4 「思えば幸吉さんもかわいそうよね。これで、家元にはなれなくなったんだから」 私と火村が準備を整えダイニングに戻った時、あまり本気で同情しているとは思えない口調で恵美が言った。 「大曲さんは本当に家元になりたかったんでしょうか」 しかし、それは火村が推理ショー──彼は、こういう言い方を嫌がるだろうが──を披露するきっかけとなった。 火村の言葉に恵美が食いついてくる。 「だから、今日来たんじゃない!」 「ですが、事務長と藤間さんは彼が家元になりたくなかったことご存じでしたよね」 「ええ」 ゆり子が肯定の返事をし、事務長も頷く。それを見て、恵美は目を丸くした。 「じゃあ、彼はなんで今日ここに?」 「事務長が無理に誘ったんじゃ…」 「無理にって……、この店だって幸吉さんが来たいっていうから」 「そこです」 生け花三人衆の会話に火村が割って入る。三人は揃って「はぁ〜?」と声をあげた。 「このお店を予約したのは大曲さんでしたね」 火村が事務長に向かって問う。 「ええ、一度来てみたいって」 「しかし、それには少し無理がありませんか」 「私が嘘を言っているとおっしゃるんですか」 「いえ、嘘を言っているのは大曲さんの方です」 火村の言葉に一同が怪訝な表情を浮かべる。しかし、その3秒後、小夜子が口を開いた。 「考えてみれば、確かに、ちょっと無理があるわ」 腕組みをしながら首を傾げる小夜子に、全員の視線が集中する。 「一見、マナーもがさつでグルメにも見えない彼が、一度こういう店に来てみたかっただなんて。ましてや、あまり親しくない人と来るんやもの」 彼女の発言に頷いた後、火村が続ける。 「それに、ここは半年前から予約が必要です。つまり、彼がこの店に来ることは半年前から決まっていたんです」 半秒ほどその場の空気が固まり、その後一気にざわめき出す。 「ええっ! 半年前って、まだ家元生きてたじゃない」 「ええ」 声を高くするゆり子とそれに頷く恵美。事務長は信じられないと言わんばかりに首を振っている。 しまった──そのことを忘れていたと言わんばかりに悔しそうな表情を浮かべる小夜子に、目をしばたかせるギャルソン、唖然としているシェフと、その反応は、実に様々だ。 それにはかまわず、火村は続ける。 「家元相続の話し合いは、彼がここにくる為の口実だったんでしょう」 「どうして幸吉さんがそんなことを?」と事務長。 「こうは考えられませんか。実は彼はこういう店をよく利用するような人だった」 「まさか」 「皆さんがこの店に入って来たとき、椅子の左側から座ったのは彼だけでした。それに、女性おふたりが先に座ったのを確認してから座っていました。かなり厳格で正しいマナーです」 火村の話を聞き、黛流の女性陣ふたりは「椅子って左から座るの?」などとひそひそやっている。 この人達は、だらしなくネクタイを締めたこの男が、どうして厳格なマナーとやらを知っているのか不思議ではないのだろうか? 言っておくが、私は不思議だぞ。 しかし、彼女たちとは違い、事務長はまだ納得がいっていない様子で、 「でも、それは単なる偶然じゃ…」 「グラス・バニーユ」 「えっ?」 「グラス・バニーユ。皆さん、何のことかおわかりですか?」 火村が周りの人間を見回す。 皆が無言でいるので、質問の意味はわからないながらも、私が応える。 「バニラアイスのことやろ」 「お前がそれを知ってるのは、こないだ行った店のデザートがたまたまそれだったからだろ」 「ああ」 そうだとも。恥ずかしながらお前と行った店のデザートがな。 「そんな偶然でもない限り、グラス・バニーユがなにか、咄嗟に解らないのが普通ではないですか。しかし、榎木さんがデザートの注文を取りに来たとき、彼はグラス・バニーユと聞いて、今日は冷たい物を食べ過ぎているので他の物がいいと言っていました」 「ああ、そうか。あの人、知ってたんや。グラス・バニーユがバニラアイスクリームやて」 小夜子がぱちんと指を鳴らしながら言った。 「つまり、彼はフランス語ができるか、もしくはフランス料理に詳しいか、そんな人だと思いました。それに、彼が香水を気にしていたのも気になりました」 「ちょっと、失礼」 火村の言葉を受け、小夜子がゆり子の肩口に鼻を近づける。 「そんなに強い香水は付けていないですよね」 「ええ、だから嫌なこと言う人だなあって」 そのやりとりに頷くと、火村は更に続ける。 「それだけ、彼は香りに敏感だったんです。彼が、生け花をやめてから太ったというのも気になりました。恐らく、彼はそれから始めたんでしょう。インスペクターという仕事を」 小夜子が成る程と言わんばかりに唇の両端をつり上げ、生け花三人衆が揃って怪訝な顔する。 「なんですか? そのインスペクターってのは」 疑問を口にしたのは恵美だ。 「グルメガイドの覆面視察員のことですよ」 「あの人がグルメガイド?」 「1日に何軒もレストランを回る仕事です。だから糖尿病にもなった。そして、彼は何故基本的なマナーを知っているのに、敢えて対局にいる人物を演じていたのか」 「……インスペクターの身分を隠すためやわ。家族にも知られたらいかん仕事やもの」 「じゃあ、彼を殺したのは一体……」 小夜子とゆり子がそれぞれ呟く。 その、ゆり子の呟きをきっかけに、火村の視線が一人の人物に定まった。 「それは……」 * * * 「香坂さん、あなたです」火村に自分の名を呼ばれ、香坂の顔に動揺の色が浮かぶ。だが、彼は果敢にも反論を開始した。 「そんな、どうして私が?」 「インスペクターと強い利害関係があるのは、あなたです」 「インスペクターだなんて知りませんでした。今夜初めてお会いしたんです」 「つまり、あなたは今夜それを知ってしまった」 「それは今、あなたがおっしゃったから…」 「いいえ、あなたがそれを知ったのは彼が電話をかけている時です。香坂さん、その電話を聞いてしまいましたね。そして、その電話こそ、彼が殺された理由でした」 火村に追いつめられ、香坂は幾度も生唾を飲み込んだ。まだ、頑張る気なのだろうか。 そんな彼の様子を見て、助教授が更に追い打ちをかける。 「エトワールに確認すれば、すぐにわかることです」 「でも、仮に彼が電話をしていたとしても、私がそれを聞いていたという証拠があるんですか」 しかし、香坂は踏ん張った。結果が解っているだけに、なんだか見ていて痛々しい。 「いいえ、でも、犯人はあなたです」 「そんな乱暴な」 「凶器がそれを物語っています」 「見つかったんですか?」 「そんなばかな」 「そんなばかな? 何故です? 凶器が見つかるはずがない。そんな口振りですね」 「なんなんですか凶器って?」 「アリス、頼む」 火村に言われ、私は廊下に置いてあったワゴンを取りに向かう。 それを火村の前まで押してゆくと、彼は上に掛けてある布をめくり取った。 「凶器はこれです」 火村の指さす先には、、1杯の冷凍イカが銀色のバットに寝転がっている姿があった。 「これが?」 「イカぁ?」 「まさか、そんなもので」 「本当にコレで人が刺せるんですか」 その解答を初めて知った人間が、信じられないと言わんばかりにざわめく。 「証明しましょう」 火村がゆっくりと手に持った布をイカの下部に巻き付けるのを見て、私もワゴンの下の棚から、丸ままの冬瓜を取りだした。 イカの入っていた銀色のバットの横に置き、動かないよう両手で固定する。 火村が右手を振り上げ、冬瓜にめがけてイカを振り下ろす。 ザクッと鈍い音がして、それは見事、頭から1/3を程度のところまで冬瓜の中に隠れた。 それを周りに確認して貰った後に、私は冬瓜を両手で持ち、火村と協力して綱引きの要領でそこからイカを抜きにかかる。 充分深く突き刺さっている証拠に、それを抜くためには、幾度か引っ張り合いを繰り返さなくてはならなかった。 気をつけていたのに、それが抜けた瞬間、バランスを崩して少々よろける。まあ、尻餅をつかなくて済んだので良しとしよう。 私は体制を立て直し、凶器が抜けた後の傷が周りに見えるように、冬瓜を胸の前に掲げた。 その傷の部分を指差しながら、火村が香坂に鋭い視線を向ける。 「それに、この凶器は被害者の傷の形と丁度合います。香坂さん」 犯罪学者の呼びかけに、香坂はがっくりと首を落とし、近くにあった椅子の背もたれを握りしめた。 「殺すつもりなんてなかった……」 「ええ、殺すつもりなら、凶器にイカなど選ばないでしょう」 火村の言葉に、香坂は鼻をすすりあげると、低い声で大曲を殺害するに至った経緯を語り始めた。 * * *
* * * 「20年です。星を取るまで20年、そして、この店でやっと三つ星を取って……」香坂の台詞が途中で消える。 確かに、星を落とされるのはショックなことだっただろう。しかし、それは料理をする上で一番大切なことではないのではないか。賞をとることが小説を書く上で一番大切なことではないのと同様に。 私は彼に尋ねた。 「そんなに星が大切なんですか」 「…………」 香坂は無言だ。私が彼を見つめていると、小夜子がふいに口を開いた。 「何が大切かは人それぞれなんやないの。フランスで三つ星だったシェフが、星を二つに減らされて自殺したいうこともあったらしいし。せやけど火村センセ、冷凍イカやなんて、推理作家も咄嗟に思いつかんような凶器、どうやって見つけたんです?」 小夜子の言葉に、火村は何故か気の毒そうな視線を私に流した。 「それは、アリスのお手柄です」 「俺の?」 「アリスの舌を信じました」 「あっ、アリスの食べたイカっ!」 俺の食べたイカ? って、まさか── 火村、そんなことは聞いてないぞ! 「香坂さん、証拠隠滅のために凶器を料理しましたね。しかし、慌ててしまいました」 「気が動転してて……。あのイカは既に煮込み始めていたイカと入れ替えたものなので、煮る時間が不十分でした」 「それで味に差が出たんですね。三つ星シェフならば、もっとうまく凶器を調理するべきでした」 いや、待て、火村。そういう問題ではないぞ。 涼しい顔をしている火村を、私は慌てて窓際まで引っ張って行き、小声で問いただした。 「火村、俺は凶器を食ったんか?」 「悪いな黙ってて。だけどお前、自分が凶器を食ったって解ったら動揺しまくるだろ。犯人を追いつめる側が動揺してたんじゃ、話にならないしな」 「せかやてっ」 「苦情はあとでゆっくり受け付ける。だけど、別にアレは俺がお前に食わした訳じゃないんだぜ」 言うと、火村は私から離れて、皆のところ向かってゆっくりと歩き出す。 「だ…」 誰が食わしたのかは関係ない、お前の性格に問題があるんや、と言いかけて私はやめた。 私が凶器を食わされたことより、星の数を減らされることよりも、そして、家元になることよりも、もっと重要なことがあることを思い出したからだ。 今日、ここで、ひとつの命が奪われたこと。 今は、人として、そのことに一番憤りを感じるべきだと思う。 ふと、窓の外を眺めると、いつの間にか雨が上がった空は、皮肉にも満天の星を煌めかせていた── 2003. 12. 30
実はこの話、火村がする推理としては多少の無理がある。 |