桜月夜を君と歩こう──
「良く知ってたな、こんな店」 「はんっ、作家の情報網をなめんなや」 手入れの行き届いた風情のある庭園を散策しつつ、いつもの如く風流さのかけらもない軽口を叩く。 完全予約制で、しかも1日昼と夜の2組しか客を取らず、更に料理は完全おまかせ。だが、絶対に満足できるという、とある旧家の屋敷を改装した京都のこの店の話を某女流作家に聞かされたのはほんの半月前。 おおいに興味をそそられた私は、自分でも無茶だろうと思いつつ、4月15日──そんな敷居の高そうな店にはこういう理由でもなければ、興味はあっても行く気にならない──の予約が取れないかどうか確認の電話を入れてみた。 結果──玉砕。 まあ、当然だろうと諦めた私の耳に電話の相手が14日の夜ならば、丁度キャンセルが入ったところで空いていると告げる。 1秒だけ思案して、私は予約を入れることにした。 本人に確認はとっていないが、まあ、大丈夫だろう。都合が悪かったらその時はその時だ。後で、この店がどんなに素晴らしかったか嫌味ったらしく語って、奴を悔しがらせてやろう。と思ってした予約だったが、変なところで妙に悪運の強い悪友──まったく『悪』ばっかりつきくさる──は、こういう時だけちゃっかり予定が空いていたりするのだ。 そんなこんなで、私は深く考えると悲しくなるから決して深くは考えずに、火村英生と共にその店に出向いた。 多分、私が予約を入れた時に電話で応対してくれたのと同一人物である、その店の女将に出迎えられ、中へと入る。 女将のあらあらという感のある微笑みに、私は予約時に言った言葉を思い出し、少々赤面した。 自分で回想してみても、いかにも恋人を連れて訪れそうな口振りだったと思う。 ところが現れたのはイイ年をした男の二人連れ。女将に同情されたに違いない。 そんな、ちょっとげんなりしてしまうことを考えながら、女将について長い廊下を歩き、見事などうだんツツジが眼に鮮やかな庭が展望できる小部屋に案内される。 部屋の名は青龍。部屋のネーミングからしても、どうやらここは青龍・白虎・朱雀・玄武といった四神の名を持った庭で構成されているらしい。 うろ覚えだが、確かこの四神という奴は東西南北の方角の他に季節も表していた筈だ。 この状況から判断するに、青龍が表している季節は春ということになるのだろう。 家に帰ったら確認して中途半端な知識を完璧にしなれければ等、火村にバレたら余計なことを覚える前にこういう基本をおさえておけと言われてしまうようなことを考えながら、座椅子に凭れあぐらをかいた。 どんな高級な茶葉を使ったところで、自分では決して入れられないであろう、甘くて丸みのあるお茶の味を味わいながら、庭を眺める。 無粋になるから、今夜の食事がいくらのものか敢えて火村に言う気はないが、庭を探索するだけで軽く1,000円位とられても文句が出ないであろうこのたたずまいをみても、決して安くはないことは伝わるだろう。 感謝しろよと、ちらりと隣を盗み見ると、火村は眼を細めて庭を観賞しながら、既にキャメルをくわえていた。 食事の前に煙を吸って味覚を麻痺させるなど、言語道断という意見もあるだろうが、いちいち禁煙などという言葉で客をしばりつけないこの店に私は好感を感じる。 ヘビースモーカーでもその場のルールは守る火村だから、ここか禁煙でも嫌な顔はしないだろうが、折角の──この年になってそれが楽しくて仕様がないこともないだろうが──誕生日なのだから、気持ちよく食事を楽しんでくれた方が、この場を用意した私にとっても嬉しい。 これでいて必要最低限のマナーというやつは身に付けていて、少なくても火村が次に煙草に火を点けるのは、デザートに入ってからだと解っているから、尚更そう思う。 「維持費を考えるだけで頭痛がしそうな庭だな」 くわえた煙草を一端灰皿に置いて、お茶を口に運びながら火村が呟いた。 「余計なこと考えとらんで、素直にその素晴らしさに感動せい」 「生憎と人間が素直に出来ていないもんでね」 自虐的な笑みを浮かべながら、火村が吐き捨てる。 「確かに。素直な君なんて見てしもうたら、明日の天気は槍かて心配せなあかんから、やっぱ前言撤回するわ」 「言ってろ。ところで天気予報が槍なら通天閣のライトは何色なんだろうな」 時々──本当にこういう時には、火村に向かってオヤジと叫びたくなる。はっきり言ってそのギャグはつまらない。 「君、今更、俺から『記号の持つ意味』てタイトルの講義受けたいわけちゃうやろ」 「はいはい、受け取る側が知らなけりゃ、どんな記号にも意味がない。重々承知しておりますので、有栖川先生の拙い弁舌で私めに催眠術をかけるのはおやめ下さい」 「本気で寝かしたろか」 くってかかりかけたところで、ふすまが開き、料理人らしき人間が入ってきたので、私は口を噤み、火村は煙草をもみ消した。 その男はやはり料理人だったらしく、一礼した後、自分の仕事を始める。 ゴゴミとかいう正体不明の山菜のゴマ和えを皮切りに、旬の食材や厳選に厳選を重ねたであろう素晴らしい食材の全てを彼は私たちの目の前で調理してくれた。 成る程、このシステムならば1日に昼夜2組の客しか取れないだろうと、妙に納得する。 出された酒も、名前も聞いたこともない無名のものだったが、美味かった。 日本人が好む淡麗辛口の酒とは趣が違うが、ちょっと酸味があって地に足が着いた感じのするその酒は、全ての料理を力強く受け止めてくれる。 気になって尋ねると、この店の主人──つまり、今、私たちの目の前で調理している料理人──が、店を開く前、日本中をくまなく回って探し出した、小さな蔵元が出している酒だという。 ブランドや産地に惑わされず、自分の納得するものを納得するまで探し歩く。 素晴らしいと思うのは、その心意気もだが、それで商売が成り立っている処だ。 その点、この店の主人は恵まれているといえるだろう。理想を高く持つ人間は多くいても、それを実現できる人間は一握りだ。 そんなことを考えていると、私たちの傍らで、料理の説明や酒の酌をしてくれていた女将が「デザートの前に、お庭の散策はいかがですか?」と促した。 言われてみると、夜とはいえ月明かりが、明るく庭を照らしている。 男ふたりで月夜の散歩もあるまいと思いもしたが、窓からは死角になっている部分に興味もあったし、柔らかく降り注ぐ月の光に誘われている様な気もして、私はその提案を「腹ごなしをかねて」という理由で受け入れた。 縁側から庭に降りると、ふわりと花の香りが私たちを包み込む。 白い玉砂利が敷かれた庭は、月光を反射して明るく光り、足下を危ぶむことなく歩くことが出来た。 火村と冒頭のような軽口を叩きながらシャクナゲや花蘇芳(はなずおう)といった季節の花を見て歩く。 アヤメに似ているが、花弁の端にいやにギャザーが入っている花を、これはなんやろか? としゃがみ込んで観察していると、目の前に桜の花びらがひらひらと舞い降りた。 近隣に住む作家仲間と大阪城でどんちゃん騒ぎをしたのはもう3週間も前。なんで今頃? と思いながら、あたりを見回すと、家屋の影に隠れて良くは見えないが、どうやら桜らしい木がその一部だけを覗かせている。 火村を促し、そこに向かう。 「うわぁ〜」 角を曲がってその全貌を眼にした途端、私は感嘆の声を上げた。 桜の木だとしたら、何故青龍の庭にないのだろう、という私の疑問は一気に氷解した。 樹齢何年だか想像もつかないその巨木は、きっとこの家が建てられる前からそこにあったものなのだろう。 その八重桜は威圧感さえある姿で私たちを出迎てくれたのだ。 月明かりに浮かび上がる満開の桜は、絵になりすぎて寒気さえ感じる。 あと1日早くても遅くてもここまで完璧な状態は有り得ない。 満開の桜、雲一つ無い空、程良くそよぐ風、絵にしたなら丁度空いてしまう空間に完璧に収まり、桜を照らす月。 私は身震いしながら、傍らにいる火村の悪運の強さ──これが私の運でないことは、残念ながら明らかだ──に感謝した。 ほんの少しでもタイミングがずれたなら、決して有り得ないこの風景。 それは、人と人との出会いによく似ている。 今、自分の横にいるこの男とだって、どちらかというと、出逢えたのが奇蹟なのだ。 「十三夜ってところかな。惜しいな」 火村が携帯灰皿を取り出して、煙草に火を点けながら呟く。 「いや、これがこの景色の完成形や」 夜空に浮かぶ、出来損ないの満月。 そう、満月である必要はない。 完全な円のようでいて、よくみるとほんの少しだけかけている今夜の月が、絶妙なバランスでこの眺めを完璧なものにしているのかも知れないから。 たとえ、そうではなくとも、君が傍らにいなくては、私にとってこの風景は完成しない。 今夜の月に誓って── 有名なシェイクスピア作品の言葉を借りるなら、一夜ごとに姿を変える不実な月。 しかし、月自身は決して姿を変えたりはしていないのだ。影に隠されたその部分だって消えて無くなっているわけではない。 見せかけの形には惑わされる人間の方が不実なのだ。 そんな月の様に、見えない部分も多い君の見せかけの姿に、私だけは惑わされないでいたいと思う。 「行くぞ。これ以上ここにいると、月からお前を迎えにくる使者でもやって来そうだ」 「なんや、火村センセにあるまじき発言やな。さては月の光に中ったか。月の光は人を狂わせる言うしな」 「うるせぇよ」 火村は煙草の煙と共に吐き捨てて、さっさと歩き出した。私もその背中に続く。 UFOも幽霊も呪いも神も信じない火村にあるまじき発言。 が、この幻想的な風景に、ちょっとは本気でそんなことを考えてしまった君に、私は気付かない振りをしてあげよう。 君がそれを望むなら── 月が形を変えて見せるのも、今、私の傍らにいるのが君なのも、きっと理由があってこのこと。 ……だから歩こう。 ── 桜月夜を、君と ── 2003.04.14
うふふ。またしても力業炸裂。 |