これってどうよ?(14)



 ──なんで、そうなるのよっ!
 前田は、何故か自分の目の前で着々と進められている、村上と柴田の別れ話を納得のいかない表情で見つめていた。
 村上の妻の言葉が嘘だと解ったというのに、それがきっかけで彼らは自分たちの改めて疑問と不安を抱いてしまったらしい。
 しかし、第三者だからこそ前田にはよく解る。
 彼らが間違っていることが。
 たとえ不倫じゃなくたって、たとえ男女間のことであったとしても、恋愛というのはそれ自体が誰かを傷つける要素を含んでいるのだ。
 仮に村上が独身だったとしても、彼に思いを寄せる人間が他にいないと誰が言い切れる?
 仮に柴田が女だったとしても、柴田を好きな人間はやはりショックを受けるのだ。
 それに、村上の妻は、あんな嘘をついた時点で、既に傷つき悩んでいるのだ。
 それを今更無かったことにしようなんて無理に決まっているのに。
 村上の結婚生活は、あくまで表面上の平穏を取り戻すのが関の山だし、こんな風にして心に残ったしこりは一生消えない。
 ちょっとした衝撃がきっかけで爆発する不発弾のようなものだ。
 柴田にしたって同じこと。
 こんな別れ方をすれば、いつか絶対に思うだろう。
 自分たちは村上の妻のせいで別れるしかなかったと。
 本当は、最終的に村上に妻を選ばれてしまうのが怖いから、捨てられる前に別れるという選択をしているくせに。
 誰かのせいにできれば気持ちは楽だ。
 だけど、自分のせいではなく、他人のせいで壊れてしまったものは──それが、本当に物だとしても、恋愛のように目に見えないものだとしても──なかなか諦めきれず、結局は長く引きずることになってしまうのだ。
 『人の為と書いて《偽(いつわり)》と読む』
 格言でもなんでもない、単なる漢字のつくりであるけれど、これは前田の好きな言葉の一つだ。
 誰のせいでも誰の為でもなく、決めるのは自分。
 それが、自分の生き方ではあるけれど、他人に強要できるものではない。
 ──後悔しなけりゃ、いいけどね。……多分、無理だけど。
 ちょっと離れたダイニングキッチンのカウンターで、ワインのボトルを着々と空に近づけつつ、前田はそんなことを考えていた。

☆   ☆   ☆

「瑞恵っ」
 村上は、自分の書斎に飛び込むと、パソコンでネットサーフィンをしていた妻の名を叫んだ。
 柴田と別れ、家族を取ると決めて丸一日。
 村上は、ひどい胃痛に悩まされていた。
 食い過ぎた訳でもなく、飲み過ぎた訳でもない。
 それが精神的ストレスからきていることは、まず間違いがない。
 しかし、原因が判っただけで、病気がなおるならば医者はいらないのだ。
 市販の薬は効かないし、食事も出来ない。
 今はまだ大丈夫だが、このままでは死んでしまう。
 それに、明日は学校がある。
 柴田に、弱った自分を絶対に見せるわけにはいかない。
 いつもと変わらずにいること。
 これが、村上が柴田にしてやれる最後のことだ。
 そんな思いから、村上は休日診療の病院に出向くことにし、リビングのローボードの中から、保険証を探していた。
 いつも1番上の引き出しに入っている筈のそれが、何故か2段目に入っていたのはいい。
 だが、なんで保険証の下から、母子手帳が出てくるのかが判らない。
 一瞬、達弥の時のものかと思ったが、その真新しさと中身が、それを否定した。
「何? 達弥が遊びに行ってる時くらいゆっくりさせてよ。これからもっと大変になるんだから」
 邪魔しないでよと言わんばかりに、嫌な顔して振り返った妻に村上は詰め寄る。
「なんで、母子手帳がここにあるんだっ」
「昨日言ったでしょ。子供が出来たって。あって当たり前じゃないの」
「昨日は土曜日だ。母子手帳の交付がうけられる筈がない。……つーか、お前、本当に病院行ったのか? 病院なんて大抵午後は休診だろうが」
「言いたいことはそれだけ?」
 瑞恵の表情は変わらない。
 ただ、視線だけが冷たくなってゆく。
 村上は背筋が寒くなるのを感じた。
「本当に子供がいるのか?」
「いるわよ」
 瑞恵の返答はあくまでも、冷静だ。
 だが、村上は訳が解らない。
 瑞恵の妊娠は狂言だった筈だ。
 それなのに、何故本当に子供がいる。
「どうして……」
「どうして? あははっ、笑っちゃうわね。続く言葉は何? 俺はヤってないのに、どうして妊娠してるんだ? それとも、どうして妊娠が解ったのが昨日だなんて嘘をついた?」
「………」
 瑞恵の切り返しに、村上は無言になる。
 そんな村上を見て、瑞恵は鮮やかに微笑んだ。
「まあ、どっちでもいいわ。意外と早くバレちゃたわね。もう少し、悩ませてやろうかと思ったんだけど。言っておくけど、先に私を裏切ったのはあなたよ。自分のことで精一杯で私が変わったことに気づきもしなかったんでしょ。すぐに気付いてくれていれば、少なくてもこんなことにはならなかったわ」
「相手は誰だ?」
「あなたは知る必要がないわ。それともあなた、私に自分の相手が誰が聞かれたいの? 正直に話してくれるなら、私もこの子が誰の子かあなたに教えてあげるわ。いいって言うなら私は聞くわよ。真面目に考えて、本当に、あなたの浮気──いえ、あなたのことだから、多分本気なんでしょうけど、相手の名前を私に白状する勇気があるのか。言える? 言えるもんなら言ってみなさいよっ」
 ダンッと机を叩いて瑞恵が立ち上がる。
 村上は確信した。
 瑞恵は自分の相手が柴田ではないかと疑っている。
 そして、彼女がそれだけは決して認めたくないと思っていることも解った。
 女として他の女に自分の亭主を取られることでも、充分に屈辱だろうに、ましてや相手が男だったら。
 その苦痛は村上に想像もつかない。
 だから、嘘をつく。
「大学時代の元カノだ。柴田と釣りに行った帰りにばったり出逢ってな。悪いのは全部俺だ。なんでちゃんと見張ってなかっただなんて、奴に筋違いな恨み持つなよ」
「筋違い……ならいいんだけど」
「何がいいって?」
「ううん、何ともない。それならそれでいいわ。相手が誰でも結果は決まってるもの」
「なんの結果だよ」
「あのね〜、私だって本気じゃないのに、相手の子供妊娠するほど間抜けじゃないの。相手は達弥と同じの幼稚園に通ってる女の子のお父さんよ。お互い相談に乗りあってる内に……ってやつ。正式にプロポーズされたわ。別れてくれるわね」
「……俺に嫌だという権利はないだろ。……達弥は?」
「もちろん、私が引き取るわ。向こうもそれで納得してるし。安心して。達弥の養育費はきちんと貰うし、面会も許してあげる。文句ないわね」
「……ありません」
「よろしい。男に二言はないわね」
「ああ」
 ──なんでこうなるんだ……
 と思いつつ、村上は瑞恵の言うことに頷くしかなかった。
 あんなに切ない思いをしながら、別れる決心をした柴田と自分って一体……。
 柴田を送っていった車の中で、これが最後と涙の味がするキスを交わしたふたりの決意は一体……。
 ぐるぐると昨日の出来事を回想しつつ、この予想外すぎる展開を飲み込みきれずにいる村上の耳に、瑞恵の明るい声が届く。
「良かった〜、あなたが問いただしてくれて。実は、いつ話を切り出そうかって悩んでたのよ。おかげで、自分に有利に話を進められたわ。日頃の行い良くしておくもんね〜」
「………」
 この切り替えの早さは、確実に瑞恵の長所だとは思う。
 たまに、しみじみとそんな瑞恵が羨ましいと思うこともある。が、自分がそうなりたいかというと、決してなりたくはない村上であった。
 ため息をつきつつ、思わずにはいられない。
 ──これって、どうよ?

☆   ☆   ☆

「それで、なんでこーゆーことになっちゃう訳」
 村上が瑞恵と別れて3ヶ月後。
 村上は前田の勤める編集部近くの喫茶店で、彼女とお茶を飲んでいた。
 空港から自宅に戻るところだった村上が、休日にも出勤しなくてはならない、お忙しい女編集者に呼び出されたからだ。
 理由は聞かずとも解る。
 昨日、柴田が前田にかけた電話のせいだろう。
「子供が出来ていたので妻をとりました。それが間違いだって解って彼女にも彼氏がいたから、はい、ヨリを戻しましょうって訳にはいかんだろうが」
「戻せばいいじゃない。仮にすぐには戻せないにしても、柴田くんを留学させる必要はないでしょ。しかも1年間も」
 村上の返答に、前田はシナモンスティックで紅茶をぐるぐるとかき混ぜながら、不満そうな顔で彼をにらみ付ける。
「留学は柴田が自分で決めたんだ。俺が行かせた訳じゃない」
「たとえそうだとしても、どうして素直に行かせちゃうのよ」
「本人が行きたいって言ってて、選考試験にも余裕でパスする生徒の留学をやめさせる教師が何処に居るってんだよ」
「そういう問題じゃないでしょ。そんな教師としての一般論聞いてんじゃないわよ」
「まあ、そう言うな。俺も柴田も考えてのことなんだから」
「何をよ」
「結局、俺たちって周りの状況に振り回されてばっかじゃん。今になって思えば背徳的で、ちょっとロミオとジュリエットっぽい雰囲気に流されてただけって気もするし」
「あのね〜」
「解ってるって。どんな状況で出逢ったとしても、ああなったってことはさ。だから離れてみることにした」
「それって……」
「そう、こんだけ離れてて、それでもお互い好きでいられれば、本物だろ。俺はともかく、柴田にとっての1年はまだ長いだろうからな。新しい環境に慣れるのも大変だろう。俺のこと思いだす暇もないかもしれない。でも、それでも、1年後柴田が俺を好きだと言ってくれるなら……」
「言ってくれるなら?」
「俺は、もう、何があっても柴田を離さない。たとえ、後で柴田が別れたい言い出したとしても、今回の離婚みたいにあっさり了承なんてしてやらない。あっさりどころか絶対に別れてなんてやらないさ。どうだ? 俺って恐ろしいだろ」
 村上の言葉に、前田はあからさまなため息をついてみせた。
「……っていうか、あたしはあなたにそこまで言わせる柴田くんの魅力が恐ろしいわ。あ〜、アホくさっ。忙しい中抜け出して元カレのノロケ聞かされてるあたしって、ばか丸出しじゃないのよ」
「どうしても聞かせろって、俺をここに呼びだしたのはお前だろうが」
「だから、ばからしいって言ってるのよ。気の毒だと思ったら、柴田くんとどんな風にHしてたか、あたしに包み隠さず離しなさい」
「……真っ昼間からそんな発言できるお前に、どうやって同情しろと?」
「どうやってもよ。って頑張りたいところだけど、残念ながら今日は時間がないんだな、これが。あたし、もう行くから。今度、飲みにでも誘いなさいよ」
 呼び出したのは自分だからと、伝票を掴んで去る前田の背中を見送りながら、村上は苦笑した。
 『誘ってね』ではなく『誘いなさいよ』と命令形で話す前田に、いつまで経っても変わらないなという感想を抱いたからだ。
 変わることも大変だけれど、変わらずにいるのは、ある意味変わってしまうことより難しい。
 ──さてさて、俺たちも前田淑子に挑戦だ。
 村上は、今頃、空の上にいる柴田に向かって心の中で呟くと、車のキーを取り上げた。
 既に柴田の住む部屋が確保されている、彼を待つために引っ越した部屋へと帰るために──

FIN

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