ドイツ伝説集の謎

 5 

 火村は柳井警部に電話をかけた後、タツミ開発へと向かった。
 彼に話を通してもらっていたのだろう。総務部長の真鍋に面会を申し出る。
 警部も通された資金課の応接で、彼から話を聞くことにした。
「ええ、北村常務に呼ばれた後、柳井さんに渡す資料を探しに行ったんです。それで、資金課の応接に行くのが遅れたんですが、その間のアリバイがないと。この事件を担当している刑事は私と資金課15人が共謀して金を盗んだと考えている様子です」
「それだけですか?」
 火村の質問に、真鍋は表情を曇らせる。
「いえ、実は私、今回の人事で役員になる話があったんですが、結果は総務部長です。その処遇に不満を覚えての犯行ではないか思われたみたいです。だいたい、私に資金課の連中を意のままにあやつることなんて出来る筈が無いじゃありませんか。……失礼しました。あなたたちにこんなことを言っても仕方がないですね」
 真鍋は目を閉じて、ゆっくりと首を左右に振った。
「いえ、お聞きしたのはこちらの方ですから。その、人を意のままにあやつる方法ですが、私は後催眠を使ったものだと考えています」
「後催眠とは?」
 聞かれて、火村は後催眠についての説明を始めた。
 小道具としてジャケットのポケットからライターを取り出す。
「後催眠とは文字通り、後でかかる催眠のことです。まず、あらかじめ対象者に催眠をかけます。そして、ある暗示を与えます。たとえばこれ、ライターの火を見たら踊り出しなさい。そして、一度覚醒させます。しばらくして、その対象者が合図を目にすると、本人も気付かないうちに踊り出す。これが後催眠です」
「なるほど、その場でかけるのではなく、かけておいた催眠術を後から発動させるから、あの人数を一気に操ることができたという訳ですね」
「ご理解が早くて助かります」
「それで、私は何を?」
「資金課の方々に、そのきっかけになるようなことに心当たりがないか尋ねて頂けませんか」
 それを聞いて、真鍋は大きく頷く。
「解りました。少々お待ち下さい」
 勢い込んで真鍋は応接室を出た。
 その合図が発見できれば、自分の容疑が晴れると思ったのだろう。まあ、気持ちは解る。
「とは言ったものの、多分無理だろうな」
 真鍋の背中を見送った後、火村は小さく呟き、煙草に火を点けた。
 それには、私も同感だ。短く「ああ」とだけ返答した。それが被催眠者にわかるくらいなら、後催眠をかける意味は半減する。
「その他の人間に不自然さを感じさせることなく、対象者15人全員に合図を送る方法か……」
 火村はここで言葉を切った。その合図とは何かを考えているのだろう。
 私は思いつくままに話し始めた。
「お前は真鍋さんに後催眠を説明する時、ライターの火を使うてたけど、現実問題として、仕事中の人間に一斉に何かを目撃させるというのは、たとえそれが日常的に目にするものであったとしても、不可能やないのか」
「ああ、お前の言うとおりさ。だけど、どうせ意見してくれるなら、不可能なことじゃなくて、可能なことを考えろよ」
「不可能なものを消していって、残ったものが可能なものや。見ることは不可能なんやろ。なら、聞いたんやないのか?」
「聞いた? 音か……そうかっ!」
 小さく叫んだかと思うと火村は携帯を取り出し、誰かに電話をかけ始めた。
 程なく、相手は柳井警部だと知れる。
「ええ、彼らと同じフロアにいた警部は、その音を聞いている可能性が高いんです。何かお心当たりはありませんか? 多分、社内アナウンスか何かだと思うんですが。……………はい、呼び出しですか? なんと言っていました? ……ハイドなんとかですか? ……いいえ、大丈夫です、後はこちらで調べてみます」
 通話を終えた後、火村は私に向かって「行くぞ」と告げ、勢いよくソファから立ち上った。
 応接室を出て資金課の社員を集めて質問をしている真鍋の元に歩み寄る。
「真鍋さん…」
「君たちっ! 一体ここで何をしているっ」
 火村が真鍋に向かって話しかけたとき、それは誰かの怒鳴り声によって遮られた。
「北村常務、この方達は、事件の捜査に……」
「捜査? なんだね、とっかえひっかえやってくる割には全然進展していないじゃないか。うちの社員を疑うしか能がないのかね」
 北村と呼ばれた常務はねめつけるように私たちを見た。
 どうやら私たちを三課の人間だと誤解しているらしい。百歩譲って火村はともかく、よく私の方まで警察の人間だと思ってくれたものだ。
「いえ、常務、この方たちは」
「うるさいっ、金が戻ってこなかったら、君の責任だからなっ。しっかりやりたまえ」
 真鍋の言葉を聞きもしないで、北村は踵を返した。
 昨日、柳井警部もちらりと言っていたが、本当に人の話を聞かない人だ。
「やれやれですよ」
 北村が資金課から姿を消すと、真鍋は苦笑しながら私たちに向かって言った。
「ところでどうしました?」
「いえ、資金課の方々には、もう、仕事に戻っていただいて結構です。見当が付きました」
「本当ですか?」
 真鍋が目を輝かせる。
「ええ、それで、社内アナウンスを受け持っている方にお会いしたいのですが」
「解りました。ご案内します」
 問い返すこともなく、真鍋は私たちを促した。
 理由は気にならないのだろうか? それとも、火村の意図が一瞬で解ったのか。
「北村常務はいつもあんな感じの方なんですか?」
 真鍋の後について歩きながら、私はなんとはなしに聞いてみる。
「ええ」
 再び苦笑。
「普段から割とあんな感じなんですが、今回の件に関しては特に神経質になっているみたいです。彼は経理担当重役なんですよ。私もそうですが、金が戻らなかったら、彼も責任を取らされかねません」
「成る程。気持ちは解りますね」
「まあ、人の話を聞かないのはいつものことなんですが……。不愉快な思いをさせて申し訳ありません」
「いえ、そんなことは……」
 私は語尾を濁した。
 真鍋は気にしなかった様だが、隣の助教授に『そんなことはないのかあるのかはっきりしろよ』とでも言いたげに一瞥された。
 はっきりしなくて悪かったな。
「こちらです。坂下君ちょっと」
 そんなことをしている間に、目的の場所についたらしい。真鍋が女性社員に声を掛け、こちらに呼び寄せる。
 火村の質問に、彼女はハキハキと応えてくれた。
「電話があったんです。会社の前に邪魔な車があるからよけて欲しいと女性の方から。それで確か車の移動をアナウンスしました」
「正確には何と放送しましたか」
「少々お待ち下さい」
 彼女は自分の席にとって返し、1冊の大学ノートを持ってきて、パラパラとページをめくった。
「あっ、ありました」
 言われて、私と火村は彼女の両脇からそのノートを覗き込んだ。
「パイドパイパー・コーポレーションのドライバーの方、お車の移動をお願いします……パイドパイパー・オブ・ハーメルン! ハーメルンの笛吹きや、火村っ」
「ああ、これだ。謀らずして、お前が言ってたっけな」
 思わず声を上げた私に、火村は冷静に応じた。
「あの? これがなにか?」
 横から真鍋が疑問をはさむ。
「すぐにお解りになります。もう少々お付き合い頂けますか?」
「……はい」
 訳が解らないといった表情の真鍋を後目に、火村は女性社員に耳打ちをした後、私たちを資金課へと促した。

*   *   *

「火村さん、あんな変な社名が本当に合図になるんですか」
「変だからこそ、合図として使えます」
 資金課の入口にて、火村の返答に真鍋が首を傾げた時だった。
 社内アナウンスを伝えるチャイムの後に、『パイドパイパー・コーポレーションのドライバーの方、お車の移動をお願いします』という女性の声が社内に響いた。
「えっ? コレ」
 天井を指差す真鍋に火村は告げる。
「先程、お願いしておきました。合言葉は耳慣れない言葉である必要があります。普段耳にする言葉だと、とんでもない時に対象者が催眠状態に陥ってしまう可能性がありますから」
「成る程。……と、いうことは?」
 慌てて真鍋が振り返り、その光景を目にして、あんぐりと口を開ける。
 少々間抜けに見える姿だが、まあ、仕方あるまい。
 こうなることを予想していた私でさえ、この光景を目の当たりにすると、衝撃を覚えるのだから。
「君たち、止まりなさいっ!」
 真鍋はいつまでも間抜け面をしてはいなかった。一瞬にして気を取り直し、社員を押さえにかかる。私もそれに習った。
 が、催眠状態にある人間は思いも寄らない力を発揮すると言うが、彼らも例には漏れず、私たちを押しのけ歩き続ける。
「すごい力です」
 真鍋が放心したように呟く。
「おい、火村。このままやと、又……」
「ああ。真鍋さん、噴水を止めて貰って下さい」
「えっ? はいっ」
 火村の言葉を受けて、真鍋は廊下をかけだした。





 6 

「合言葉が解っても、それが桐野リサと結びつかないと、意味無いわな」
 タツミ開発を辞した後、再び火村の下宿に転がり込み、ビールを1本空けてから、私は火村に事件の話を振った。
 最初は彼女は関係ないと断言したくせに、既に犯人扱いで呼び捨てかと、私は自分自身に苦笑する。
 だが、私は経験上知っているのだ。火村という男がここまでこだわることに、外れはないということを。
「アリス……、お前解ってた訳じゃないのか?」
「何が?」
 私の思いをよそに、火村はあきれた様に問いかけてきた。と、言われてもあきれられる理由が解らない。
「これは、周到に入念にしくまれたゲームだ。合言葉には必ず意味がある」
「人を誘い出すていう見立て以外に意味があると?」
「もちろん、有栖川先生は、この話の筋をご存知ですよね」
 少なからず、人を小ばかにしたような火村の言いぐさに、私はその挑戦を受けて立った。
「ああ、もちろんご存知だとも。出展はグリムの『ドイツ伝説集』や。ある笛吹がハーメルンの街からネズミを駆除するが、街の人が約束の報酬を払わなかった為に、怒った笛吹きが子供達を笛で誘い出し、街から消してしまう。童話として語り継がれているが、歴史上に実際にあった話がベースになっている。ああ、確か英国の詩人ロバート・ブラウニングが…」
「もういい、誰が蘊蓄まで語れと言ったよ。約束が反故にされて笛吹きは怒った。ここがポイントだ。犯人はこの言葉を使うことにより、犯行に復讐の意味を込めたとは考えられないか」
「てことは……動機は金じゃなくて復讐?」
 ならば、彼女に見え隠れした影は、復讐を誓った者が持つ影なのだろうか。
 目の前の誰かに似ていると感じた彼女の影──
 火村──君も?
 火村が煙草の煙と共に、「多分な」と告げた時、火村のパソコンが音を立ててメールの着信を知らせる。
 私は浮かんでしまった余計なお世話な想像を、その音と共に振り払う。
 私がそんなことをしている間に、火村はメールを開き、くいいる様に画面を見つめていた。
 そして──低く呟く。
「ルディ・桐野……繋がったな」

*   *   *

 15年前、タツミ開発は高額な役員報酬を払う約束でルディ・桐野氏をヘッドハンティングした。
 真鍋に頼んで、当時の事情を良く知る北村常務から引き出せた情報はそれだけだった。
 が、それを引き出すのにでさえ、無駄に時間を食ってしまった。
 当時の社内報に2人が並んで写っている写真が掲載されていたにも関わらず、北村は最初そんな人間は知らないと言い張ったからだ。
 いくら食い下がっても、詳しい事情は話して貰えないまま追い返された。
 北村は絶対に何かを隠していると思うという私の意見に、火村は、
「ルディ・桐野氏に何があったのかは察しが付く。ハーメルンの笛吹きさ。約束を破られた笛吹き、それが桐野リサの父親だ」
「せやから、パイドパイパーを合言葉に使った……。状況証拠は確かに彼女を指しとる。しかし、物証がない」
 ベンツのステアリングを握っている火村からの返答はない。
「どうするんや、ここままやと、彼女はアメリカに帰ってしまうで」
「唯一の物証は盗まれた現金だ。あれだけかさばるものをどうやって運びだすつもりなのか」
 今度は火村からの返答がくる。成る程、それを考えていたのか。
「宝石かなにかに変えたんやろか」
「事件発生からまだ2日だ。そんな時間はない筈だ」
「せやけど、慌ただしいな。昨日告別式やから、今日、火葬やろ。火葬場から直接空港に向かうつもりなんやろか」
「火葬? ……いや、違う。畜生、なんでこんな簡単なことに気付かなかったんだっ」
 チッと舌打ちをすると、火村は年代物のベンツに鞭を打った。

*   *   *

「あまり時間がありません。飛行機の時間がありますから」
 桐野リサが自宅前でタクシーに乗り込む寸前、間一髪のところで、私たちは彼女を捕まえることができた。
「それまでには全て片がつきます。ご心配なく」
「話というのは何ですか?」
「先日ご意見をお伺いしたタツミ開発の盗難事件の件です」
「私やったとおっしゃるんですか?」
「はい。あの犯行ができるのは、あなたをおいて他にいません」
 火村の断言に、彼女は皮肉めいた笑みを浮かべる。
「どうして私なんです? 私には動機がありません」
「あなたのお父さんは、ルディ・桐野氏は15年前タツミ開発の取締役の椅子を約束されて、単身日本にやってきました」
「それが?」
 と言いながらも、彼女は火村から顔を背けた。
「ところが、突如バブルが弾け、リゾート開発は大打撃を受けた。桐野氏は約束通りの報酬を受け取ることが出来なかったばかりか、新規事業の失敗を全て押しつけられてタツミ開発を放り出された。これも、間違いないですね」
「だから、なんなんですか」
「お父さんを陥れたのは常務の北村さんですね。北村さんは経理担当重役です。だから、あなたは大金を奪うことで彼に復讐しようとした。しかも、犯行をある童話の筋書き通りに行った。違いますか?」
「おっしゃっている意味が解りません」
「パイドパイパー・オブ・ハーメルン。ハーメルンの笛吹きですよ。あなたは英会話教室を利用して経理部員達に後催眠暗示をかけた。相手との信頼関係を築くこと、暗示をかけるにはそれが必要です。英会話教室はそれにうってつけだった。言葉の抑揚、緩急、瞬間催眠法を使い、誰にも気付かれずに、あなたは彼らに後催眠暗示をかけた。そして、合言葉をきっかけにそれが発動するようにし向けたんです」
「それは、あなたの想像でしょう」
 今まで、決して変わることのなかった彼女の口調が、ここに来て少々強まる。
「物証もあります。気になっていたんです。何故、あなたが父親が亡くなった翌日にわざわざ犯行を行ったのか。あなたにはそうする理由があったんです。──棺ですよ。あれだけかさばる現金を運ぶにはうってつけだと思いませんか? 今頃教会の家宅捜索をして、お父さんの棺から現金が見つかっていることでしょう」
 火村の言葉に、彼女は悔しそうに唇を噛んだ。
 もう諦めて欲しくて、私は告げる。
「話してくれませんか、本当のことを」
「………全て、父の為よ。父はタツミ開発に酷い扱いを受けてから、すっかり憔悴してしまい、身体まで壊したわ。父をそんな目に遭わせた北村に、私は我慢できなかった。だから……父と同じ目に遭わせてやろうと思ったのよ」
「そうだと思いました。誰も傷つけずに大金を奪う、鮮やかな手口。私がこんな仕事についていなければ、あなたに尊敬の念さえ抱いたでしょう。……自首していただけますね」
 火村の問いかけに、彼女はゆっくりと頷いた。

*   *   *

「家宅捜索は終わったんですか?」
 自首の前にお父さんにお別れをと提案し、教会の中に入った途端、彼女が怪訝な声をあげた。
 なぜなら、今、彼女の目に映っているのは、自分が最後に目にした様子と、全く違いがない筈だから。
「……騙したのね」
 振り返って自分を見つめる彼女に、火村は静かに告げる。
「いえ、騙してはいません。暗示しただけです。家宅捜索をしたとは言っていませんから」
「……こんな、簡単な暗示も見抜けないだなんて」
 泣き笑いのような表情を浮かべて、彼女は首を振った。
「家宅捜索という荒っぽい手段は取りたくなったものですから。ご自分の手で、お父さんの棺からお金を取り出してあげて下さい。これ以上、死者の魂を巻き添えにして、冒涜しないためにも」
 火村の口から出たのは、私にとっては思いがけない台詞だった。
 だが、すぐに気付く。彼は知っているだけだと。
 自分の信念と、こういう場合に、他人の心を打つ言葉は別だということを──
「……ありがとう」
 そして──
 彼女が頭を垂れて言った言葉は、それを証明するものだった。

2003. 05. 19

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すいません。嘘つきました。
もう、既に月曜です。しかも話は穴だらけ。
お願いですから、深く考えないで下さい〜(T_T)

● Alice top ●


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