カレーにまつわるエトセトラ その3 (作家と助教授)
地獄の締め切り明け── 私は資料として借りていた本を返しがてら、火村の研究室を訪れていた。 いつもの如く嫌味の応酬の後、私は資料を借りた礼をかねて火村を夕食に誘った。 しかし、火村の返事はノー。 聞けば、今日は絶対にカレーを食うと決めて、昨夜から仕込みをしてあるという。 どういう秘密があるのかは知らないが、火村のカレーは美味い。 私はあのカレーになら、450円払っても良いくらいだと思っている。 微妙な値段と言う無かれ。 因みに、現在学食のカレーの値段が200円強。 比較対照として、仮に自分で作ったカレーに値段をつけるのならば120円。 最近とんとご無沙汰しているが、おかんのカレーには300円つけてやろう。 自宅近所のカレーハウスでビーフカレーを注文すると580円取られるが、私の心の値段は──学食よりも少々落ちる──180円。 これだけ例を並べ立てれば、450円がどれだけ破格の値段がわかるだろう。 うまいところに出くわしたと、本日の酒代とつまみ代を持つことを申し出て、私は火村のカレーをたかりに行くことにした── ☆ ☆ ☆ 火村のカレーは両手で足りない位の回数を食したことがあるが、調理過程は見たことがない。いい機会だからちょっと参考にして、自分のカレーの値段をせめて150円くらいには引き上げようと、私はキッチンに立つ火村の手元を入口付近で伺っていた。 仕込みをしてあるというので、既に煮込まれたものが鍋に入っているのかと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。 一応聞いてはみたものの、聞いたところで右から左に抜けていく数種類のスパイスに、ぶつ切りの骨付き鳥もも肉をつけ込んでいただけらしい。 火村の手際は相変わらず鮮やかだ。 まず、ジャガイモの皮をむいて水にさらす。 その間に米を研いでジャーにセット。 続いて人参、タマネギを刻み、鍋に入れて先程のジャガイモと一緒に炒め始める。 ある程度炒まったところで、角切りにしたトマトを1個分。固形のコンソメを1個ぶちこんで蓋をする。 次にスパイスにつけ込んでおいた鳥もも肉の表面だけ焼いて、最後になんとウィスキーでフランベ。豪快な炎が上がる。 その鶏肉を先程の鍋の中身の表面に並べ、中火にした後再び蓋。 水は一切使っていない。焦げ付かないのかと聞けば、野菜から水分が出るから大丈夫なのだと言う。 「っと、忘れてた」 と、火村が冷蔵庫から取り出したのは何故か梅干し。 容器から2個ばかり取り出して、鍋の中に放り込む。 私は思わず声を上げた。 「ひっ、火村……、今入れたのって……」 「見ての通り、梅干しだ」 カレーにチョコレート、カレーにヨーグルト等、様々な組み合わせを耳にすることはあるが、梅干しは初耳だぞ、おい。 「まさか、それがお前のカレーの秘訣か?」 「まさか」 恐る恐る問いかけた私に、火村はあきれたように答えてキャメルに火を点けた。 そして、大きく煙を吐くと教えてくれる。 「少なくても味の秘訣じゃねぇよ。入れておくと野菜、特にいもが煮くずれない。科学的根拠もあるけど、聞きたいか?」 「いや……。酸味が出たりとかせんのか?」 「気付く程には出ないさ。実際今まで気付かなかったんだろう。さて、この間にひと仕事だ」 そう言って、火村は居間に戻りノートパソコンを立ち上げた。 「仕事て、火村、カレーは?」 「後20分はすることがない。だから仕事」 相変わらず下手くそなウインクを飛ばし、火村は私に背を向けた。 ☆ ☆ ☆ そして──現在、その20分後。火村は掛けっぱなしだった鍋の中から、先程入れた肉を取りだし、まな板の上に並べた。 ここで初めて水──というかお湯──を鍋に注ぐ。 肉が冷めるのを待って、骨を外し始める火村。 いとも簡単に骨は肉から離れていく。20分しか煮込んでいないのにすごく柔らかくなっている。 何故だ? 私の少ない経験上、20分という時間は肉を固くすることは出来ても柔らかくすることはできない筈だ。 再び聞いてみる。 聞いてはみたが、水を足さずに野菜の水分だけで煮てるから蒸したのと近い状態になってるんだと思う──というなんともいい加減な返事。 だ〜か〜ら〜、前々から疑問に思っていたのだが、こんなに適当に料理を作っているのに、どうしてこいつの作る料理は美味いのだろう。 私の憤りをよそに、火村の作業は続いていた。 浮いてきたアクを数回すくって肉を戻す。 ここでほんの1さじだけ、砂糖が加わる。 なるほど、チョコを入れる奴がいる位だから、砂糖を入れたって問題は無い訳か。 今度やってみよう──と考えたところで、私は固まった。 火村が更に加えようとしているもの、それが私の気──記憶ではない──が確かなら、普通カレーに入れるものではないぞ! 「火村っ、なんや、それ」 「本だし」 カッ、カレーに本だし? 「更に……」 理解しきれないというリアクションがあからさまな、私の様子を見てにやりと笑うと、火村は更なる和風調味料を取り上げた。 「こんなの、入れてみたりして」 醤油を鍋にひと回し。 あかん〜、俺の理解を超えとる〜。 これは……、鰹節や紅ショウガやマヨネーズが登場する前──お好み焼きか──に、この場から立ち去った方が身のためではないだろうか。 じりじりと後退る私を面白そうに眺めていた火村が、いきなり声を上げて笑い出した。 「あははは……、何ビビってんだよアリス」 笑いながら火村は火を止めて、カレールーを鍋に割り入れた。 ルーが溶けるのを待って、とろみを出すために再び火にかける間も、最後に加えるつもりであろうピーマンを炒めている間も、火村の肩は小刻みに震え、笑い続けているのが解る。 確かに私が予想外の調味料に引いたのは事実だが、そこまで笑わなくても良いと思う。 大いに気分を害した私は居間に戻り、ついでに火村の煙草も1本失敬してやる。 久しぶりのニコチン摂取に、ふわふわした浮遊感を味わっていると、火村が洋皿を持ってやってくる。 「怒るなアリス。特別サービス付きだぜ」 見るとカレーの上には目玉焼きがひとつ。 我ながら単純だとは思うものの、もともと本気で腹を立てたかった訳ではないのだ。 私はその特別サービスに彼を許してやることにして、火村からカレーの皿を受け取った。 そして、タマネギを飴色になるまで炒めるとか、じっくりとスープを取るだとか、そんな専門的なことはひとつもしていなく、火村があんな作り方で、しかもたった40分で作り上げたカレーは、やっぱり美味かったのである。 「これで、なんで美味いカレーができるかなぁ〜」 首を傾げてぼやく私に、「それには秘密がある」と言った後、ふたりしかいないというのに、火村は私の耳元に口を寄せて囁いた。 「あほ抜かせっ」 その囁きの内容の余りの寒さに、火村に軽くげんこつをくれてやってから、私は再びカレーを口に運んだ。 まあ、どんなにその作り方がインチキくさくても、食えないものが入っている訳じゃなし、美味いならそれでいいか、と、私は本日見聞きしたことを、きっぱり忘れる決心をした。 もちろん、先程の火村の囁き──「アリスへの愛情がたっぷりと入っているからさ」は別として。 2003.05.07
こんなカレーがうまいかどうか、私は知らない。 |