4 「君の全国区ぶりにほとほと感心するわ。一応全国の書店に本が置かれとる筈の俺よりも、よっぽど知名度高いんちゃうか」 「ああ、相手が警察関係者限定だったらな。別に推理小説マニアの間で俺の知名度が高いわけじゃねぇんだ。つまらないことですねるなよ」 私の言葉を聞き流すと、火村はキャメルに火を付けた。うまそうに煙を吐き出す彼を横目で眺め、私は煙ではなくため息をはき出した。 「すねとるわけじゃない、あきれとんのや」 呟いて、私も火村の煙草を1本くすねてやる。 そう、私はあきれているのだ。 東京の夜7時に、私たちが警視庁世田谷西署にいるということに。 とはいえ、私の隣に座る10年来の悪友は、別に千円札を受け付けない腹いせに自動販売機を叩き壊して警察に捕まった訳ではない。 私と彼の母校である京都の私大で犯罪学に関する教鞭をとっているこの助教授は、研究の一環として、実際の犯罪捜査に拘わることをフィールドワークとしており、最近は数々の事件を解決に導いた実績により向こう側──つまり警察だ──からお呼びがかかることが少なくないのだ。 そして、大阪在住の推理作家である私も、助手としてその捜査に顔を出すことがある。 だからして、ここが私も面識のある京阪神の警察署だというならば、このような状況は珍しくはない。 しかし、しつこいがここは東京で、今は夜7時なのだ。 仮に、難事件を解決するために、警察関係者には大層(強調)有名な、火村英生大先生がご足労願えませんかと呼び出されることはあるとしても、助手までが呼びされる訳がない。 その火村大先生にしたって、今回の上京の目的は学会に出席する為である。 ならば、なぜ私がここにいるのか。理由はあきれる程簡単だ。金曜日にその学会が終了し、その後体の空く火村のスケジュールに合わせて私も上京したからだ。 だからといって、私とて金魚のふんのように、火村の後ばかりついて歩いている訳ではない。 私は私で一度東京に出向かなければならない用事があったので、ついでに予定を合わせた、それだけだ。 決して、今頃乗っている筈だったはとバスのナイトツアーが目的で嬉々としてやってきた訳じゃない。例えそれが「花街・芸者・向島」コースだったとしても……多分。 ああ、火村の携帯に入った1本の電話がきっかけで、その後の予定が総流れになったことも、別にちっとも恨んではいないとも。 いや、実際恨んではいないのだが、白状すると、実はちょっぴり疑ってはいる。 本日夕方、とある事件で知り合って、昨日一緒に酒を飲んだという警視庁捜査一課の部長刑事から火村の携帯に電話が入った。その電話で事件の概要を聞くと、隣に居た私に断ることもせず、火村は捜査本部に顔を出すと即答したのだ。しかも、助手付きで良いかと。 百歩譲って、火村が私との約束を反故にして捜査本部に出向くのは良しとしよう、だが、なぜ私の予定まで勝手に決める? と、くってかかったところ、被害者が作家であるから、一応作家である私がいた方が、小説家だなんて特殊な職業を理解する上で役にたつだろうとの火村の言い分。 建前としては、まあまあ筋が通ってはいる。しかも、被害者があの岩切巌だと聞いてしまっては、確かに私は火村にくっついて行かずにはいられない。 なぜなら、主婦層に絶大な人気があり、本を出せばドラマ化されるという恋愛小説家には、まことしやかに流れ続ける噂があったからだ。 岩切にはゴーストライターがいる。 端くれ作家の私の耳にさえ入ってくるこの噂。 もしかすると、その噂の裏側あたりに、今回の事件は起因しているのかもしれない。 まあ、こんなことは、わざわざ私が進言しなくとも、警察の方でもとっくにつかんでいる情報だろうが。 しかしながら、火村はそんなことを知る由もない。 それなのに、火村がこんな強引な行動をとった真相は、はとバスが全面禁煙であることに関係しているのではないだろうか。 これが、私が火村に対して抱いている疑惑である。 一端は禁煙を覚悟したものの、それを逃れるうまい言い訳に飛びついた。そして、後々ドタキャンしたことを責められない為に私を巻き込んだのではないかと。 いつ、どんな状況で乗ったのかは知らないが、彼曰く前乗った時は喫煙席もあったというはとバスが、現在は完全禁煙であることを、火村は3時間程前、私にきかされるまで知らなかった。 どうやら今日は、全体的に火村よりも私の方が情報を制する日なようである。 まあ、はとバスの件に関しては後日、ゆっくりと話し合うとして、ここまで来たからには事件の話をしよう。 今回火村に声が掛かった作家殺害事件は、大理石の灰皿で後頭部を殴打されたのが、その死因である。 灰皿を凶器に使っているところなど、絵に描いたような──いや、漫画ならともかくそんな場面を絵に描きはしないだろうが──激情型の突発的な殺人の形態だ。 そりゃ、多少は不可解なところがあるから、かの火村英生大先生──ちょっと、しつこいだろうか──にお呼びが掛かったのだろうが、ドラマじゃ小説じゃあるまいし、そんな状況で完璧に証拠を隠滅できる者など、まず居はしないというのが、私の率直な意見だ。 たとえ、犯人が岩切のゴーストライターであったとしても。 なぜなら、ゴーストとは名ばかりで、それは確実に存在する人間なのだから。 そして、私はこの情報を火村の耳に入れるべく、口を開いた。 ☆ 「何か気になったことはありますか?」私たちも同席させてもらった、捜査会議を終えた後、火村と私にコーヒーの入った紙コップを手渡してくれながら、警視庁捜査一課の室尾(むろお)警部が、助教授に意見を求めた。 呉服屋の若旦那ですと紹介された方が、よっぽどしっくりくるのではないかという物腰の柔らかいこの警部は、それでも合気道3段、柔道5段の猛者なのだそうだ。 室尾警部の質問に、火村はそうですねぇ、と呟くと開け放してあるこの部屋のドアの向こうに見える、会議室の入口に張られた捜査本部の戒名を振り返った。 世田谷西署に置かれた警視庁との合同捜査本部に掲げられた戒名は『桜丘作家殺害事件』だった。 余談になるが、事件の戒名というのは、事件の起こった地名+被害者の職業というのが基本である。例を挙げるならば、『丸の内OL殺害事件』だとか『青山美容室オーナー刺殺事件』だとかだ。 そして、被害者が無職の場合には、職業を入れようがないので、××マンション殺人事件といった風に、現場となった建物の名称が戒名に入る場合が多い。 今回の場合は前者の方式で名前がつけられている。 もし、仮に私が誰かに殺された場合には、『夕陽丘推理作家殺人事件』といったところか。……なんだかタイトルとしてはまり過ぎていて嫌な感じだ。 火村にはまだ熱くて口が付けられないコーヒーをすすりながら、私がろくでもないことを考えていると、助教授はふいに口を開いた。 「捜査会議では『現場の状況から見て』と端折られていましたが、司法解剖がまだ終わって居ない段階で、死亡時刻が一昨日の午後8時半以降と断定できた理由はどうしてなんでしょう。それによって、生きている彼に最後にあった人間でもあり、一番疑わしい存在である庭師が容疑から外れていますよね」 火村の質問に室尾は大きく頷いた。 「ああ、その件については、つい先刻、司法解剖の結果が届きました。死亡推定時刻は最大限に幅をみて、一昨日の午後2時〜午後9時の間だそうです」 「随分と幅が広いですね」 「ええ、いかんせん、岩切はひとり暮らしで食事を取った時間が特定できないものですから。胃の内容物は、食後3時間程度の消化の進み具合だったらしいんですが、死んだのが午後3時だとしたら昼食、午後9時だとしたら夕食としてどちらも不自然な時間帯ではないですからね」 言うと室尾は小さくため息をついて見せた。 ちょっと気にかかることがあったので、私も二人の会話に口を挟む。 「その胃の内容物から昼食か夕食かを判断することは不可能なんでしょうか?」 いくら火村の口添えがあるとはいえ、全くの部外者である私の質問に、警部は快く答えてくれた。 「それが、レンジでチンするタイプの、冷凍食品のカレーなんです。私個人としては朝から食べるのは少々遠慮したいですが、別に朝・昼・晩、いつ食べたっておかくしくはない物ですから」 「確かにそうですね。他には何か?」 「コーヒーの成分も検出されています。それこそ、1日中どんな時間に飲むことだってあり得る物です。特に彼は作家ですから……というのは私の偏見でしょうか?」 作家=夜型と決めつけているらしい彼は、言葉の途中で目の前にいる素性がイマイチ不明な男も作家だったということを思い出したらしく、とってつけたように聞いてきた。 「まあ、偏見とも言い切れないでしょう。そういう傾向があるのは確かです。もちろん昼型の方も大勢いらっしゃいますけど、少なくとも、私には絶対コーヒーを飲まない時間というのは無いですね」 「作家に限らず誰だってそうだろ。加えて言うなら、朝から焼肉、晩飯にトーストを食う奴も絶対いないとは言い切れない。何時に彼は○○を食べていましたという誰かの証言がない限り、胃の内容物からそれがなに飯かなんて断定できねぇよ」 火村が苛立たしげに、私の意見を切って捨てる。どうやら、彼の聞きたいこととは方向がずれていたらしい。 室尾もそれに気付いたのか、咳払いをした後、話を続けた。 「ええ、こんな状態ですから、死亡時刻が8時半以降と見なされたのには、別の理由があります。被害者を発見した編集者が本日、岩切宅に出向いたのは、一昨日の午後1時の段階で半分しか上がっていなかった小説の続きを受け取るためだったそうです。それを聞いた捜査員が被害者のパソコンに残されていたファイルの内容をその編集者に確認してもらったところ、完成した状態の原稿が保存されていたそうです。プロのオペレーターが一心不乱で打ったとしても1時間やそこらはかかる文章量ですから、考えながら書いたとしたら、どんなに少なくとも4〜5時間は掛かるのではないかという話でした」 「ちょっと待って下さい。小説が半分しかできていなかったというのは確実なんですか? 私だったらそんな中途半端な状態で原稿を渡すことはしません。途中で手直しした部分が出てくる可能性もありますから。仮にそういうことをするとしたら、後半部分も殆ど出来上がってる状態で、あとは言葉の言い回しを少々考慮したいだとかの微細な調整が残っている時でしょう。しかも、印刷・製本を行う方の休日を潰すのが心苦しいとかいうのを通り越して、前半部分だけでもその日に入稿しなければ雑誌に白紙のページが出来るという、切羽詰まった状況においてです」 私の言葉に室尾はゆっくりと頷いた。 「ええ、有栖川さんのおっしゃることはもっともです。前半だけ先渡しするのは、不自然だと私たちでさえ、思いました。しかし、被害者はそれが普通だったようですよ。彼は1章ごとだとか、前半後半部分で、主人公を変えるという手法を得意にしていて、それぞれの話がある程度独立しているので、今までその方法で問題がなかったそうです。担当編集者に、そう言われてしまうと私たちはそれで納得するしかありません。もちろん、編集者の同僚その他に確認はとりましたけどもね」 確かに、一応作家である私でさえ、そう言われてしまうとそれで納得するしかない。 しかし、やっぱり原稿の渡し方としてはおかしい。 半分を先渡ししてしまい、続きを書かざるを得ない状況にすることで、自分自身を奮い立たせてでもいたのだろうか。 いや待て、追い込むのは自分自身とは限らない。これは、もしかするともしかするのか? 私は慌てて室尾に問いただした。 「すると、死亡推定時刻が出された経緯はこうですか。岩切さんが編集者に原稿を渡した段階では半分しか出来上がっていなかったものが、遺体発見時にはほぼ完成していた。それを書くのには最低でも4時間はかかる。そして、庭の模様替えをしようとしていた岩切さんとの打ち合わせを終えて、庭師の立花さんが家を後にしたのが午後4時前。その後小説を書き始めたのなら、午後8時前に死んでいる筈がない。そういうことですか?」 もし、そうだとすれば、警察は一番大切なことを見逃している。 直筆原稿ならともかく、ワープロ原稿など、その気になれば誰にでも偽造できるということを。 確かに、作家の文章の続きを遜色なく──この際、かかる時間は無視するとしても──書くのは、不可能に近いだろう。 だが、岩切に限って言えば話は違う。 真偽はともかくとして、噂のゴーストライターを捜してみるべきではないだろうか。 しかし、私の質問に室尾は首を横に振った。 しかも、火村も呆れ顔で私を見ている。 「いえ、違います。死体を発見した編集者が言っていたのですが、被害者にはゴーストライターが居るという噂があるらしいですね」 室尾の言葉に私は頷いた。 そして、火村の呆れ顔にも納得した。 私でも思いつくようなことをを、警察が考えないわけがないということか。 ましてや、発見者が編集者であるならば、真っ先に入手できた情報のひとつだろうし。 「どうやら、有栖川さんの業界で長いこと噂されていたゴーストライターは実在しないようです」 「なぜ、そう言い切れるんです?」 「その文書が最後にセーブされた時間が午後8時9分だったからです。もっとも被害者のパソコンと実際の時刻には3分程度のズレがありましたから、実際には8時5〜6分なんでしょうけど。その時間帯に被害者の家を出入りした人間はいません。十五夜である一昨日、自宅2階ベランダで月見をしていた隣の家の住人が証言しています。被害者宅の池に満月が映ってとても綺麗だったので、よく覚えているそうです。8時前から半くらいまで、誰かしらはそちらに目をやっていたし、月の光で辺りも明るかったので、人の出入りを見逃す筈はないと断言していました。そうなると残された文書は被害者本人が書いたと考えるべきでしょう」 確かにそういう見方もできるだろうが、やっぱり肝心なところが抜けては居ないだろうか? どうして火村は何も言わないのだろうと、首を傾げつつ私は再び尋ねた。 「そんなものは、パソコン自体の時刻を操作してセーブすればいくらでも操作できるのではないですか?」 「たとえそれで、セーブした時間が誤魔化せたとしても、総編集時間は誤魔化せません」 「総編集時間?」 「被害者の使っていたワープロソフトには、その文書を立ち上げて作業をしていた時間を記憶する機能があります。例えば、死亡時刻を誤魔化すために犯人が用意してきた文書を読み込んで、パソコンの時間5時間進めて、それを保存したとしましょう。確かにセーブした時刻は5時間後になりますが、総編集時間はそれを開いていた時間だけです。しかしながら、その文書の総編集時間は5時間23分でした」 ほほう、そんな機能がついているのかと感心しかけたところで、またしても疑問がふってわく。 「ですが、犯人が被害者と同じソフトを使っていたならば、総編集時間はその犯人が執筆にかかった時間ということにはなりませんか? そうすれば、後はパソコンの時間操作だけで、死亡時刻を誤魔化すことができます」 「もちろん、それも考えました。確かにそうすれば、総編集時間は誤魔化せる。しかし、今度は新規作成時間が誤魔化せなくなるんです。仮に、火村先生も気になさっていた庭師が犯人で、しかも、被害者のゴーストライターだったとしましょう。彼が有栖川さんがおっしゃったような工作をしたならば、文書の新規作成時間は少なくとも彼のやってくる5時間前でなくてはなりません。しかし、残されていた文書が新規作成されたのは、一昨日の午後2時3分。丁度、庭師が打ち合わせに訪れた時間帯と前後しています。これは、執筆に入ろうとした被害者が、来客でそれを中断したと考えるのが妥当ではないでしょうか。もちろん、犯人のゴーストライターが岩切を殺した後も彼の家に留まって、死体の横で小説を書き、新規作成時間と保存時間を偽造したあげくに、ご丁寧にキーボードに被害者の指紋を付けて5時間後に家を出るというのは可能でしょうけど、それをしたところで、何か得がありますか」 「………確かに、そうですね」 まったくもって、理論的なお話である。 これを聞いて、私はなんだか、無性に残念な気になった。 別段、どうしても岩切にゴーストライターが存在していて欲しかった訳ではない。 なんだか、どこかで勘定を誤魔化されている気がするのに、巧妙に仕組まれている為に、それがどこだか解らない。この事件にはそんな感じが漂っており、それに気付けない自分が残念だったのだ。 俺が無理でも君はなんとかならんのかっ? いいとこ筋違いな感情であることを重々承知しつつ、私は先程から黙ったままの助教授を振り返った。 そんな私の心の声が通じたのだろうか。 例によって人差し指で唇をなぞっていた火村は、ふいにその指を室尾の方に向け、ようやく口を開いた。 「ひとつ、確認して欲しいことがあります」 5 『現場の状況から、岩切さんが殺害されたのは午後9時前後だとみられ、警視庁はその時間帯に不審人物を見かけなかったかどうかを、現場付近の方々に呼びかけております。お心当たりのある方は……』 ちょっと、きつい印象のあるニュースキャスターが、無表情で原稿を読み進める。 やれやれ、どうやらうまくいったらしいと、俺はTVで岩切絡みのニュースを眺めていた。 ああ、いくらでも呼びかけるがいいさ。 ついでに、間違ってその不審人物とやらが捕まってくれれば万々歳だ。 岩切に最後に会った人間だということで──やはり、あの編集者は俺を見ていたらしい──、簡単な事情聴取を受けたものの、俺は間もなく解放された。 なぜなら、岩切の死亡時刻(とされている時間)に、俺には完璧なアリバイがあったからだ。 もちろん、自宅で妻と2人きりでいたのでは、アリバイなんて認めて貰えない。 ストレス解消に度々そこを利用していた俺は、無料招待券があるのを口実に、カラオケ好きの隣夫婦を誘い、焼肉を食べてからカラオケボックスに繰り出したのだ。 9時ならば、丁度俺が全部で7分以上もあるはた迷惑な長さな上、うるさくてテンポの速い曲を熱唱していた時だ。 岩切と付き合うようになってから、俺はこの歌が大好きになった。別に歌詞の内容が好きな訳ではない。サビの部分で叫ぶことのできる英単語が、俺の憂さ晴らしをしてくれるからだ。 結局、0時を回るまでそこに居たし、中座したのもトイレに行った3回だけだったから、そこから車で片道30分はかかる岩切宅に俺が行くのは不可能だ。 定期的に俺に仕事を入れていた筈で、俺がちょくちょく出入りしていた岩切の庭が手入れ不足であったのは、やはり目聡い捜査員の目をひいたらしいが、そこは、庭の改装予定があったからの一点張りで乗り切った。 ガラリと雰囲気を変える予定で、本人との微細な打ち合わせもあったし、工事が行われると解っている庭の手入れをするのは無駄であると。岩切から支払われていた金は、全てを取り仕切ることになる俺への専属料金だと。 今時、そんな太っ腹な人間が居るもんかと思いつつ、こんな時、岩切の作家という特殊な属性は役に立つ。 作家先生のやられることは、私たち凡人には理解しかねます。 こんなひと言で、周りの人間をなし崩しに納得させられるのだ。 なんのかんの言っても、警察だって単なる公務員だ。作家の生態なんてものに詳しい筈がない。 学校の先生や編集者ならともかく、庭師がゴーストライターだなんて、普通考えられないミスマッチも、俺を容疑者の圏外に置く役に立ったのだろう。 これでもう、俺を疑う人間はひとりも居ないと思うと、自然に表情が緩む。 ………いや、もしかすると、たった一人、妻だけは俺を疑っているかもしれない。 俺が岩切のゴーストライターだということを知っており、どれだけ憎んでいるかを知る、唯一の人間。 ましてや、普段は馴れ馴れしすぎてうざったいと、あまり好感情を抱いていなかった隣の夫婦を、俺から言い出して食事とカラオケに誘ったのだ。 そして、その翌々日、岩切が何者かに殺されたのだ。 俺が手を下したとまでは思っていなくとも、アリバイを作ったことで、何らかの形で関与している。そう思っているのではないか。 いらない詮索をされたくないから、俺が岩切のゴーストだったということは黙っていようと口止めしたのも余計なことだっただろうか。 それでも、妻は何も言ってはこないし、少なくとも俺の目には普段通りに見える。 今日だって、いつも通りに、俺の食事の用意をしてから、近所のスーパーのパートに出掛けた。 わざわざ働かなくとも、お前を食わせる位の金はあると、いつも言っているのだが、彼女の返事もいつも同じだ。夫婦が一日中家で顔を合わせてたらいいことがないと。それに、外に出られるのが楽しいと。 確かに、俺と出会った頃の妻は、単調な主婦生活に嫌気が差している状態だった。 子供はまだ出来ないのか、料理の味付けが濃いと、ことあるごとに妻をけなす義母と話もきいてくれない夫。ただただ、家事をこなし、家に閉じこもる毎日。 どんなに綺麗で大輪の花だって、そんな状態ではしおれてしまう。 だから、外に出ることが楽しいというのは、本心なのだろう。 端から見れば、俺はヒモ状態だろうが、どんな噂をされようと、彼女が幸せならば俺はそれでいい。 岩切にあんな暴言を吐かれる程では決してないが、出逢った頃は36歳でまだ20台に見えた彼女の美貌と若さも、寄る年波には勝てず、確実に陰りを見せている。 どうしたって隠すことの出来ない小じわ。筋力が重力に負けて微妙に崩れた身体のライン。上げ始めればきりがない。 今、俺が38で彼女は11歳年上──岩切は、作中の人物と混同して、15歳年上だと思っていたようだが──なのだから、これは仕方のないことだ。 しかし、それを含めて全てを愛することができるのが、夫婦というものの絆なのではないだろうか。 それを覚悟した上で、俺は12年前彼女を奪い取った。 そして、今でも未だ、狂おしい程に彼女を愛している。 彼女を侮辱した。 たったそれだけのことで、人を殺めてしまえる程に── 6 「度々お時間をとって頂いて申し訳ありません」 刑事なんかよりも、眼鏡屋の店長でもしていた方がよっぽど似合っているのではないかという印象の、室尾と名乗る刑事が、ファミレスの向かいの席でペコリと頭を下げた。 24時間営業のこの店は、その気になれはコーヒー1杯(おかわり自由)で何時間でも粘れる、俺の書斎みたいたものだ。 入れ替わる人間を観察しながら、その人の人生を空想し、時にはアイディアを得る。 運が良ければ、斬新な内容の痴話喧嘩にも出くわせる、そんな場所だ。 俺達が座った窓際の席は、丁度角になっていて、置かれたソファが90度にRを持っている。 室尾の他に、彼の隣には火村という大学助教授、Rの部分には有栖川有栖という岩切巌もびっくりな、インパクトの強い名前の推理作家が座っていた。 このお二人には捜査に協力して頂いています。情報は決して漏らしませんからご安心を、と、室尾は言うが、この不思議なメンツを目の前に、誰がそんなことを気にするだろうか。 こいつらが、何故ここにいるのかの方が、よっぽど気になる。 百歩譲って、そこまでするならいっそ外せと突っ込みたくなる状態で、首から緩めたネクタイをぶら下げている目つきの鋭い犯罪学の助教授は、一応専門家なのだから、その存在に納得してやろう。 しかし、僕、引っかけ問題は苦手なんです(はあと)と、顔に書いてあるような童顔の推理作家がなん役に立つと? とはいえ、仮にも推理作家なら、絶対に崩れないアリバイに挑戦するがいいさと、俺は室尾に向き直った。 「できれば手短にお願いします。知っていることは全部話しましたから」 「努力致します。最初に改めて確認させて頂きますが、立花さんが被害者の家を出た時、彼は生きていたんですね」 「ええ、生きていましたよ。庭のレイアウトについての相談をしましたから。この部分はどうしますかと相談しても、適当にやってくれというばかりで具体案はちっとも出てこないので、私もいい加減うんざりしていました。だって、適当にと言う割にはラフを持っていくと文句ばかりつけるんですからね。あの日も同様で、あーでもないこーでもないとやっていると、ふいに岩切さんが時計を見て、時間がないからあとは適当に考えてくれとパソコンを立ち上げました。なんでも、締切近いとかおっしゃって。その日こそはレイアウトを決定しようと思っていたのですが、お仕事の邪魔をする訳にもいかないので、4時前にお暇しました。まさか、私の居る間に犯人が忍び込んでいて、その後、私が玄関を出る前に犯人が書斎で岩切さんを殺したとは思えませんから、少なくとも、私が彼の家にいる間は生きていたと思いますよ」 俺の台詞に、室尾と有栖川はそうでしょうねと頷いた。 しかし、火村という男は、何のリアクションもないまま、俺を見つめ続けていた。なんとも、居心地の悪さを感じる視線で。 だが、俺が今した作り話は、我ながら岩切の性格を良く捉えていると思う。庭の仕事ではなくても、一緒に仕事をしていれば、奴がこうするであろうことは、簡単に想像できる。嘘の中に真実を混ぜ込む。これがリアリティを持たせるコツだ。それは、現実であっても小説の中であっても大差はない。 とはいえ、室尾もいつまでも頷いてばかりはいなかった。パラパラと手帳をめくり、次の質問を投げ掛けてくる。 「その話で思い出したのですが、岩切さんがあなたにした注文は随分と特殊なものだったのではないですか? 専属になることを条件に、あなたは毎月彼から報酬を受け取っていたそうですね」 「はい、特殊というか変な依頼ではありました。しかし、岩切さんの庭はここ10年ばかり、私が手入れしていましたし、このご時世です。定期的な収入はありがたかったので、一も二もなく申し出を受けました」 「そもそも、岩切さんがあなたに庭の手入れを依頼するきっかけは何だったんですか?」 「私が手がけた近所の図書館の裏庭を見たのがきっかけだったらしいですよ。庭木のカットの仕方が彼好みだったんでしょう」 この話も、きっかけの部分は事実だ。 だが、依頼の本当の理由は、俺がボランティアで図書館の庭を手入れしていることを知り、料金を値切れると思ったからに違いない。実際値切られたことがこれを証明している。 ともかく、半分しか考えなくてもいい嘘は楽でいい。 それにしても、俺に関する質問が多い様な気がする。疑われているのだろうか? 「話は変わりますが、岩切さんにゴーストライターがいたという噂はご存知ですか?」 ほら、来た。 疑われているかどうかはともかく、室尾の質問が核心にせまる。 しかし、これだって、誰か心当たりはありませんかと、事情聴取を受けた捜査員に何度も聞かれたことだ、嘘にぬかりはない。 「いえ、前に来た刑事さんにも聞かれましたが、私は恋愛小説など読みませんから。岩切さんに関して私が持ち合わせる情報は、近所の方のものを上回るものではありません」 「その割には、ご自宅に岩切さんの著作が揃っていた様ですが。すみません、見えてしまったもので」 笑顔を保ちながらも、有栖川が嫌なところを切り込んでくる。どんなにお人好しそうな顔をしていていも、推理作家は推理作家ということか。 だが、そんな事実は、俺を犯人だと断定するために、なんの役にも立たない。 「ああ、あれは妻の愛読書なんです。だから、ご縁があったついでにといってはなんですが、岩切さんからサインも頂きました。それも本棚の上に飾ってありますよ。お気づきになられませんでしたか?」 「いえ、そこまでは。でしたら、奥様は今回の事件をさぞかし残念がられたでしょうね」 「いえ、そうでもないようです。事件の報道を見た時は驚いていましたが、もともと岩切さんはアイドルではなく作家ですからね。彼の作品が読めなくなるのは残念だったでしょうが、彼自身にそこまでの感情は持ち合わせていなかった様です。その証拠に、今日も普通にパートに出掛けましたよ。それが何か?」 「いえ、ただ思っただけです。すいません、余計な口を挟んで」 言って、有栖川は俺と室尾の両方に目礼をして見せた。やっぱり、コイツは役に立たないという俺の印象は当たりだったらしい。 そこで、役立たずな推理作家はともかく、他の2人はどうなのだろうと、俺はちょっと挑戦してみたくなる。 「しかし、そのゴーストライターと今回の事件に何の関係があるんですか?」 ここだけの話ですがと前置きして、室尾は話を始めた。 「岩切さんの死亡推定時刻には大きく幅があります。それが8時半以降に断定されたのは、岩切さんがパソコンで書かれた小説の保存時間が8時過ぎで、それから8時半までは被害者宅に人の出入りが無かったことが確認されているからなんです」 「すると、ゴーストライターがいたならば、その時間がもっと前だということもあり得るということですか?」 「いえ、文書の新規作成時間と総編集時間がそのことを否定しています」 俺の問いかけに、室尾は首を横に振った。 そうだろうとも、それを見越して俺はあのトリックを実行したのだから。 岩切の使っているソフトは、もし人間の名前だったならば、長男以外につけることなど、まずありえない名称の物だった。 そのソフトはワープロソフトにしては重たい上にOSとの相性が悪くて、俺ならとても使う気にならない代物だったのだが、その分色々な機能が付いていると岩切がいつぞや自慢していたのだ。 総編集時間もそのひとつだが、はっきり言って、そんなものは解らなくてもなんの支障もない。 それなのに、ワードとエクセル全盛期のこの時代に、岩切は断固としてそのソフト以外使おうとはしなかった。 そのソフトにセットでついてくる入力システムの賢さが、それを使う一番の理由だったらしいが、ある程度ソフトが進化しきったこのご時世、その機能に目の覚めるような違いはあるまい。しかも、その入力システム自体もOSと相性が悪いときては尚更だ。 少なくとも、俺はOSに標準でついてくる入力システムで充分間に合っている。 しかし、まあ、今回はその岩切のこだわりに助けられたのだが。 どうやら、目新しい雁首を並べてみたところで、行われる事情聴取の内容に大差はないとことを確信した俺は、調子に乗って続けた。 「それなら、ゴーストライターが居たと仮定しても、岩切さんの文章を書ける誰かが居るというだけなのでは?」 「ええ、まあ、犯人はそういうことにしたかったみたいですね」 「はっ?」 思いがけない室尾の返答に、俺は思わず声をあげた。 「ゴーストライターが居たならば、岩切さんの死亡時刻を誤魔化すことができます」 俺が口を開けたまま、室尾の顔を見つめていると、今までずっと黙りっぱなしだった、犯罪学者が唐突に口を開いた。 「と、言いますと?」 動揺を押し殺し、俺は彼に尋ねた。 「自動保存ソフトというのをご存知でしょうか?」 「いえ」 火村の質問に首を横に振りながらも、自分の声が震えているのが解る。 落ち着け立花一喜、そのソフトの存在が露わになったからといって、全てがバレた訳ではない。 「では、ご説明します。これは、名前から想像できる通りのソフトです。Ctrl+Sでセーブが実行されるアプリケーションを対象に、保存作業を代行してくれるものです」 「それが何か?」 犯罪学者の目が俺を見つめ続けている。平静を装いもっとなにかを話さなくてはと思うものの、俺はこう言うのが精一杯だった。 「これがあれば、自在に総編集時間を操作することができます。ワープロソフトを立ち上げ、小説の後半の文書を読み込み改めて別名保存します。それから、そのウィンドウをアクティブにして、自動保存ツールを立ち上げる。最大10分間隔で、そのソフトが人間の手の代わりに保存を代行してくれます」 俺はごくりと唾液を飲み込んだ。 いや、この男はまだ全てを解明しきってはいない。 「でっ、ですが、それだと岩切さんの死体が発見された時まで、パソコンが立ち上がっていなければおかしくありませんか?」 「ほう、被害者が発見されたとき、パソコンが立ち上がっていなかったことをどうしてご存知なんですか? ニュースでも新聞でもそんな報道はしていない筈ですが」 しまった── いや、頑張れ立花一喜。 「そっ、それは、室尾さんのお話から判断できます。だって、文書が最終的に保存されていたのは8時過ぎなんでしょう。誰でも解ることです。まさか、私をお疑いなんですか? 私は単なる庭師ですよ」 「まあ、その件については一時棚上げしておきましょうか。次に、任意の時間にそのソフトに保存をやめさせる方法をお話します。ブレーカーが落ちないギリギリのラインの電化製品──そうですね、大きな家の割に岩切さんの家のアンペア数は少なかったそうですから、ホットプレートとアイロンとドライヤーといったところでしょうか。それらの電化製品を火事にならないよう細心の注意を払って稼働させます。そんな状態でタイマーセットしてあったエアコンが作動したら? 多く見積もっても1分後にはドンッですよ」 ドンッという擬音と共に、犯罪学者は掌を上に向け、両手を広げて見せた。 この男の話す内容、仕草の全てが忌々しい。 「そんなもの絶対に成功するとは限らないじゃないですか」 「いえ、成功します。犯人は何度でも実験が出来た筈ですからね。足りなければ電化製品を追加すればいいし、多ければ減らせばいい」 「しかし、そんなことをしたら証拠が残るでしょう。岩切さんが発見された時、その家のブレーカーは落ちていたんですか? エアコンはともかく、その他の電化製品は出しっぱしになっていたんですか?」 「まさか。ブレーカーも上がっていましたし、電化製品の類もきちんとしまってありました。しかし、これは当然ですよね、犯人が後で証拠を隠滅しにきたんですから」 本当に嫌な男だ。まるで当日の俺の行動を見張っていたような口振りで話をしやがる。 そう、この男のいう通りだ。 カラオケから帰った後、妻が眠りにつくのを待って、午前2時頃、俺は岩切の家に戻った。 もともと、鍵などかかっていなかったので侵入するのは造作もなかった。 ペンライト1本の明かりで、電化製品を片付け、ブレーカーをあげる。もちろん手袋を着用してだ。 その後、書斎に戻り、保存ソフトを削除する。 このソフトも、岩切がどこからかダウンロードしてきたフリーソフトだ。 入力が得意ではないくせに、何故かまめにセーブするという癖をつけることができない岩切は、突然のフリーズに幾度と無く酷い目にあったらしい。 まるで、自分で作ったソフトのように自慢していたから、よく覚えていた。 それが、まんまと役に立ったと思っていたのに、この有様か。 いや、まだだ。犯罪学者の話は可能性の域を出てはいないのだから。 「確かに、それで死亡推定時刻を誤認させることが可能でしょう。しかし、そんな人間が本当に存在したんでしょうか? 岩切さん本人がその小説を書いたという可能性もありますよね」 「いえ、少なくともあの小説を書いた人間が岩切さんでないことは証明できます」 「どうしてです? 今までの作品もゴーストライターが書いていたとしたら、文章上の表現の違いなどからそれを証明するのは不可能でしょう」 「ええ、その方法で証明するのは不可能です。ところで立花さん、あなたはパソコンをお持ちですか?」 「はい。殆どインターネット以外には使いませんが」 持っていたからといって、それがどうした。 俺が岩切として書いた作品の全ては既に削除してある。 「お使いの入力システムは何ですか?」 「標準装備のものですが」 質問の意図が解らないながらも、俺は事実を答えた。 だから、それがなんだというのだ。 「岩切さんのお使いになっていたシステムは標準のものではありませんでした。そのシステムはOSとの相性が悪いですから嫌われる方が多いのですが、便利さでいえば、標準装備のシステムを遙かに凌駕しています」 「それがなにか?」 「岩切さんのパソコンに保存されていた小説には『約束の木の下で』という言葉がキーワードとして何度も登場します。標準のシステムならば、よく使う単語を辞書の一番頭に持ってくる程度のことしかしませんが、岩切さんが使っていたシステムは、よく使う単語を勝手に辞書登録する機能が備わっているんです。更に、省入力という機能もあります」 「しょうにゅうりょく?」 聞き慣れない単語に俺は首を傾げた。 「鍾乳洞の親戚ではありません。省エネの省に文字入力の入力と書きます。これは、以前に数回入力していれば、最初の何文字かを入力すると、前に打った文章が、単語ではなく文章がですよ、候補として表示されるんです。しかし、最初の2〜3文字も打てば出てくるはずの『約束の木の下で』という文章は、『やくそくの』までを入力しても出て来なかった。この意味はお解りですね」 力強い視線で俺を見つめ続ける犯罪学者から目を反らし、俺はがっくりと首をうなだれた。 岩切にゴーストライターが居ることが証明されてしまっては、素人目で見たって一番怪しいのは、最後に奴と会った俺だ。 幾ら、目に付く証拠を隠滅したところで、俺が犯人であると確信した状態で家宅捜索でもされれば、証拠はいくらでも出てくるだろう。 いくら相性が悪いからといって、それだけで切り捨てるべきではなかったのだ。 岩切はともかく、少なくとも入力システムだけは── 2003. 09. 14
うふふ。いくら冴木でも、あれだけをトリックに使いはしませんがな。 |