■登場人物 ( )内、当時の満年齢。 有栖川有栖──私。推理作家(34)。 火村 英夫──英都大学社会学部助教授。有栖の10年来の友人(34)。 朝井小夜子──推理作家(36)。 香坂 秀明──フランス料理店『オーベルジュ・ド・コーサカ』シェフ(46)。 榎木 昭夫──同店ギャルソン(60)。 藤間ゆりこ──黛(まゆずみ)流師範(44) 滝沢 恵美──黛流師範(29) 沼島 功──黛流事務長(48) 大曲 幸吉──建設会社勤務(52) 1 「雨だな」 火村が前菜を食べる手を止め、窓の外を見て呟いた。 その言葉につられ、私と小夜子も視線をそちらに向ける。 「あらほんと」 「しまった、傘持ってきとらんわ」 山奥と呼んでも差し支えない場所に位置するオーベルジュ・ド・コーサカ。 私、有栖川有栖は、10年来の悪友火村英夫と先輩作家の朝井小夜子を伴って、このフランス料理店へと出向いていた。 何故、このメンツで、山奥の高級フランス料理店にくる羽目になったのか。 それには聞くも涙、語るも涙の悲しい事情がある。 30代も半ばに差し掛かってくると、色々と思うところが増えてくるもので、私はふいに親孝行というものがしたくなったのだ。 いくら親が孫や嫁さんの顔を見たがったところで、存在しないものは見せられない。 ならば、せめてうまい物でも食わしてやろうと、両親の結婚記念日に合わせて半年前に私はこの店に予約を入れた。 フランスの建設会社が出している世界的グルメガイド《エトワール》に、日本で唯一の三つ星レストランとして認定されているこの店は、クリスマスやホワイトデーじゃなくたって、半年前からでないとリザーヴできない。 1日2組限定でしか客を取らないこの店は、クリスマスの予約は5年待ちだとか7年待ちだとかいう、信じがたい噂が流れている。 つまり、ここはそういう店だ。 だが、しかし。悲しいかな、うちの母にかかると、それはカップラーメンの蓋を集めて応募し当たった、熱海温泉2泊3日のペア宿泊券の魅力にあっさりと負けてしまうのだ。 というより《無料》の魅力にだろうか。 母よ、あなたは自分の息子が3人分ものフランス料理を1人で平らげられるとでも思っているのか? 母がどう思っているかはともかく、予約日の3日前になってそんなことを言われたところで、既に取り消しは不可能だ。 そして、私が一人で3人分の料理を平らげるのも、もちろん不可能である。しかし、食えなかったところで、私の支払う金は変わらない。 ……………………。 斯くして、悪友と先輩作家の部屋の電話が鳴ったという次第だ。 自分が得をする話の場合、この二人の予定は何故か絶対に空いているのだ。 自分で話を振っておいてなんだが、羨ましい話である。 「ちょっと、アリス。もっとよく味わって食べたらどうやの。滅多に来られないお店やのに」 絶対に、最後に出てくるチーズのひとかけまで残さず食ってやると決心し、黙々とナイフとフォークを動かす私を見て、小夜子がまるで自分で予約を取ったかのように、呆れた口調で話しかけてくる。 だが、それは違う。 最初にせこい決心をしたのは事実だが、ここの料理はそんなことを忘れてしまう程にうまかった。 オマールとキャビアのお祭りサラダと名付けられた前菜を、『なーにが《お祭りサラダ》やねん』と心の中で毒づきながら──《森の愉快な仲間達(大抵の場合数種類のきのこ)》だとか、《リトルマーメイド(確実に単なるシーフード)》だのといったネーミングを私はどうしても好きになれない──口にして5秒後に私は前言を撤回した。 絶妙な味付けのドレッシングのなせる技だろうか、素材の味が口の中ではじける。 なんというか、皿の中で素材が一体となってその場を盛り上げているようで、確かに《お祭り》めいた感じがあった。 今食べている季節のキノコと牡蠣のパイケースにしても、よく見知った素材が使われているにもかかわらず、その味は絶品だった。 一体お前らはどんな魔法を使われて、こんな料理になれたのだ? そんなことを考えて、私が無言で首を傾げていると、小夜子の言葉に火村が反応した。 「アリスはうまい物を食っている時だけ、無口になりますからね」 「そうなん?」 「ええ、この年でまだ食い意地が張っているらしいです」 「それは困ったもんやね。もう15年も前に成長期は終わっとるやろうに」 えらい言われようだ。 口の中に入っていたパイの最後のひとかけを急いで飲み込むと、私は反論を開始した。 「人をネタに遊ばんといて下さい。日本で三つ星てここだけなんですよ。俺やなくても無言になりますて」 「三つ星ねぇ。そんな星、誰がつけてるんだよ。まあ、確かにこの店がうまいのは認めるけどな」 他人の評価をあてにしない火村らしい言いぐさだ。 仕方ない、そんな助教授の為に、誰が星をつけているのか私が教えてやろう。 「インスペクターや」 「inspector(検閲者)?」 私が言った単語をリピートしながらに火村が眉を寄せた。 地味に、その発音の良さが憎たらしい。 「密かに料理店を審査する人達のことや」 「ああ、視察者って意味か」 どんな意味だと思っていたんだ。 こういうものは素直に《インスペクター》というものだと思っておけばいいのだ。 2000年に《ミレニアム》という言葉を、意味も知らずに使っていた人間が多数いるように。 とはいえ、かくいう私もそれが出来ないタイプの人間ではあるが。 「私もそれ聞いたことあるわ。自分の正体を家族にも内緒にしとるんやって?」 私に続いて皿を片づけた小夜子が、ワイングラスを傾けながら言う。 「らしいですね」 「大層な話だな。まあ、星の数はともかく、来たかいはあったよ。こんなところまで」 「なんだかトゲのある言い方やな」 「いい加減にしときなさい。居酒屋やないんやから」 火村にくって掛かった私を、小夜子が呆れた口調でたしなめる。 ああ、所変わってもこの有様か。 まったく── 私も火村も成長ってものがなさすぎる。 * * * 「どうぞ、こちらです」私たちの食事が、栗のなめらかスープ──確かになめらかな舌触りのスープではあるが、いちいち形容詞のついたこのネーミングはやはりどうかと思ってしまう──まで進んだ頃。 1日二組限定である客の、もう一組が到着し、初老のギャルソンに案内されて席に着く。 多分40代後半から50代前半であろう男性が2人に、同じく年頃の女性が1人、更にぐんと年齢が下がってこれは確実に20代であろう若い女性が1人の計4人。 咄嗟に関係が解らない謎のグループである。 まあ、私たちも人のことを言えるほど、解りやすいグループではないだろうが。 「食前酒はいかがなさいますか」 白ワインだマティーニだとかいう、彼らのオーダーを聞くともなしに聞いていた私だったが、次に耳に飛び込んできた言葉に、思わずスープをすくう手が止まってしまう。 焼酎ロック? 「ああ、申し訳ございません。焼酎はご用意できないのですが」 聞き間違いかと思い、あからさまにならぬよう視線だけをそちらに動かしている間に、ギャルソンがそれを否定した。 そろそろと動かした視線の先で確認した「焼酎ロック」発言者は中年男性2人のうち《おっさん》と呼びたくなる方の人物だった。 ちなみにもう一方の男性は中年紳士といった感じで、連れの女性二人も上品な雰囲気を醸し出している。 つまり、隣のテーブルの中では、あからさまに──そういったもので人を判断するのはどうかと思うが──見た目からして《おっさん》だけが浮いている。 「えぇ〜、ないの。じゃあ、冷酒でいいや」 「ああ、申し訳ございませんが…」 「えぇっ、それも駄目。じゃあ……」 この人が自分の連れだったならと想像するだけで、背中に嫌な汗をかきそうな不毛な会話が続く。 ましてや、本当の連れならばいたたまれなくなって当然だ。 40代の女性の方が場の雰囲気を壊す彼の発言を断ち切るようにギャルソンに告げる。 「あの、わたくしと一緒で」 「かしこまりました。いまワインリストをお持ちしますので」 「ワインか。飲みつけないな」 ギャルソンが一礼してその場を去るのを見送りながら、彼は不満そうな声をあげた。 そんな彼らの様子が気になっていたのは、どうやら私だけではなかったらしい。 「わざとらしいくらい、場違いな男の登場だな」 火村が向かいに座る小夜子にギリギリ届くであろう程度に落とした音量で低く呟いた。 「君も人のことは言えんやろが。こういうとこに来たときくらい、ちゃんとネクタイ締めたらどうなんや」 例によって、ネクタイを締めるというよりぶら下げている火村に向かって、私は言ってやる。 今更火村が誰にどう思われようと私は気にならないが、今日は小夜子がいるのだ。連れの気持ちにもなって欲しい。 「アリス。火村センセが言うとるのは、そういうことやないんやないの」 「えっ?」 小夜子の言葉に私は眉を寄せた。 「こちら、お下げしてもよろしいでしょうか」 待てよ、と、私がその言葉の意味を考え始めたところで、ギャルソンが皿を下げにきた為、思考が止まる。 「はい。とてもおいしかったです」 「ありがとうございます。シェフにそう伝えさせていただきます」 小夜子の言葉にギャルソンはにこやかに笑みを浮かべた。シェフが褒められることが自分のことのように嬉しいといった笑みだ。 どうやら従業員である彼も、ここのシェフの料理に惚れ込んでいる様子である。 それとも単なる営業スマイルなのだろうか。だとしたら、彼は大した役者だ。 「家元はお亡くなりになっているんですよ」 「そんなこと、事務長に言われなくたって!」 「黛(まゆずみ)流の家元は世襲制に決まっているんです」 私がギャルソンの背中を見送りながら、つらつらとそんなことを考えていると、再び隣のテーブルの会話が耳に飛び込んできた。彼らの声のトーンが上がった為だ。 「黛流て…」 「確か、有名な生け花の流派やなかった?」 「その関係者なのかもしれないな」 どうやら、彼らの会話が気になったのは私だけではないらしく、私、小夜子、火村の順で会話が成立する。 成程、あの中年紳士は黛流の事務長なのか。 すると、女性ふたりは師範といったところだろう。 しかし── 「あの、場違いな彼もやろか」 「う〜ん、彼はどうやろ。違うかも……」 私と小夜子が首をひねっていると、火村が下世話な会話を断ち切るように話題を変えた。 「雨が強くなってきたな。アリス、あの道大丈夫なのかよ」 「そんなん俺に聞くな」 確かに、ここに来る時通ったくねくねとした山道は、土砂崩れ1つであっさりと不通になりそうな代物だった。下手をすると道路自体が崩れるかもしれない。 だが、一介の推理作家の私に、その道が大丈夫かどうかの判断など付く訳がない。 いや、推理作家じゃなくとも、国土交通大臣や道路公団の人間でも無理だろう。 地質学の専門家ならばいけるかな? そんなことを考えつつも、火村よりも人間が下世話は私は、未だ隣のグループが気になって仕方がない。 キングオブ場違いな彼は今、背中を丸め、肘を付き、音を立てながらスープをすすっている。 ああ、ここまでくると、そのマイペースさがいっそ素敵かもしれない。 「飯食うのに香水つけてくんなよ」 その彼が、向かいに座る中年女性を上目遣いで睨みつけながら言う。 「身だしなみです」 中年女性はあからさまに嫌な顔をして反論するが、言っているのが彼でなければ、それはもっともな意見だ。 今日の小夜子がフレグランスを身につけていないことからも知れるように。 「マナーがなってないな」 「あなたに言われたくありませんっ!」 確かに……。 食事の場に香水をつけてくるのは褒められたことではないが、彼に言われたくないという気持ちは解る。 私が火村に『お前、俺以外に誘う人間いないのかよ』と言われたくないのと同様だ。 少なくても、お前だけには言われたくない。きっと彼女はそんな風に思っている。 おっと、ここで再び初老のギャルソンの登場だ。 「失礼します。ご予約の際デザートはいらしてからお決めいただくことになっておりましたが」 笑みが絶えないその顔が、厨房に戻った途端にどうなっているのか非常に気になる。 「ええと、おすすめは?」 ギャルソンの問いに応じたのは若い方の女性だ。 「当レストラン特製グラス・バニーユはいかがでしょうか」 「それは辛いなぁ。今日は冷たいもん食い過ぎてて腹冷えちまって」 ギャルソンの言葉に半分かぶさる形で、例の場違いな彼が異論を唱えた。 「でしたら、サクランボのタルトはいかがでしょうか」 「ああ、俺、それ」 彼は即座にデザートを決定する。ある意味うらやましい程のマイペースぶりだ。 いや、決してああなりたいとは思わないけれど── 2 「あの人がシェフやないの?」 小夜子の言葉に私は彼女の視線をたどった。 彼女の言うとおり、シェフコートを着た40歳前後の男性が、隣のテーブルの脇に立ち、何かを話していた。 声が低く、話の内容はこちらまで届いて来ない。 「「えぇっ〜」」 メインも出ないうちからシェフの挨拶もなかろうに、と思いつつ様子を眺めていると、彼らが揃って非難めいた声を上げた。 「なにかあったんやろか?」 私たちが首を傾げていると、シェフコートの男性が一礼した後、こちらへと歩み寄ってきた。 隣のテーブルはではまだ動揺しており、携帯を取り出したり、手帳をめくってみたりとせわしない。 「あの、大変申し上げにくいのですが」 シェフ──面倒なので、断定してしまう。この店に彼ら以外の従業員が居る気配はない。これで彼がシェフでなかったら誰がシェフだというのだ。まさか、火村ではあるまい──は申し訳なさそうな様子で話を切りだした。 彼の後ろで、例の場違いな男がそそくさと席を立つのが見える。 一体なにがあったというのだ? 私は尋ねた。 「どうかしたんですか?」 「実は今、ふもとの警察から連絡がありまして」 「警察?」 「こちらに続く道路で土砂崩れがあったと」 その言葉に、私たち3人は顔を見合わせた。 「来る時タクシーで通ってきた、あのぐねぐね道やろか」 「ええ、こちらに来る道は1本だけですから」 小夜子の言葉にシェフが応じた。 「えっ、じゃあ、どうやって帰ればいいんですか」 私は思わず声のトーンをあげた。 そんな重要なことをあっさり言わないで欲しい。 いや、もったいぶって言っても結果は変わらないだろうが。 「それが、復旧するのは朝になるだろうと」 「「えぇっ!」」 私と小夜子は揃って声を上げたが、火村は片眉を少々動かしただけだった。 まったく、足並みをそろえない嫌な奴だ。 「レストランで夜明かし……ああ、ちょっとネタになるかもて思うとる自分が悲しい、でもそんな自分が可愛いわ」 もしかすると動揺しているのだろうか。小夜子が訳の解らないことを言う。 いや、白状しよう。私も同じことをちょっと思った。 だが、シェフは小夜子の言葉に首を振った。 「いえ、ご心配なく。うちはオーベルジュですから」 「オーベルジュ?」 聞き慣れない言葉に私は首を傾げる。それを見た火村が、 「宿泊施設のあるフランス料理店のことさ」 火村──インスペクターの存在を知らなかったお前が、何故そんなことを知っている? フランス語で道を尋ねることができるからか? それとも誰かとそんなところに泊まったことがあるのか? 私は聞いていないぞ。 ……まあ、わざわざそんなことを私に言う必要もないだろうが。 閑話休題。 ともかく、今は火村の過去より、現在の状況の方が大切だ。 「皆様にお泊まりいただけるだけのお部屋はございます。ただ、おふたりで一部屋ということになりますが」 「じゃあ、テーブルに突っ伏して寝なくてもすむんですね?」 私としてはちょっと気の利いたジョークを言ったつもりだったのだが、見事に外してしまったらしい。シェフはなんとも言えない笑顔と共に頷いた。 「あっ! 私、明日朝イチで打ち合わせ1本入っとるんやった。間に合うやろか」 火曜日という全くの平日とはいえ、作家に曜日は関係ないし、火村も明日は講義のない日だったので、問題ないかと思っていた私だが、どうやら小夜子はしがない後輩作家ほど暇ではなかったらしい。 まあ、締切でないのなら──時には締切でさえ──作家の予定など電話1本でなんとでもなる。 「こちらを出まして廊下の右に電話がございますのでよろしかったら」 「いえ、電話なら」 シェフの言葉に手を振り、小夜子はバッグから携帯電話を取り出す仕草をする。 「すいません。ここ、つながらないんです」 彼女がバッグから携帯を取り出すのを待たずに、シェフは謝罪の言葉と共に頭を下げた。 「えっ! あら、ほんまやわ」 彼らの言葉に、私もスーツの内ポケットから携帯を取り出し確認してしまう。 小夜子とは契約会社が違うが、やはり私の携帯も圏外の文字が表示されていた。 どうして携帯というやつは、自分の物を確認するまで圏外だということに納得できないのだろう。不思議だ。 「なにぶん山の中なもので」 再び頭を下げると、シェフは頭を下げてその場を離れかけた。そんな彼の背中に小夜子が声を掛ける。 「あの、すみません。こちらのシェフでいらっしゃいますよね」 彼女の言葉に彼は慌てた様子で踵を返し、再びテーブル脇までやってきて頭を下げる。 「申し遅れましたシェフの香坂と申します」 やはり私の予想は正しかった。良かった、地の文で嘘をつかずにすんで。 「おいしく頂いています。流石、三つ星シェフですね」 シェフに向かって小夜子がにこやかに微笑みながら言った。 「ありがとうございます。それでは、大変ご迷惑をおかけ致しますが。失礼いたします」 またしても一礼して──何回目だ?──彼はその場を後にした。 いつの間に席を立ったのだろうか、隣の席の中年女性がシェフと入れ違いに廊下から戻ってくる。 場違いな彼はまだ戻ってきておらず、更に女性と入れ替わりに今度は中年紳士が席を立った。 なんともせわしない様子である。 その緊迫感を増長するかのように、先程よりも一段と激しくなった雨が雷鳴までもを連れてきて私たちの身をすくませる。 雷は嫌いではないし、青白く光る稲妻などはむしろ好きなのだが、この突然どおんと鳴り響く音だけはいただけない。予告なしに──される方が驚くか?──いきなりどかんとくるので、別に怖いわけではないのに、思わずびくりとしてしまうからだ。 この雨が、停電や電話線の断線など、これ以上のトラブルを引き起こさないことを祈りながら、私は時折青白く光る窓の外を眺めた。 * * * 「ヤリイカのエテュペ野菜のアスピック詰めでございます」私たちのテーブルにその料理が届いた丁度その時、中年紳士が共に戻ってきた。 小夜子がちらりとそちらに視線を流す。 電話をかけにいくタイミングを見計らっているのだろう。 だが、彼女は席を立たなかった。 料理が出てきたのもその理由のひとつであろうが、隣のテーブルの席は依然としてひとつ空いたままだったからだ。 例の場違いな彼は随分と長電話をしているらしい。 それとも手洗いなのだろうか? どちらにしても、全員が席についている時に電話を掛けにいのが、無駄足を踏まないための確実な方法であることに間違いはない。 そうこうしている間に、今度は隣のテーブルの若い女性が席を立った。 ああ、本当に落ち着きのないテーブルである。 「随分シンプルなんですね」 一旦電話は諦め、今は目の前の料理に集中することにしたのだろう。出された皿を眺めて小夜子がギャルソンに感想を述べた。 彼女の意見には私も同感だ。 この皿は緑のソースで円を描いた中に、オレンジ色のソースが敷かれ、ふっくらとゆであげられたイカ(ゲソ除く)が一杯乗っているだけで、緑、オレンジ、白の色のコントラストは美しいものの、確かに少々シンプルすぎる感がある。 「いや、多分このイカの中にアスピックが詰まってるんだろう」 言って火村はイカにナイフを入れた。その腹の中から、野菜のゼリー寄せがあふれ出る。 「うわぁ〜」 その様子に小夜子が感嘆の声を上げた。 「素晴らしい演出ですね」 声は上げなかったものの、私もその様子に感動したので、素直に感想を述べる。 「味も素晴らしいです」 私の言葉に続けて、一足先に料理を味わっていた火村がギャルソンに告げた。 「ありがとうございます」 ギャルソンの背中を見送ってから、私も料理にナイフを入れる。 シェフに聞かれたならば一緒にするなと怒られるかもしてないが、肉まんだとか鯛焼きだとか、中から何かが出てくる物は、どうしてこんなに人を嬉しい気持ちにさせるのだろう。 イカの中からゼリーがあふれ出してくる様子を眺め、私は思わず微笑んだ。 期待を込めて料理を口に運ぶ。 ──おや? 「ほんまに美味しいわ。このイカの煮方も野菜のゼリーも最高やわ」 私が首を傾げると同時に、小夜子が料理を絶賛する。 ──これがそんなに美味いだろうか? もう一口── やはり、変だ。食べられないことはないのだが、別段感動を覚える程の味ではない。 「何、アリス。口に合わんの?」 幾度も首を傾げる私の様子を、向かいに座る小夜子が見とがめ問いかけてきた。 「……いえ、普通には食べられますけど」 「普通て……、アリス、普段どんだけいいもの食べつけてるいうの?」 「そんなに美味しいですか?」 「美味しいわよ」 私の質問に、小夜子は頷きながら言った。 好みの差なのだろうか? お前も美味いと思うのか、と、隣に座る火村に視線を流すと、彼は無言で頷いた。 いよいよおかしい。 長い付き合いで嫌でも知ることになったのだが、私と火村の味の好みは割と似通っているのだ。 料理の味に関して意見が分かれることなど、まずはない。私の覚えている限り、納豆とコーヒーガム──しかも、これは料理ではない──以外で味に対する意見が分かれたのは、今回が初めてだ。 もし仮に、これは頭の悪い人間にはその美味さが解らない料理ですなどと言われたら、今の私はそれを信じてしまうかもしれない。 私がそんなことを考えつつ、皿の上のイカをじっと見つめていた時だった。 廊下の方から、『ああっ! うわぁ〜〜!』という男の叫び声が聞こえてきた。 「なっ、なんや」 「先刻のギャルソンの声だな」 私の台詞に火村の声がかぶさる。 そうこうしている間に、先程のシェフが隣のテーブルに駆けつけて、何かを告げた。 隣のテーブルの人間が慌ただしく立ち上がり、廊下へと向かう。 「またなにかあったんやろか」 その様子を見て小夜子が呟く。 「土砂崩れのうえに洪水で1週間帰れなくなったとかですかね」 「それはアリスの小説やん。もっと現実的なこと言われへんの?」 私の冗談を小夜子は切って捨てた。 だが、世の中にはリアリティよりも大切なものがある。それはなにか──言わずもがな、マニア心をくすぐる《トキメキ》というやつだ。 キャァ〜〜ッ! 私がそんなことを考えていると、今度は複数の女性の声で悲鳴があがった。 「尋常じゃねぇな」 それを聞いて、火村が椅子から立ち上がり、悲鳴の聞こえた廊下の方へと向かう。 私も慌ててその背中を追った。 「触らないで下さいっ!」 廊下の角を曲がった途端、火村が大きな声を上げる。 少し遅れてその角を曲がった私の視界に、開け放たれたワインセラーの室内で棚にもたれかかるようにして胸から血を流している例の場違いな彼と、ナプキンを両手で持ちその横に立ちつくすギャルソンの姿が飛び込んできた。 火村の言葉は、遺体の顔に布をかけてやろうとしていたギャルソンに対して投げつけられたものだろう。 ということは、彼は既に絶命しているのか? 扉の両側に分かれて中をのぞき込んでいるギャラリーをかき分けて火村がセラーの中へと進んだ。 床に座る彼の首筋に指先を当て、脈をとっていた火村はゆっくりとこちらを振り向くと、私に向かって首を横に振った。 思った通り、彼は絶命しているのだ。 「アリス? 一体なんやの? うわっ!」 「見ない方がいいですよ」 中を覗いて驚愕の声をあげた小夜子を、私は後方に押しやった。 いくら推理作家であっても他殺死体などわざわざみたいものではない、彼女は私の言葉に頷くと遺体が目に入らない位置まで後退した。 「第一発見者はあなたですね」 そうこうしている間に、現場を一見した火村が廊下に戻ってきて、ギャルソンに向かって問いかけた。 「はい…」 「そんなことより早く警察に連絡して下さい」 ギャルソンの返事に被さる形で、被害者の連れである中年女性が大きな声を上げた。 「ああ、確かにその方がいいですね」 中年女性の言葉に頷くと、火村は私の名を呼んだ。 その言葉に頷き、踵を返した私を火村の声が引き留める。 「待て、緊急事態だ。110番じゃなくて、樺田警部に直接連絡を入れろ。香坂さん、彼と一緒に行って、状況とこの店の場所を警察に説明して下さい」 成程、土砂崩れで警察がすぐには来られない今、樺田警部から捜査の真似事をする許可を貰って来いということか。更に、ここの管理者であるシェフにも警部から話を通して貰え、そういうことだな。 それでいいんやろ、と、火村に視線で確認を取ると、訝(いぶか)し気な表情──こいつら何者だ? とでも考えているのだろう──を浮かべながる香坂を促し、私は電話かけに向かった。 3 火村の目論見はまんまとうまくいった。 私が話を切り出すまでもなく、警部の方から、警察が到着するまで火村の指示に従って欲しい旨が香坂に伝えられたのだ。 土砂崩れで警察が来られない現状で、彼らとは別の意味で専門家である犯罪学者の存在は、周りに安堵感を抱かせたのだろう。 警察からの口添えがあったのも幸いしてか、なんでお前にそんなことを言われなきゃならないんだ、という台詞が誰かの口から飛び出すこともなく、火村はこの場の主導権を手に入れた。 どうやら被害者は大曲幸吉という名前らしい。 アルカディアホール・オクトの事件の時同様、その場にいる人間に自分の行動を見守ってもらい、火村は簡単な現場検証を終えた。 全員で一旦ダイニングに戻った途端、中年女性が、震える声で犯罪学者に質問する。 「あの…幸吉さんは、その…殺されたんですか」 「ええ、心臓部をひと突きでした」 「じゃあ、凶器は包丁とか」 ちらりとシェフの方に視線をやる彼女に向かって、首を横に振りながら、火村は、 「そんなに鋭利な物ではありませんが、少なくともこの店の中にある物、もしくはこの中にいる人が持っているものです」 火村の言葉で、ダイニングにざわめきが起こる。 「まさか、この中に犯人が……」 「だって、誰かが外から入ってきたかもしれないじゃないですか」 若い女性が台詞半ばで絶句し、中年紳士は火村にくってかかった。 「ここに来る道は土砂でふさがれています。それにこの雨ですからね、もし誰かが進入して殺したなら出入り口から死体発見現場まで、濡れた形跡が残るはずです。同じ理由で凶器が外に捨てられた形跡もありません」 「じゃあ、凶器も犯人も、今、この店の中?」 小夜子の言葉に火村は頷いて、 「犯人は被害者に怨恨か、強い利害関係を持つ人物でしょう。皆さん、生け花で有名な黛流の方だとか」 「ええ」 被害者の連れの三人組が揃って首を上下させる。 「殺された大曲幸吉さんとはどのような関係なんですか?」 「幸吉さんは次期家元になる筈の人でした」 「事務長! その言い方はちょっとっ!」 「そうですっ。彼が家元に決まってたみたいなこと。今日はそのことを話し合う為にここに集まったんでしょう」 中年紳士──どうやら彼は黛流の事務長らしい──の言葉に、残りの女性ふたりがくってかかる。 これは、もしかしなくとも家元争いってやつなのだろうか。 「失礼ですが。どういうことですか」 彼らの間に割って入り、火村は事務長に向かって尋ねた。女性陣よりは、彼の方が冷静だと判断したためだろう。 「彼は亡くなった家元の実の弟なんです」 「彼がですか?」 「家元は世襲制。これが黛流のしきたりなんですよ」 事務長のこの言葉をきっかけに、再び内輪もめが始まる。 「そんな古い考え方でどうするんですか」 「家元にお子さんがいらっしゃらない以上、ここは幸吉さんが…」 「世襲制ならあたしにも権利がっ…」 「ありませんね、あなたには」 「どういうことですかっ」 やっぱり、家元争いらしい。 しかし、こんな状況で喧嘩を始めなくてもいいだろうに。 「すごい。家元争いやわ」 一緒に壁際に並んでその様子を傍観していた小夜子が声を潜めて話しかけてくる。 「2時間ドラマみたいな展開になってきましたね」 「嫌やわ、そんな安っぽい展開」 「安っぽくても2時間で解決すれば、その方がいいやないですか」 「臨床犯罪学者と推理作家が2人雁首揃えて、2時間ドラマ程度の事件に巻き込まれとったら、お笑いぐさやないの」 「お笑いぐさて……」 こんなことを話していても、小夜子は人の死を悼んでいない訳ではない。 ただ、作家根性というのはこういう物なのだ。 楽しくても、悲しくても、たとえ辛くても、ネタを拾いにかかってしまう。 たとえ、それが実際に活字にはならないとしても── * * *
* * * 「凶器になるようなものはどなたも持っていらっしゃらないようですね」火村が黛流の関係者を一人一人廊下に呼び出し、証言をとった後、彼らは自ら荷物のチェックを申し出た。 いくらやっていないと主張したところで、被害者の連れであり、殺害の機会もあった自分たちには疑いの目が向く。ならば、少しでも早くその容疑を晴らしたい。多分そんな心理が作用したのだろう。 理由はどうあれ、これはありがたい申し出だった。 火村は、いつも──こんな時まで──携帯している黒い手袋をはめると、彼らの目の前で荷物の中を改めたが、冒頭の台詞通り、凶器は出てこなかった。 「この部屋にもないみたいやで」 その間、火村に言われ、私と小夜子、シェフ、ギャルソンの4人は、ダイニングの中で凶器になりうる物を探していたのだが、こちらにも収穫はなかった。 「なら、あと残っているのはキッチンか……」 私たちの報告を受けて火村が呟く。 「普通に考えたらそうやな。せやけど、厨房にはシェフがおったんやろ」 「そうなんだよ。勝手に入って持ち出すことは…」 「出来ますよ」 火村と私の会話にギャルソンの榎木が割って入った。 「「えっ?」」 私と火村はユニゾンで声をあげた。 その様子を見て、榎木の言葉を香坂が補足する。 「厨房の地下に野菜室があるんです。私は調理中よくそこに入りますから」 「すると、厨房が空になることも?」 「もちろん、よくあります」 「成程……」 火村の指先が唇をなぞったかと思うと、彼は10秒ほどでそれをやめ、生け花三人衆の方に向き直った。 すたすたと彼らの座るテーブルに歩み寄ると、被害者の座っていた椅子から彼のセカンドバッグを取り上げた。 「これは殺された大曲さんのものですね。先程、中身をちょっと見せて頂きました。」 言うと火村はそのバッグの中をテーブルの上に並べ始めた。 飴だのチョコレートだのといった甘いお菓子が次から次へと出てくる。 「なに、お菓子ばっかりやないの」 お菓子以外は何も出てこないその鞄の中身に、小夜子が呆れた声をあげる。 「彼は甘い物が好きだったんですか?」 火村の言葉に事務長が頷く。 「ええ。良く飴だとチョコだのガムだのを食べていましたよ。ああ、だからか」 「何がですか?」 「彼、昔はもっと痩せていたんですよ」 「やっぱりね、口卑しい人だったのね」 皆が火村と事務長の会話を黙って聞いている中で、ゆり子が大曲を悪し様に罵った。 いくら家元候補のライバルだったとはいえ、亡くなった人に対し、ちょっと言い過ぎではないだろうか。少なくても食べ物の好みを人にとやかくは言われたくないぞ。まあ、この鞄の中身はちょっと行き過ぎかもしれないが。 彼女は更に続ける。 「これじゃ、糖尿病になるはずだわ」 「糖尿病!」 私は思わず声を上げた。 あの鞄の中身を見て、すぐにその可能性を考えなかった私はやはりホームズにはなれない。いや、別に、他の可能性を無視して物事を断定する人間──敢えて、辛口に評するならば、ホームズにはこの傾向がある──になりたい訳ではないのだが、自分の観察力の甘さが切ない。 「ええ、彼、それで毎週病院に通っていて」 「何故、それをご存じなんですか?」 「……」 火村に指摘され、ゆり子は声を出さずに「あ」の形に口を開けた。あからさまに《しまった》という表情だ。 「お調べになったんですね。事務長と滝沢さんは色々とおっしゃりこともあるでしょうが、有益な情報を得ることが出来たので私は助かりました」 「それのどこが有益な情報なのよっ! ゆり子さん、あなた幸吉さんをつけ回してどうするつもりだったの」 「つけ回してなんていませんっ。」 「家元争いは、この件が片づいてからにしてもらいましょう。どんな些細なことでも、可能性ではなく確定した時点でそれは有益な情報です。低血糖になるをさける為に飴やガムをいつも口にし、チョコレートなどを持ち歩いていた。彼の鞄の中身が藤間さんのお話を裏付けています」 火村の言葉に、今にもとっくみあいの喧嘩を始めそうだった女性ふたりは一気まずそうに口を噤んだ。 そんな彼女らには構わず、助教授が今度は店の人間に話を振る。 「大曲さんがこの店に来たのは初めてですか?」 「ええ、私は初めてお目にかかりましたが」 「香坂さんは?」 「私もです」 「あっ、しかし、私がここで働き始めたのは半年前からので」 ギャルソンの言葉に、私は事件とは全く関係のない部分で驚いていた。 彼の年齢のせいもあるだろうが、なんの根拠もなく、この店に長く勤めているものだと思いこんでいたからだ。 「もし、大曲さんが以前からこの店に来ていたと仮定したら……」 言うと、火村の指先は再び唇をなぞりだした。 * * * 「ないな」「ああ」 その後、火村と私は香坂に案内してもらいキッチンへと向かった。 無論、凶器を探すためだ。 しかし、凶器になりそうな道具は多数あれど、火村のいう様にあまり鋭利ではなく、しかも、人間を刺し殺せそうな都合のいい物は存在しなかった。 ここで確認できたことと言えば、香坂のいう通り、ここには地下室があり、彼がそこに入っている間は犯人が自由に厨房に出入りし、凶器を持ち出すことが出来たということだけだ。 だが、それが出来たとしても肝心の凶器が見つからなくては話が始まらない。 「なにか無くなっているものはありませんか?」 私は香坂に向かって尋ねた。 「いいえ、詳しく調べてみないと正確なことはいえませんが、少なくとも一見して無くなっている物はないみたいです」 「そうですか」 ここの主である香坂が一見して気付かないようなものを、犯人が目ざとく見つけて持ち出せるものだろうか。 「これは先程のイカの料理の?」 私が首をひねっていると、火村がガス台の上におかれた片手鍋を覗き込みながら、ふいに言葉を発した。 「はい。そうです」 「大変おいしかったです」 助教授は満足そうに頷いた。 火村がどれだけあの料理を気に入ったのかは知らないが、頼むからレシピを聞いて作って見ようとは思わないでくれと祈る。 なぜなら、火村が新しく覚えた料理は、いつか私が食わされることになるからだ。しかも、完成版ではなく試作版を。だから、あまり私好みではないレシピを仕込まれると困るのだ。 「ありがとうございます。微妙な火加減が必要なので、ずっと付きっきりでないといけないんです」 もちろん、私もそんなことを口に出して言うほど間抜けではないので、香坂は火村の言葉に頭を下げた。 「付きっきり……。つまり、この料理の間はずっとここに居たんですね」 「ええ、そうです」 香坂の言葉を聞き、私は思わず火村を見つめた。 「だとすると香坂さんがこの料理に取りかかる前、ダイニングに出ていた時にしか、厨房から凶器を持ち出すことは出来ないいうことや」 「ああ、もしも犯人が厨房から凶器を持ち出したのだとしたら、それが可能な人物はおのずと限定されるな」 「火村、香坂さんが俺らのテーブルに居た時、ダイニングから出ていったのは大曲さんと藤間さんや。つまり…」 その事実から導き出される結論を口にしようとした時、火村が片手をあげて私を制した。 「香坂さん、申し訳ありませんが、ダイニングでお待ち頂けますか」 火村が香坂に向かって軽く頭を下げる。 ああ、他人の前で不用意な発言をするなということか。 確かに、凶器がキッチンから持ち出されたことを断定できない今の段階では、ゆり子が犯人だという証明ができない。 香坂の背中を見送りながら、犯人か凶器のどちらかをどうにかして断定できないものかと、首をひねっていると、彼の姿が厨房から消えたとたんに、火村が私の目の前を無言で横切った。 その足取りは明確な意志を持って、厨房内の冷凍庫へと向かう。 「やっぱりな」 観音開きのその扉を開き、呟かれた火村の言葉に、私も慌ててその中を覗き込む。 「アリス、これだよ」 「あ」 これだったのか── この時、私は本当に呆れかえった。 この手を使うなら、せめて撲殺にして欲しい──と。 2003. 12. 30
今回は、一応、事件物ではなくミステリの形式とってみました。 |