これってどうよ?(13)
「……そうか」 酒を飲んだわけでも、悪い物を食べた訳でもないのに、こみ上げてくる嘔吐感に耐えながら、村上はようやくそれだけ答えた。 なによそれだけ、と電話の向こうの瑞恵が不満気な声を上げるが、今の村上は、自分の素っ気ない返答を取り繕うことさえできなかった。 とにかく話は帰ってから聞くからと、電話を切った後、村上は文字通り頭を抱えた。 どうしたのかと訝しがる柴田や前田に対し、大丈夫なふりをすることも、事情を話すことも、今は出来そうにない。 ──最悪のタイミングだ…… 村上は唇をかみしめた。 何故、昨日でも明日でもなく、今日なのだろう。 何故、ここに来る前でも帰った後でもなく、今なのだろう。 柴田が傍らに居て、村上が困難であろう道筋を歩んでいこうと決めた今。 現状を守り抜く為の女の勘としか言いようのないタイミングで瑞恵は電話をよこした。 新しい命の誕生を喜ぶことのできない、最低な自分がここにいる。 昨日だったら、自分の決心を言葉にして、口に乗せるまえだったならば、とまどいながらも、新しい命の誕生を──少なくともそのことだけは──喜ぶことが出来ただろう。 これが神の定めた運命だと、柴田よりも家族をとる決心ができただろう。 たとえ、柴田にどんなに恨まれたとしても──いや、敢えて憎まれるために──物珍しさからちょっと浮気をしてみただけだと、彼を切って捨てただろう。 自分が和泉澤を去らなくてはならない事態に発展したとしても、それはそれ。 自業自得だと諦めることが出来ただろう。 楽しくて、意外な自分を知ることができた、短い蜜月を心の奥にしまって、それを支えに生きてゆけたと思う。 時に、その想い出が小さな胸の痛みを呼び起こすことがあったとしても。 大人である村上は、知りたくはなかったけれど、知ってしまった。 どんなに愛している相手であっても、会わずにいれば心がいつか平穏を取り戻すことを。 その時は、柴田が口をつぐんでいてくれたとしても、村上は和泉澤を離れたと思う。 そうしなければ、村上にとっても柴田にとっても辛い時間が長く続いてしまうから。 とはいえ、自分自身でも今までつき合った相手とは好きのレヴェルが違うと感じる柴田のことを、こんな型どおりの方法で本当に忘れられるのかという部分に、多少の不安はあるけれど。 そして、これが、自宅に帰った後ならば、告げられる事実は同じでも、それでも村上は柴田をとった。 多分──というか確実に、自分は前田の部屋を出た瞬間、柴田を抱きしめただろう。 いつどこからこのマンションの住人が現れるかもしれない危険性をも省みず、はやる気持ちを抑えきれずにそのまま彼に口づけただろう。 気付かぬうちにすれ違っていた気持ちの隙間を埋めたくて。そのまま柴田を帰しはしない、いや、帰せない。 いい歳なのにがっついているだとか、配慮が足りないといくら思われてもいい。 自分が柴田と別れようと思っているだなんて、二度とは思えないように、抱きしめてて、触って、キスして、更に身体の中からも思い知らせてやる。 そして、身体中に自分の物であるという印を刻んでやるのだ。 それはもう、朝までかけて。 そう、村上は今夜自宅に帰る気はなかった。 結婚してから初めての無断外泊。 それが、辛い道のりへの第一歩となる。 まずは、無断外泊という事実をつきつけて、離婚を切り出す。 その時、村上の左手薬指にプラチナリングはもうない筈だ。 最初、柴田を牽制しようと思った時同様、相変わらず自分の考え方は卑怯だとも思う。 しかし、今更それを反省したところでどうなるものでもないし、相手にとっていい人のままでいたいと望む方が、よっぽど自分勝手。 どんなに罵られても、泣かれても、たとえすがられたとしたって、自分は鬼になる。 そんな決意を、今夜、新たにできる筈だった。 それなのに── 何故その事実を知るのが、寄りによって今なのだろう。 ☆ ☆ ☆ 人の顔色が見る見る青くなっていく様というのを、柴田は初めて見た。それだけでも村上にとって、何か衝撃的なことが起こったのだということが予想できるのに、その上彼は電話を切った直後に頭を抱えた。 更に、柴田と前田が話しかけても全く反応しないのだ。 自宅からの電話でこんなにも動揺できることなんて、柴田には火事くらいしか思いつかないが、村上の『そうか』という返答と、慌てて帰宅しないという行動が、それを否定していた。 それが、火事ではなく事故や災害だったとしても、答えは同じだ。 ──だったら何? 緊急を要せず、頭を抱えるような事態というのが、柴田には想像できない。 だけど、その解らない何かが、村上に相当なショックを与えたことだけは見て取れる。 ──まさか、俺たちの関係がバレたとか? 村上とつき合っていることが恥ずかしいとは思わないが、敢えて町中に宣伝して歩きたいとは、さしもの柴田も思えない。 数年後にはどうなっているかは知らないが、現在の柴田は一応酒屋の看板息子なのである。 村上との関係がバレることで、自分が何を言われようとそれが自分で選んだ道なのだからかまいましない。 しかし、親兄弟が絡んでくるとなれば話は別だ。 柴田の自宅は客商売で、姉は嫁入り前なのだ。 きちんと話せば解ってくれる身内ではあると思うけれど、自分のために迷惑は掛けたくないと思う。 とはいえ、ならなければいいと思うだけで、たとえそうなったとしても、今の自分がそれを理由に村上と別れることはないだろう。 でも、それはきっと正解ではない。 自分たちの関係が村上の家族にバレることは、離婚に手助けなることがあっても邪魔になることは思えないから。 もし、電話の内容がそれならば、苦々しい表情はしたとしても、村上は頭を抱えることまではしないだろう。 ──先生、早く顔あげてよ。 柴田は村上をじっと見つめる。 理由は解らないながらも、村上の様子は柴田の不安をあおる。 一刻も早く顔をあげて「いやぁ〜、瑞恵に今度は毛皮のコート買われちゃったよ」と苦笑しながら言って欲しい。 ……これが、そんなオチのある話であることなど、まずないだろうけど。 ☆ ☆ ☆ 「孝久っ、しっかりしなさい」柴田と違って、前田は村上にいつまでも頭を抱えさせてはおかなかった。 彼の襟首をつかみ、強引に頭を上げさせ、それでもまだうつろな目をしている村上を思い切りよく揺さぶったのだ。 「何があったのよ。取りあえず、それだけ教えて。じゃないとこの子にチューするわよっ!」 言い放ったかと思うと、今度は柴田の腕を掴んで自分の方に引き寄せる。 突然引っ張られた柴田も驚いたが、村上も驚いた。 頭で考えるよりも先に、身体が反応して前田から柴田を取り返す。 「何、考えてんだよお前っ」 「そりゃあ、こっちの台詞よ。電話切ったかと思うといきなり頭抱えてだんまり。あたしはともかく、柴田くんにこんな不安な顔させといて、なんて言いぐさよっ」 「あっ」 前田の言葉に村上は自分が今、究極の選択の途中であったことを思い出す。 それなのに、思わず前田から柴田を取り返している自分って奴は……。 ああ、もう──というか、先刻からずっと──どうしていいか解らないと、村上は再び頭を抱えたくなった。 しかし、前田がそんなことを許す筈もない。 「あっ、じゃないわよ。この間抜け。何言われたんだか知らないけど、今更それを柴田くんに隠してどうなるの」 「いや……でも」 「デモもストもないっ。あたしが居ない方がいいってんなら、席外してあげるから、柴田くんにはきちんと話しなさい。いいわねっ!」 言うやいなや、部屋を出てゆこうとした前田を村上は慌てて引き留める。 どうせ、言わなければならないことなら、前田が居てくれた方がまだマシと判断した結果だ。 そして、その判断は、ものすごく正しかった。 ☆ ☆ ☆ 村上が、解った話すからお前も居てくれと、前田を引き留めてから既に3分。村上はなかなか口を開くことができなかった。 「た〜か〜ひ〜さ〜。いい加減にしなさいよ」 だが、前田にとてつもなく恐ろしい声で凄まれたことをきっかけに、村上はようやく重い口を開いた。 「……できたって」 「何が!」 「……子供、2人目。今3ヶ月らしい」 「はぁ〜? 何言ってるの、孝久」 村上の言葉に、前田が素っ頓狂な声をあげる。 だが、柴田は口を開けたまま、声を発することさえできなかった。 なんだか、色々なことがショックで。 それは、これでもう村上が妻と別れることが出来ないかもしれないといった類に関するショックではない。 冷静に考えれば夫婦なのだから、そういうことがあってしかるべきなのだが、村上が瑞恵を抱いていたことがショックだったのだ。 しかも、妊娠3ヶ月というからには、自分と関係を持った後に。 家族に嫉妬しならがも、村上が抱いているのは自分だけだと思っていたなんて、自分はなんておめでたいのだろう。 知らず知らずの内に、自分の身体が小刻みにふるえているのがわかる。 夫婦というのは、セックスというのは本来そういうものなのだ。 子供── 逆立ちしたって、バク宙したって、柴田には子供なんて産めやしない。 「柴田くん、下らないこと考えるんじゃないわよ。セックスってのは子供を作る為だけにするもんじゃないの。愛を確認するための一つの方法なの」 震える柴田を見て、目の前の少年が何を考えているのかを感じ取った──伊達に、その手の本を読みあさってはいないのだ──前田は彼に向かって言い放つ。 「それに孝久っ!」 そうしておいて、今度は村上に向かって呼びかける。 「冷静になりなさい。あなた、柴田くんとそういう関係になってから、奥さんと寝たの? あたしの知る限り、あんたって意外と身持ちの堅い奴だったと思うけど」 「へっ?」 前田に問われ、村上は目をしばたかせた。 言われてみれば、ここしばらく寝ていない。 少なくとも、柴田と関係を持ってからは。 柴田と関係を持って、既に半年。 それなのに、瑞恵は妊娠3ヶ月。 「あれっ?」 なんとなく、自分の妻が自分の子供を妊娠するのは当たり前だと思っていたが、原因がなければ結果もないのだ。 動揺のあまり、そんなことさえ忘れていた。 仮にも生物教師だというのに。 「あれっ、じゃないわよ、あれっじゃ。実際どうなのよっ」 「いや、言われてみれば……」 「言われる前に気付きなさい、この間抜けっ!」 まったくもって彼女の言うとおりである── |