1 気付いた時には、俺の足下に岩切(いわきり)の死体が転がっていた。 テーブルの上に乗った大理石の灰皿を振り上げて、奴の背後に忍びより、頭蓋骨をうち砕いたのは他でもない俺だ。 手応えがあった瞬間、自分の唇の両端が嬉しそうにつり上がったのさえ覚えている。 しかし、現在の俺は、この光景が夢なのではないかと疑っている。 今までだってずっとそうだったのだ── もしかすると、次の瞬間目が覚めて、何も変わっていない現状にため息をつく朝が待ちかまえているに違いない。 幾度と無く夢の中で繰り返された、岩切の殺害。 その夢の中でも俺は決まってこの灰皿を振り上げていたのだ。 だから、これは夢だ。 そう思う反面、これは紛れもない現実なのだと、頭の隅で何かが告げる。 俺の夢であるならば、奴の言う台詞は決まっているから。 何度聞いても腹の立つ台詞だが、今日言われた言葉に比べると、まだ我慢のできるものだ。 だが、先刻の言葉は許せない。 否、許してはならない── 再び怒りが込み上げてきたことで、呆然としていた自分の意識がはっきりするのが解る。 まずは確認1、これが夢ではないことを確かめる。 殴られた衝撃で座っていた椅子から床へ転げ落ちた岩切の身体に触り、その感触と実際に死んでいるか否かを確かめる。 間違いない、ごれは現実で、岩切は死んでいる。 ここで確認2、自分に自首する気があるか否か。 半秒と考える間もなく答えは出た。 俺はこんな奴の為に人生を棒にふる気は全くない。 以上、確認終了。 ならば── 何としてでも、この場を切り抜ける方法を考え出せ、立花一喜(たちばな・かずき)。 男38歳、ここが勝負時だ。 自分と、守るべき相手を守りぬく為にも── 2 岩切巌(いわお)、職業作家、年齢48歳。 これが、たった今俺が殴り殺した男の属性だ。 そして言い訳させて貰えば──誰に?──こいつは、殴り殺されてしかるべき男である。 ここは、今にもここから逃げ出したい衝動を振り払う為にも、生前の奴の人となりを振り返ることにしよう。 多分、それをすることによって、捕まるわけにはいかないという俺の決心もより強固になるはずだ。 ☆ 岩切は、本を全く読まない人間でも、その名前を1度くらいは聞いたことのある、名の知れた作家というやつだ。元々、マニアには受けるが爆発的に売上を伸ばすこともない歴史小説を書き続けていた岩切が、突如方向を切り替えて現代物、しかも恋愛小説に転向したのは9年前のことだ。 今までは舞台が現代に近づいたといっても、せいぜい明治時代までの話か書かなかった岩切が、主婦を主人公に公園で偶然出逢った画家と、禁断の恋に墜ちてゆく様を赤裸々に描写した話を書いたのだ。 その話は現状に不満を持つ主婦に大いに夢を与え、受けた。 岩切がしてみせた、華麗なる転身。 誰もがその鮮やかさに驚愕した。 もしかして別人が書いているんじゃないかと、少なからず噂される程に。 それは、いつぞや雑誌の締め切り直前に失踪して、その後とんと行方の知れない女流作家であるとか、たまたま書いた官能小説があたってしまい、以来、その手の原稿依頼しかこなくなった元純文作家だとか、いかにもそれっぽいエピソードと共に、未だ囁かれ続けている。 既に方向転換してから10年近くも立つ今でも、何故そんな噂が流れ続けるか。 それには、理由がある。 TV画面や雑誌のインタビューなんかで現れる外面は、ものすごくよい岩切だが、その反面、家族や仕事で関わる人間には、岩切は毛虫のように嫌われているのだ。 俺個人の見解としては、この形容は毛虫に対して失礼だと思うぐらいに。 まず、仮にも文章に関わる仕事をしているくせに、言っていることの訳が解らない。 中途半端に知り得た情報を、間違いだらけの内容で、偉そうに語る。 自分のことは棚に上げて、聞いている方が不快になる他人の悪口を言いふらし、ばかにする。 自分が人を待たせるのは平気だが、自分が待たされるのは絶対に許さない。 都合が悪くなると逆ギレする。 一部をあげただけでこの有様だ。 その我侭さときたら、3年前に一人娘が大学を卒業して自立した途端、妻が離婚届を置いて家を出てしまった程だ。そして、その一人娘さえも、岩切の処には寄りつかない。 つまり、こんな人間に、愛情あふれる恋愛小説は書いて欲しくない──否、書けて欲しくないというのが、噂が流れ続ける真相なのだろう。 だが、そんな噂をしている人間だって、そのゴーストライターが、奴の家に出入りしている庭師だとは思うまい。 そう、つまり俺だ。 親父の稼業をついだはいいが、バブルがはじけて以後その仕事も格段に減り──庭の維持費なんて、余裕があるときならばいざ知らず、まず最初に削減される類の金だからだ──食い詰めるほどではないまでも、暇な時が多くなった。 暇つぶしに書いてみた、妻との出会いをとてつもなく美しく脚色した小説を、未だ定期的に──随分と値切られてはいたものの──仕事を入れてくれいた岩切に見てもらおうなどと思ったのが、俺の人生の失敗の始まりだ。 今思えば、あの岩切が素人小説など良く見る気になったなとも思うし、よく、こんな小説はくずだと罵し──たとえ事実がどうであったとしても──ゴミ箱にでも突っ込まなかったものだな、としみじみ思う。 そして、多分、俺にとってもそうされてしまった方が良かったのかもしれない。 たとえ、その時は腹立たしくて、更に落ち込んだとしても。 が、岩切はこう言った。 情感溢れて大変良い小説だと思う。が、デビューした作家が書くならともかく、これでデビューできるような作品ではないね、と。 作家としてデビューするためには、良くも悪くもインパクトのある作品が必要だと。 はっきり言って、俺はこの言葉だけで満足だった。 興味はあったものの、どうしても小説家になりたかった訳ではない。 大先生と呼べるかどうかは微妙だが、それでも作家に認められた嬉しさだけで充分だったからだ。 気を良くした俺は、岩切の言葉にそんなもんでしょうねぇと相槌を打ち、この小説を書くに至った経緯をかいつまんで話さえした。 そんな俺の話をうんうんと頷きつつ聞きながら、最後に岩切は人のいい笑みを浮かべて──知らないっていうのは幸せだということを、今はしみじみ実感しているが──誘惑の言葉を囁いた。 私の名前を貸そう──と。 その時、岩切から出された条件は、俺の小説を岩切の名前で出版して、得られた収入は折半するというもの。 名前を貸すだけで利益の半分をかっさらうなんて、今考えてみるとものすごい条件だが、当時の俺にとっては魅力的なことだった。 本業の仕事が減っている上に、岩切の申し出を受けたところでリスクが全くないのだ。 売れれば儲けもの、売れなくたって1円の損にもならない。 当然、俺は頷いて、原稿を岩切に預けた。 そして現在、岩切巌の名で出版される文章の全てを俺が叩き出しているのだ。 今となっては、俺だって好きでゴーストライターをしている訳ではないし、あんな岩切だって好きでゴーストライターを使っている訳ではないだろう。 岩切のことだから、自分が楽をできることには異存はないかもしれないが、少なくとも、俺に金を払うのには大いに不満があるようだ。 高々半日上がりが遅れただけで、貰っている金の分だけの仕事をしろだとか、資料もいらない中身の薄い話を書いているくせに時間だけは一人前にかかるんだなとか、その嫌味は止まるところを知らない。 あげくに、俺が一番乗って書いている時をねらい澄ましたように、急ぎの雑文の仕事をねじ込みやがるのだ。 調子に乗っているところで、ペースを乱されるのは、絶対に仕事としての効率が悪くなる。効率が悪くなるだけならまだしも、文章自体が悪くなることだってあるのだ。 仮にも自分で小説を書いてきた人間なのに、何故、そんなことに気付けないんだ? 大体、そんな雑文くらい自分で書けばいいんだ。 と思う反面、恋愛小説がらみのエッセイなんて奴には書けるわけがないとも思う。 だから、俺の仕事を手伝えとは言わない。せめて邪魔をするな。 入った仕事は締切間際に思い出さずに、すぐさま俺に回せ。 締切間際の夜中に進行状況を尋ねる電話を入れたあげくに、嫌いな芸能人の悪口を延々と語るのはやめてくれ。 依頼されたページ数を間違えるな。 俺がどんなワープロソフトを使って原稿を打っていようが、お前にばかにされる筋合いはない。 もう自分では1行だって書けないくせに、偉そうにするな。 こっちだって、岩切の名前を借りなければ、最初の話が本になることなど有り得なかっただろうと思うからこそ黙ってはいるが、お前が最初の約束だった収入は折半という約束を破って、自分が70%以上を横取りしているのも知っている。 それなのに、岩切お前のその目はなんだ? 俺をばかにしている、その目。 それだけならまだしも、それを口にまで出す無神経さはどうやって育てられれば身に付くんだ? その名声は自分の実力でもないくせに、何故そんなに威張っていられるのか。本当は、読者の望むものなど1行たりとも書けないくせに、何故それでも自分は作家だと思っていられるのか。 奴の思考回路は、俺には一生理解できることはないだろう。 作家として以前にコイツは人間として終わっている。そんな奴に本気で腹を立てるのは俺の損だ。 大人になれ立花一喜、本物のばかにばかと言うのは気の毒ってもんだ、我慢しろ。 岩切と向き合うたびに、そう思って自分をなだめ続ける日々。 今ここで、この重たい大理石の灰皿を両手で振り上げてやりたい。 幾度と無く思ったことだ。そう、夢にさえ見る程に。 そこまで腹に据えかねるならば、いっそ奴との縁を切るか、実際に灰皿を振り上げるかすればいい。 しかし、それが出来ないところが、俺という人間の悲しいところだ。 奴の元家族を含めて、俺が知るだけでも、軽く2桁の人間に『死んでしまえ』と思われているだろう人間を、わざわざ自分が殺すのはあほらしい。 月のない晩、刺されてしてまえ。 誰か殺してくれ。 頼むから死んでくれ。 いくら願ったところで、憎まれっ子世にはばかる選手権ワールドチャンピオンのような岩切は、交通事故にも遭わず、もちろん通り魔に刺されることもなく、憎たらしいことに病気の一つもしやしない。 そんな悪態を心の中で止めどなくつきながらも、今まで俺が岩切のゴーストを続けてきた理由は、あまりにも単純で現実的なものだ。 いくら岩切にピンハネされているとはいえ、現在、庭師としての仕事を、断り切れない昔なじみ家の分しか受けていない俺は、書くことをやめてしまえば、収入を得る術がなくなるからだ。 いっそ、全てを公表して、岩切の影から抜け出すか。 そう思ったことも1度や2度ではないが、その為に使う労力を思うと二の足を踏まざるを得ない。 それに、俺には野望もあった。 岩切の影として、仕事をこなしてこれた俺だ。 デビューさえうまくいけばこっちのもんだ。 新人が乗り越えなければならない壁なんてとっくの昔に乗り越えている。 だから、忙しい岩切名義の仕事の合間を縫って、奴が俺にいった言葉の中で唯一真実である、インパクトの強い作品ってヤツを着々と執筆しているのだ。 見てろよ岩崎、お前が一番困るタイミングを狙って、俺はお前の影を抜け出してやる。 これが、お前に対する俺の仕返しだ── 3 そう思っていたにも関わらず、ここには岩切の死体が転がっている。 ならば、岩切の人間性を振り返ったついでに、奴を殺すに至った経緯も振り返っておこう。 やはり、こんな奴は許しておけない。 そう思えば、自分の罪悪感を少しでも減らすことができるだろうから── ☆ 確かに合間に書いている筈の自分の為の執筆に圧迫されて、仕事の納品が遅れがちなのは認めよう。だが、岩切に文句を言う筋合いは無い筈だ。 ましてや、出版者側の締め切りを破っている訳ではないのだから尚更だ。 ただ、岩切が編集者に作品を渡す前に目を通す時間がなくなることもあり、奴自身が原稿のあがる時間を即答出来なくなる。それだけだ。 「お前のせいで私は恥をかいたぞ。お前がまともな話を書かないせいで、恥をかくのはいつも私だ。私の身にもなってみろっ」 そして今日。岩切の書斎を訪れた途端、投げつけられたのがこの言葉だ。 きっと、俺があれだけ無理だと言ったにもかかわらず、昼にはできると豪語して、俺が岩切に先に渡してあった前半部分の原稿しか編集者に渡せなかったことに腹を立てているのだろう。 あげくに、それを取り繕うために、とんちんかんな話でもして首を傾げられたか? 岩切の自宅前で、講英社という社名入りの封筒を抱えた見覚えのある男を見かけた俺はそう判断した。 この予想は大当たりだった。 他人が聞いたならば全く意味の解らないであろう、やりとりを数分続け、あくまでも慣れと俺の驚異的な理解力で、知り得た話の内容は、岩切がデジカメの仕組みを解っていなかったということだ。 どう考えても、それは俺のせいではない。 この分からず屋にどうやって説明すればいいのかと途方にくれて、俺は大きくため息をついてしまった。 その行為が岩切の逆鱗に触れたらしい。 「ため息をつきたいのはこっちの方だ。大体、お前が私にわからなそうなことがあったら先に説明しておくのが君の役目だろう」 そんな無茶な。 編集者に原稿を渡したからといって、フロッピーで納品している作品は岩切のパソコンの中に残っているのだから、読んでみて解らないことがあれば俺に尋ねる。それが筋ってものではなかろうか。 それに、こっちにだって、予想のつくこととつかないことがある。 「だって、岩切先生、デジカメ使ってらっしゃいますよね」 「私の持っているものとは機種が違った」 「どんな機種にも付いている機能ですよ」 「いや、私のものにはついていない」 「ついています。俺も先生と同じ機種を使っていますから」 「なら、型番が違うんだろう」 「先生の物の方が新しいです。いや、いいです、俺が悪かったです。以後気を付けます」 途中でこの不毛な会話を続けるのが嫌になった俺は、話を途中で切り上げることにする。 こんなところで時間を無駄にするくらいなら、早く自宅に帰って自分の仕事がしたい。 「気を付けますって、本当にそんな気持ちがあるのか?」 だが、岩切はそれを許さずネチネチと俺に絡み続けた。 それだけなら、多かれ少なかれ毎度のことだから、イライラするものの耐えられない程のものではない。 ただ、王様の耳はロバの耳の如く、帰りにカラオケボックスによって大音量で音楽をかけながら、岩切の悪口を思う存分叫ばなくてはならないだけだ。 だが、今日の岩切は余程機嫌が悪かったのだろう。 さしものあいつも決して口にすることはなかった、禁断の言葉を口にした。 それが地雷だと解っていたからこそ、今まで言わなかっただろうに。 「大体、大恋愛の末結ばれたといっても、お前の嫁さんなんて今となっては只のババアだろう。15歳年上だったか? それなのにお前の書く女はみんな女房がモデルじゃないか。そうだろう、最初の作品の時から全く変わってないんだから。全く、そんなババアを目の前にして、よくあんな甘ったるい小説が書けるもんだ。現実がはっきり見えるように、いい眼鏡屋でも紹介してやろうか」 全宇宙で一番感じが悪いと断言できる笑みを浮かべて、岩切は煙草を手に取った。 それをくわえたものの、大理石の灰皿とセットのライターはガス切れらしく、カチカチと乾いた音を立てるだけだ。 チッと舌打ちをすると、岩切はパソコンの乗った机の方を振り返った。 その岩切の背中を見て、俺の殺意のゲージはマックスを超えた。 ローテーブルに乗っていた灰皿に手を伸ばし、ごそごそと机の引き出しを探り続ける岩切の背後に忍び寄る。 ようやくライターを捜し出したらしい岩切が頭を上げた途端、こん身の力を込めて灰皿を振り下ろす。 ゴンッという鈍い音と共に、手応えを感じた。 そして、数秒後にはフローリングの床に岩切の身体が崩れ落ち、みるみる血だまりを作っていった。 ☆ やはり、単なる回想でも、俺の殺意は新たになる。そして、こんな奴のために人生を棒には振れないという決意も。 改めて決心したところで、状況の確認だ。 どう考えたって、後頭部を殴打して自殺なんてことはできないだろうから、自殺に見せかけるのは無理だ。 自殺に見せかけるのが無理だということは、凶器は指紋を拭き取ってからこの場に放っておけばいい。 余計なことをすればする程、足がつきやすくなる。 そして、自分が見かけた講英社の編集者が俺に気付いて居なかったという確証がない。 となると、岩切が殺されたのは俺が帰った後だという状況を作り出すのがより安全な方法というものだ。 出来るのか? そんなことが? ひとり暮らしの岩切の死体が今日中に発見される可能性はまずないだろうが、部屋を暖めたり冷やしたりしたところで、誤魔化せる死亡推定時刻はたかがしれているだろうし、良い方法だとも思えない。 死亡推定時刻を誤魔化したがっていることがバレてしまうことの方がよっぽど危険だ。 いや、待て。本当に岩切の死体が今日中に発見される可能性はないのか? 俺は慌てていつも岩切が予定を書き込んでいるカレンダーに目をやった。 今日の日付の欄の『PM1:00──講英社』という書き込みが丸で囲まれ、明後日の欄に矢印が伸ばされているのが目に入る。 そして、明日の欄は空白になっている。 近所づきあいも殆どなく、友人も少ない岩切のことだ。余程のハプニングが無い限り、明後日の昼まで死体が発見されることはないとみていい。 しかし、あの暢気そうな眼鏡の編集者が岩切の死体を発見するかと思うと少々気の毒な気もする。 彼にはなんの罪もないのだから。 おっと、今の俺には他人に同情している暇などない。悪いが我慢してくれ眼鏡くんと、彼への同情を追い払おうとした時、俺の頭に名案が振って湧いた。 発見が遅れることによって幅の出るであろう死亡時刻を、俺が立ち去ってから少なくとも半日は後に限定出来る方法がある──。 こぶしを握り締め、自分でも何を信じているのか良く解らない神に感謝する。 そして── 俺は、岩切が嫌味を言うのに夢中で、受け取るのを忘れていたフロッピーディスクをジャケットのポケットから取り出した。 2003. 09. 08
久しぶりの事件物です。しかも犯人視点から書いてみました。 |