これってどうよ?(1)



「以上。神に誓って今言った部分以外からは、問題出さないから、ちゃんと勉強しとけよ」
 パタンと教科書を閉じて、和泉澤学園高等部の生物教師──村上孝久(むらかみたかひさ)は教室を見回した。
 生物は選択授業であり、A〜D組の選択者が一緒くたになってD組の教室に詰め込まれているので最初の数回はその顔と名前を一致させるので精一杯だ。
 期末試験を間近に控え、その顔と名前がようやっと一致してきた頃合。
 今、村上が教えているのは、2年生のうちに生物を選択することを選んだ者達だ。
 2年次に取ろうが3年次に取ろうがそれは単位として認められる。もちろん選択授業だからして、取らないで別の科目で補うことも可能だ。
 けれど、2年次でこの授業を選択する生徒達は、純粋に生物という科目が好きな者が多い。
 敢えて釘をささなくとも、3年生には1人2人出てくる追試組はまずは居ないだろうと村上は確信していた。
「これ以外から問題ださねぇ〜って、せんせー。範囲広すぎだって」
 教卓の目の前、案外死角になってしまうその席に座った生徒、柴田祐介(しばたゆうすけ)が不満そうな声をあげるが、村上はそれを切って捨てた。
「ばか言うな。お前らが揃って泣きつくから中間テストは実施しないでやったんだ。本当ならあと30ページくらいは範囲増やしてやっても良かったんだぜ。それでも文句あんのか」
 柴田という生徒は、茶髪にピアス、更に意志の強そうな切れ長の瞳というその外見に反して成績は良い。
 そんな成績上位の生徒が不満を漏らせばその他の生徒もそれに便乗するのは目に見えている。
 自分の言葉に、ちぇ〜、と不満げな声を漏らしながら、それでもテスト範囲には納得したらしい柴田を見て、村上は満足気に頷いた。
 まあ、生徒達の気持ちが解らないとは言わないが、お前らはやれば出来るんだからいいじゃないかとも思う。
 村上は今年で33歳になる。以前は普通の公立高校で教鞭を取っていたのだが、7年前に結婚したのと同時期に和泉澤に引き抜かれた。
 一応親戚らしいが、何回聞いてもその関係がイマイチ把握できない遠縁の人間が、待遇も生徒の質も格段にいいという、その話を持ってきたのだ。
 幸い以前の学校では担任も持ってはいなかったし、若くして結婚したため経済力に不安を抱いていた村上はその申し出を受け入れた。
 もともと現在の妻とは、共働きでしばらくは乗り切ろうという話になっていたのだが、無能で最悪な上司にあたってしまった村上の妻は、結婚を半年後に控えたある日、会社で倒れて救急車で運ばれた。病名は神経性の胃潰瘍。
 その時、彼女の同僚から話を聞き、初めて知り得た事だが、妻の上司は本当に最悪で、あげくに彼女に対してセクハラまがいの嫌がらせもしていたという。
 「ほんっとーにサイテーなのよアイツ」という彼女の言葉を、上司は悪く言われるのが仕事だという持論の下に話半分に聞いていた村上だったが、その話で、彼女の置かれている状況が言葉以上だったことを知る。
 素知らぬ顔をして、やっぱり結婚後は家庭に入って欲しいと頼んだのは、愚痴ぐらいはいうものの、その辛さを村上にさえ隠し通した彼女を尊敬もしたし、守りたいとも思ったからだ。
 そんな折りに条件の良い話が振ってわいたのだ。乗らない方がおかしいというものだ。
 これは、後に聞いた話なのだが、村上の前任者が生徒と駆け落ちして逃げたので──当たり前だが、生徒は男だ──急遽、新婚で少なくてもそういう心配だけはしなくても自分にお鉢が回ってきたらしいのだ。
 ── 理由があほくさ過ぎる。
 と、そんな性癖のない村上はあきれるばかりだったが、運が良かったことには変わりない。
 全寮制男子高という女っ気のなさに、多少のむさくるしさは感じたものの、赴任してみればそこには今まで居た学校よりも清潔感の漂う場所で、確かに生徒の質もいい。
 赴任した理由はともあれ、村上はこの学校が結構好きだった。
 自分の息子もこの学校に入れたいと思うくらいには──
「そんな、不満そうな声出すなよ。俺には、そんなことよりもっと不満に思うことがあるんだぞ」
 女が居ないからだろ〜、という生徒のヤジを聞き流して、村上は続ける。
「この間、幼稚園の父親参観に行った時、『一番好きな食べ物なに?』って先生に聞かれた達弥(たつや──村上の息子(5歳))がなんて答えたと思う? 卵かけご飯だぜ。いや、俺だって卵かけご飯を否定はしないさ、アレは確かにうまい。ただなぁ〜、親としては、もうちょっと普通にハンバーグとか答えて欲しかった訳よ。よりによって卵かけご飯……ウチでまともなもの食わせてないみたいじゃないか。これってどうよ?」
 村上のこの言葉は、爆笑されながらも、生徒の同情を大いに誘ったらしい。
 その後、試験範囲に関しての苦情が出ることもなく、そして1人の追試者も出すことはなく、期末試験は無事終了した。

☆   ☆   ☆

「あれ、柴田? お前、いくらなんでも酒屋でバイトはヤバイだろう」
 夏休みに入って間もなく、村上は宿直の間にこっそり飲むためのビールを入手すべく、学園近くの酒屋へと足を運んでいた。
 本物のビールが飲みたいところだが、これは自分の小遣いから払うことになるので、発泡酒で我慢することにして、350mlの6缶パックをレジに持っていったところで、生徒に出くわしたのだ。
「バイトじゃねぇよ。ここ、俺の自宅だって。子供が自分ちの仕事手伝うのは当然だろう」
 最後に見た時よりも幾分日に焼けた様子の柴田は、本当に当然といった顔をして言ってのけた。
 当たり前だと言われても、サラリーマン家庭に育った村上には、柴田のその発言が新鮮だった。
 村上にとって、子供の頃時々言いつけられる家の用事は、当然のことではなく、嫌々ながらもしなくてはならいないものだったからだ。
 が、柴田にはそんな様子は微塵も感じられない。プライドを持って自分の仕事をしていますといった様子が見て取れる。
「もっともなご意見だ。肝に銘じておくよ。しかしウチの学校も、こんな目と鼻の先に自宅がある生徒を、なんでわざわざ寮に入れるかな〜」
「ああ、それ理由があるらしいよ」
 てきぱきとレジを打ち、おまけと言ってミックスナッツの小袋なんかを袋に詰めながら、柴田が言う。
「どんな? つーか、なんで教師の俺が知らないこと、お前が知ってるよ」
「俺は17年間ここに住み続けてるんだぜ。酒屋の情報網をなめんなよ先生」
「これは、失礼しました。で、どんな理由だよ」
「ん〜、噂だけどね。ウチって良家のご子息が多いじゃん。そーゆー奴らって育ち方間違えると、無意味な特権階級意識を持ちがちだから、他人と共同生活して社会性を身に付けるってのが目的らしいよ。いくら家が近いからって例外作ると、自分も自宅から通うって言い出す奴が現れかねないだろ」
 言って、柴田はビールの入った手提げ袋をカウンターの上にトンと置く。
「まあな〜、でも、それなら最初から入らなきゃいいようなもんだけどな」
「違うよ先生。俺らみたいなパンピーはともかく、あの学校は親の方が入れたがるの。特に親父が。その分じゃセンセー知らないだろう。高等部の経営してるのが生徒会だって」
「はぁ〜、なんだよそりゃっ」
 思わず、素っ頓狂な声を上げた村上に向かって、柴田はやっぱりなと言わんばかりの表情をしてみせた。
「コレ有名な話だよ。だいたい、あんな授業料で先生がまともな給料貰えると思う? 公立高校並なんだぜ、ウチの授業料。先生の給料は生徒会が叩き出してるんだぜ。流石にどんなことやってるかまでは俺も知らないけどね」
 と両手を広げて見せる柴田に、村上はしばし言葉を失った。
「マジ? 知らなかった……」
「まあ、有名って言っても、その筋で有名なだけだから、先生が知らなくても不思議じゃないけどね。少なくとも和泉澤生徒会に関わってた人間に二代目=無能ってレッテルを貼られる奴はいないらしいよ」
「それにしたって……。っていうか、柴田。ソレ、酒屋が近所の噂話で入手できる範囲の情報じゃないだろうが」
 話のスケールのでかさになしくずしに納得しそうになった村上だが、腐っても教師、その矛盾点に気が付いた。
「ハハッ、バレた? 俺の兄貴が和泉澤の56期生徒会長なんだよ。今、風折コンツェルンの関連企業に勤めてる」
「成る程……それでね。ってことは、お前がここの跡継ぎか?」
「ううん違う。酒好きの姉貴が婿養子貰うことがもう決まってる。好き放題やっといて、適齢期になったらちゃんと相手見つけて実家に戻ってくる。我が姉ながらソツがなさすぎだよ。どうせならずっと家に居てくれりゃ、俺が毎日実家に戻って店番しなくてもすんだのにさ〜」
「それじゃ、お前、休み以外にも毎日店番に戻ってたのか」
「まあね。親は別にいいって言ってるけど、助かるのは事実みたいだし。育てて貰ってるからね〜。それに、配達とかしてると金かけずに身体が鍛えられるんだぜ。更に小遣いにあやもつくっていう特典付き♪」
 何でもないことの様に柴田は言うが、村上は驚いた。
 柴田はこれでいて学年20番以内を常にキープしている成績の持ち主だ。
 放課後、授業とは別に組まれている特別講習(有料)を受けなくては普通維持できる成績ではないのだ。
 その特別枠を持たない村上は、当然柴田もそれを受けているものだと思い込んでいたのだ。 
 ── あの成績を店番と配達しながら維持してたってか。
 どうやら自分の思っていた以上に出来るらしい目の前の生徒に、村上は年下とはいえ尊敬を抱く。
 成績に関してのことだけではなく、そのしっかりと地に足がついた考え方にも。
「なに、いきなり無言になってんだよ先生。あっ、もしかして先生の小遣いより俺の小遣いの方が多いかも知れないって不安になった?」
 そんな思いをよそに、からかう様に聞いてきた柴田の頭を村上は右手でぐしぐしとかき回した。
「いくらなんでもお前には負けないよ。ウチのかみさん気前いいんだ」
「やーめろって、せっかくの男前が台無しになるだろ。な割には発泡酒買ってるくせに」
 村上の手を振り払いながら、柴田が鋭いところに突っ込みをいれる。
「うっ……、値段なんて関係ないね。俺は発泡酒が好きなんだ」
 誰が聞いたって言い訳にしか聞こえないそんな台詞を吐いて、村上は酒の入った袋を取り上げた。
「先生、また来いよ。おまけしてやるからさ」
 子供のくせに上手にウィンクを飛ばす柴田に村上は苦笑を漏らす。
 その苦笑は柴田にではなく、この歳になっても未だウィンクができずに両目をつぶってしまう自分に対してのものだ。
 なので、ついつい子供のお愛想に真面目に答えてしまう。
「そんなにビールばっかり飲んでたら腹出るだろうが」
「あはは〜、先生、親父くせ〜」
「しょうがないだろう、実際親父なんだから。15年後に同じ台詞が言えたらその時は誉めてやるよ」
「かもね〜。想像はつかないけど。でも、安心しなよ。中年に片足突っ込んでる割には、先生結構イイ線行ってるから」
「誉めたって、成績の水増しはしてやらねーぞ。しかもひと言余計だ」
「そんなのいらねーよ。俺、好きな科目は勉強しなくてもできるもん」
「お前……そんなことばっかり言ってると、そのうち刺されるぞ」
 言いながら、村上は柴田の答案を思い出していた。その×の数はたったの1個、点数は98点で、もちろんトップだった。
 それを勉強もしないで取ったとなると、教師である村上でさえ少々憎らしさを感じるのだ。
 努力を美徳とする日本の学校教育において、こういう人間は敵を作りやすい。
「俺だってばかじゃねーよ。誰彼かまわずこんな自慢する訳ないだろ」
「……だろうな。じゃ、店番頑張れよ」
 確かに。こいつはそつなく人生を歩んで行きそうだと感じ、思ったままを告げると、村上は店を後にした。
 道路に出て、店の中にちらりと視線を流すと、柴田がにこやかにバイバイと手を振っていて、村上はその無邪気な仕草に笑みを漏らした。
 しかしこの偶然が、彼らの日常を大きく変化させるものだとは、まだ誰も気付いていなかった。
 当の本人達でさえも──

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