カレーにまつわるエトセトラ その1 (学生)
「ひっ、火村、何か食わせてくれ……」 ノックの音でドアを開けると、同じ下宿の永岡が廊下にへたり込んでいた。 「なんだよ。金欠か」 「ああ、バイト先の給料日、明日なんだ。しかも今日は休み。まかない無しだよ。腹減って生大根かじってみたんだけど、もう駄目だ」 「せめて煮て食えよ」 ため息と共に言って、俺は永岡を自分の部屋に招き入れた。 俺もそうだが、永岡も、この下宿で頼めば月プラス1万円で付く夕食を取っていない人間のひとりだ。 朝食は下宿代に組み込まれているが、夕食が別になっている理由はそれなりにある。 往々にして学生の予定というのは急に変わるものだし、飲食店でバイトをしている者なら夕食はまかないで補える奴も多々いる。 そんな事情で、全体的に良心的なこの下宿の夕食はオプション扱いなのだ。 何故、食料として大根だけが永岡の冷蔵庫の中に残されていたのかは知らないが、大根を生でかじっていたと聞かされてしまうと、何も食っていないと言われるよりも、確実に同情心がわく。 それに気付いてわざとそう言ったんだとしたら、永岡という男はいかつい見かけによらず、相当切れる奴なのかも知れない。 まあ、9割方そんなことは有り得ないだろうが。 「取りあえず、これ食ってろよ」 先日、アリスが『おかんの温泉旅行の土産〜。火村くんに括弧はあと、やって』とかなんとか言って置いていった温泉まんじゅうの箱を差し出し、ついでに番茶も入れてやる。 「サンキュー。地獄に仏。普段なら1食ぐらい抜いても平気だけど、今日に限ってお前がカレーの臭いなんてさせるから……」 「たかりに来られたのは俺の責任だってか? 無茶言うなよ」 予定外の食い扶持出現に、俺は間もなく炊きあがる飯の量を心配しつつ、永岡の俺様理論をやっつけにかかった。 余るの覚悟で3合炊いておけば良かったと思うものの、暖かい飯に冷たいカレーというのは、勘定に入っている食い扶持のアリスでさえ知らない俺の好物だ。 よって、いくら後悔してみたところで、メニューがカレーの日に、俺が飯を多く炊くという仮定自体が成立しないのだ。 畜生、成立しない仮定をしている時点で、どっかの作家の卵みたいじゃないか。だから、推理作家は伝染るって言うんだよ。くわばらくわばら。 「いいや、無茶じゃない。火村だってガキの頃切ない思いしたことあるに決まってる。腹が減って腹が減ってどーしよーもない学校の帰り道で、その子供にカレーの臭いを嗅がせるよそのウチ。カレーの臭いは腹ぺこの少年にとって拷問に等しい嫌がらせだ」 俺が推理作家罹患疑惑に身を震わせていると、次々とまんじゅうを一口で飲み込みながら、永岡が更に無茶苦茶を抜かした。 「その気持ちが解らないとは言わない。しかしだな、永岡。お前はガキの頃、その臭いの誘惑に負けて他人の家に押し入ったことがあるか? ねぇだろう。大人になって退化してどうするよ。人として終わってるぜ」 「他人の家にはないが、友人宅になら乗り込んだことがある。つまり、俺は退化も進化もしてないってことさ」 にかっと笑って、永岡は番茶のお代わりを所望した。 「……もういい、食ったら速やかにここから退去しろ。お代わり不可。味に関しての苦情は受け付けない。文句ねぇな」 「ないない。いいよなぁ〜、自分でなにもしなくても飯が出てくる幸せ。俺、ひとり暮らし始めてからしみじみ親のありがたみを実感したぜ」 朝食は付いているし、夕食はまかない、という状況で永岡がそれをしみじみと実感するほど自炊しているとは思えなかったが──なんせ、大根を生でかじる奴だ──それに言及すると、再びぐったりしてしまう俺様理論を聞かされそうだ。 俺は番茶のおかわりは無視して、蒸らしの足りない飯と煮込みの足りないカレーを皿に盛り、コップ1杯の牛乳を添えて永岡の前に差し出した。 アリスの母親によると、牛乳は水の次にカレーに合う飲み物なのだそうだ。 じゃあ、何故水を飲まないんだという疑問は、敢えて口にしたことはない。 多分、栄養価を考えてのことなのだろうと思いつつも、聞いたら最後、──アリスの母親だけに──ものすごい答えが返ってきそうで怖いからだ。 「いただきま〜す」 忌々しいくらいの満面の笑みを浮かべて、永岡はカレーを口に運んだ。 カレーは飲み物だ。 どこぞの誰かがTVでそんな恐ろしいことを言っていたような気がするが、永岡の食いっぷりは正にそんな感じだ。 人ががっつくのをいつまでも見ていたところで、なんの生産性もないので、俺は台所にとって返す。 さて、どうしたものか。 いくらお代わりを禁止したところで、飯の絶対量が足りない。 俺ひとりなら充分なのだが、今日はアリスが友人から引き継いだという本屋のバイトを終えてから顔を出す予定だ。 例によって、ビールおごるから飯よろしく〜と、ひらひらと手を振ってアリスはバイトに向かった。 食事1回につき500mlビール2缶。どっちが得しているのかは微妙なところだ──ということにしておこう。 俺は煙草に火を付け思案した。 「増やすしかねぇよな〜」 決心して、冷蔵庫からほうれん草を取り出す。 鍋はカレーに使用中だから、フライパンにお湯を沸かして軽く湯がく。 冷水に浸けた後に水気を切って細かく刻み、更にそれを飯に混ぜる。 腹持ちは良くないだろうが、見せかけの満足感は得られるだろう。 「火村〜、入るで〜」 丁度作業を終えたところで、アリスの到着。 まるで自分の部屋の様にずかずかと上がり込むアリスの行動に不快感は感じないものの、疑問に思うところもある。 俺が、何故それを許しているのかという辺りが。 「ラッキー、カレーや。おお、永岡。久しぶり」 そんな俺の心境などおかまいなしに、アリスは積み上げてある本を脇に追いやり、どかっと腰を降ろしつつ、永岡に向かって片手を上げた。 「よお、有栖川。火村のカレー、美味かったぜ」 「ああ、美味いやろ」 ちょっと待て、アリス。 確かにお前は散々っぱらうちに飯を食いに来ているが、俺の確かな記憶によると、カレーはまだ食ったことがない筈だぞ。 「コレ、マジで金取れるって」 「なにを今更。火村が作っとるんやから、当然や」 だから、アリス。 何故、俺じゃなくお前が威張る。 「……ああ、そう。………さて、俺、部屋に戻るな。火村、ご馳走さん」 ほら見ろ、永岡でさえあきれているじゃねぇか。 とはいえ、これ以上永岡を引き留めたところで、どうなるものでもない。 「ああ。そうだ永岡」 思いついて、俺は帰りかけた永岡に声を掛ける。 「ん? どうした?」 「これから、大根は煮て食えよ」 「! あはは〜。忠告サンキュー。そうするわ」 バタンとドアが閉まり、永岡の姿が視界から消える。 「大根がどないしたて?」 「アリスも大根は煮て食えよ」 目をしばたかせながら尋ねるアリスの頭を軽く数回叩いて、俺はアリスと自分のカレーをよそいに向かった。 「子供扱いすんなやっ」 頭をおさえて叫ぶアリスの声を背中に聞きつつ、俺は思わず含み笑いをしてしまう。 何故だか解らないけれど、自分のことのように、俺の自慢をするアリスの言葉が嬉しくて── そして思う。 こんな有様じゃ、自分はどこまでもアリスを許してしまうのだろうと── 2003.05.07
半分くらいは実話です。でも、下宿のシステムは嘘っぱち。 |