫山と頷き会うことで気合いを入れ、目の前の美術館に入る。 今日の開館は午後からだと言う学芸員に、菊本館長に用がある旨を告げ、案内してもらう。 彼女は、土田が座っていたという椅子の前に佇んで、目の前の絵を感慨深気に眺めていた。 その様子をしばらく見守っていた鮫山が歩み寄り、声をかける。 「戻ったんですね。光る風の少年。やはり、有るべき場所に有るべきものがあると収まりがいいですね」 「ええ。今日は何ですか」 鑑賞の邪魔をするなと言わんばかりに、彼女の態度は横柄だった。 「これです」 鮫山はポケットからビニール袋に入った一万円札を取り出し目の前の館長に見せた。 「それが?」 「殺害された土田さんが持っていたものです。財布は何者かに盗まれていましたが、偶然この一枚だけが私たちの手元に残されました」 「それがなにか」 「この一万円札からあなたの指紋が出ました。何故でしょう」 「おっしゃっている意味が解りません」 女館長はあくまでもとぼけるおつもりらしい。 森下は苛立って横から口を挟んだ。 「私たちはこの金が消えた1億5千万の一部だと考えています」 「私が詐欺事件の一味だとでも」 「はい」 話を振ったのは森下だが、彼女の質問に応対したのは鮫山だった。 確かに、ここは冷静な先輩刑事にまかせた方が得策だと判断した森下は、再び口を噤んだ。 「まあ、冗談じゃありませんわ。なにか根拠がおありなんですか?」 「ありません」 「ばかばかしい。使い古しの一万円札に私の指紋がついていたって不思議ではありません。それは、一度私の手元にあったものなんでしょう」 「確かに、そうかもしれませんね」 「もうよろしいでしょうか。忙しいのでお引きとり願います」 この間と違って館長の帰れコールは、随分とあからさまなものになっている。 この態度こそが、怪しまれる要因だとは気付かないのだろうか? しかし、鮫山はあくまでも冷静に話を続ける。 「画商と商談ですか。ひかり画廊に聞きました。かなりの額だったらしいですね。光る風の少年を買い戻すお金」 「融資をお願いしました」 「どこにですか?」 「お答えする必要はないと思います。お引き取り下さい」 再び帰れコール。出来るものなら叩き出したいと言わんばかりの口振りだ。 もし、自分たちがここで帰ったのなら、きっと後で塩でもまかれるころだろうと森下は思う。 「まだ、帰るわけにはいきません。森下」 鮫山に促され、森下は後ろ手に隠していた紙袋を取り出し、女館長の前で広げて見せる。 「これに見覚えは?」 「その袋がどうかしたんですか?」 鮫山に問われ、館長の目が一瞬見開く。 が、それはあくまでも一瞬で、彼女の表情はすぐに冷ややかなものへと戻る。 「これは土田が現金を運ぶ時に使用した物です。この紙袋からあなたの指紋が検出されました」 「だからなんなんですか」 「あなたの指紋がこの紙袋についたのは、現金を受け渡した時だった。違いますか?」 いよいよ核心をついてきた鮫山の質問に、彼女は声を荒げた。 「いい加減にして下さいっ。たかが紙袋についた指紋で私を犯人呼ばわりする気っ。土田さんが当館の常連だったのなら、私の指紋が付くこともあるでしょう」 「それはありえません。この紙袋は土田さんがお金を降ろした日の午前中に、南急百貨店で購入したものです。店員がそれを覚えていました。しかも、紙袋は季節毎に変えられていて、このタイプは正に、土田さんがお金を降ろしたその日、販売されはじめたものなんです」 そんな彼女に、鮫山は静かな口調で理論的に反論した。森下もそれを補足する。 「だから、あの日より前に、あなたがこの紙袋に触ることは不可能なんです」 「土田さんは銀行で現金を紙袋に入れてあなたのところに運び、紙袋ごとあなたに渡した。あなたは土田さんに報酬として1億5千万の中からいくらかを渡した。だからお金にはあなたの指紋が残った。思わぬ金が出来た土田はその足で土産を買い、その紙袋に入れて、うちの森下を尋ねた。そして、紙袋はずっとそのまま我々の元に置かれてあった。ですから、あなたがこれに触れるチャンスがあったのは、金を受け渡すとき、ただ1度だけなんです。これでもまだ、否定しますか?」 そう、今鮫山が言ったことこそが、この事件の回答を得るための数式だ。 少々回り道をしたものの、公式が見つかってしまえば計算自体は簡単。 不謹慎だと思うが、本当に事件の捜査と数学はよく似ている。 無言のままの館長に、森下は問う。 「土田を殺したのもあなたですね」 「違うっ、違うわ。私は殺してなんていませんっ」 「じゃあ、誰が殺したんですっ」 実際に手を下したのが彼女でなくても、目の前の女館長が土田の死に関わっていることは間違いない。 森下も彼女につられて声を高くした。 そんな新米刑事を制して、鮫山が彼女に確認を取る。 「詐欺はお認めになるんですね」 鮫山の静かな、だが、誤魔化しは許さないといった口調に、女館長は床に膝を付き、頭を垂れた。 そして、ゆっくりと話し出した。 「………。援助がうち切られ、ここを維持するのが難しくなりました。父の代表作を売却してもしのげなくなっていました。そんな時に、丁度融資に来ていた柿崎さんからMMフィナンシャルの金をだまし取ろうと持ちかけられました。株で首が回らなくなっていた柿崎さんの必至の説得で私の気持ちは傾いてしまいました」 「詐欺を装い金を架空口座に移す。しかし、安全に金を手にするためには、運び屋が必要です。そこで、土田に目を付けたんですね」 館長の話の足りない部分を鮫山が補足する。 間違っているのなら訂正しろと言うように。 「ここが潰れるかも知れない、そう話すと、彼は運び屋になることを承知してくれました」 「金を手にしたら、詐欺が発覚した時に警察の手が及ばないように、初めから土田を殺す計画だった。酒を飲ませて泥酔させ、公園まで連れて行き、土田を殺し、そしてあなたは土田に渡した金を回収した。あくまでも足がつかないように」 「違う、違う、違うっ! あたしが殺したという証拠でもあるのっ」 詐欺は認めた彼女だが、土田を殺しについては大きな声と身振りで反論する。 そんな彼女に鮫山は問う。 「亡くなったお父さんに誓って言えますか? あなたは、土田が何故この美術館に足繁く通っていたか、解りますか?」 「そんなの知るわけないわ」 冷たく吐き捨てる館長に、森下は告げた。 土田はもう生き返らないが、せめて、彼の思いは解って欲しくて。 「ここはあいつの想い出の場所なんです。よく家族でここに来ていたそうです。この美術館は土田が一番幸せだった時の想い出の場所だったんです。土田には事故で亡くした弟がいました。あいつはこの絵に死んだ健太くんの面影を重ねていたんです。あいつが、どんなにこの絵を愛し、この絵に慰められていたか、あなたにわかりますか? だからこそ土田は悪いことだと知っていても詐欺に荷担した。この絵を取り戻したくて、そして、この想い出の場所を守るために」 森下の言葉を聞いて、女館長の視線が空を彷徨う。 そして、ぽつり、ぽつりと語り出す。 「あの人……、あの椅子に座って……よくぼーっとしてたわ。……何もせずにただぼーっと。魂の抜けた人間みたいに……。あたしには……彼が何の役にも立たない人間に見えた。……だったら美術館の役に立ってもらおうって……」 何かは解らないが、わき上がる思いを振り払うように頭を振って、彼女は鮫山の足にすがりついた。 「あなたならわかるでしょう? あの人なんかより、父の絵の方がずっと価値があるって!」 「残念ながらこの世に人間の命よりも価値のあるものなどありません」 そんな彼女の言葉を、鮫山は首をゆっくりと横に振りながら否定した。 そして再び問う。 「あなたが殺したんですね」 「私じゃありません。確かに彼を殺そうと思い、お酒を飲ませて、あの公園に連れていきました。でも、あの人、ありがとうって……、俺を殺すんだろ、これで健太のところに行けるって……。ナイフを持った私の手をつかんで自分の胸を……」 館長の台詞に土田の気持ちを感じ取り、森下は泣きたくなった。 そして、独り言のように、呟く。 「あいつ、健太くんに会いたかったんや。せやから、自分で……」 「あなたがお父さんの絵をずっと愛し続けているように、土田さんも弟さんをずっと愛していたんです。あなたはお父さんの絵を一番愛する人を殺してしまったんですよ」 「ごっ、ごめんなさい。すいませ…ん」 とどめとも言える鮫山の言葉に、父を、父の絵を愛するが故に犯罪に手を染めてしまった女館長は、床に頭をなすりつけるようにして、謝罪の言葉を口にした。 後悔の涙を溢れさせながら── * * * 「皮肉な巡り合わせですよね。緑風の一番の理解者だった娘が、その絵を一番愛していた男を殺すなんて。今頃、健太くんと再開できとるのかなぁ。結局俺はあいつの為に何もしてやれんかった…」女館長が連行されていくパトカーを見送りながら、森下は淋しげに呟いた。 傍らの鮫山がそれに応じる。 「お前は土田の汚名を晴らしてやれたやないか」 「せやけど……、あいつが生きてるうちに何かしてやれたら……」 「お前が今彼のためにしてやれることは一つだけやろ」 「何です?」 「彼をずっと忘れんでいてやることや」 「……ええ、そうですね。忘れません」 そう、鮫山のいう通りだ。死んでしまった人間でも、人の想い出の中でなら生きられる。 忘れないよ……。 晴天の空──多分、土田がいるであろう──に向かって、森下は誓う。 そして、もう一つ決意を新たにする。 一日も早く一人前の刑事になる。 まずは、不名誉なマイナスポイントを消すことから始めなくてはならないだろうが、それはそれ。 刑事は足で稼いでなんぼの商売だ。 一歩一歩進んで行くしかない。 それが、刑事への道へであるかのように、森下は駐車場に向かう鮫山の背中を追って、大きく一歩を踏み出した── 2003. 04. 05
途中まで書いて、すごく無理があることに気付いた話。 |