風折迅樹の極々平凡な1日(前編)
『迅樹様。朝でございます』 とある木曜日。 子供の頃から聞き慣れた執事の声に起こされ、風折迅樹はベッドの中でゆっくりと伸びをした。 だが、ここは風折の実家ではない。 もしも、実家にいるならば、この後に同じ声が『朝食はどちらでお取りになりますか』から始まって、コーヒーか紅茶か、オレンジジュースかグレープフルーツジュースか、普通のトーストかクロワッサンかはたまたフレンチトーストか、卵はスクランブルかオムレツかフライドエッグかボイルドかそうでなければ温泉たまごか──と、一般人ならば、途中で『ええかげんにせいっちゅーねんっ!』と絶叫したくなるくらい、細かに朝食のオーダーを尋ねてくる筈だ。 そう、ここは和泉澤学園第一寮の風折の寝室。 では、何故そこで執事の声が聞こえるか。 それには、風折と当の執事以外は絶対に知ることのない、呆れた理由がある。 幼い頃から、そうやって起こされ続けた風折は、目覚ましの電子音であろうが、携帯の着メロであろうが、高級なオルゴールの音であろうが、彼以外の声で起こされると、なんだか一日中調子が悪いのだ。 かくして、この寮に入ってから僅か3日後に、風折は留守電と同じ要領で人の声が録音できるという目覚まし時計を購入し、執事に冒頭の台詞を吹き込ませ、以後、その声で起きているのだ。 あざとくて、とてつもなく神経が太いように思える彼だが、やはりお坊っちゃまというのは、変なところでデリケートに出来ている模様である。 執事の声が3度目に自分の名前を呼んだところで、風折はゆっくりと起きあがり目覚ましを止めた。 その足で洗面所に向かい、歯を磨いてから、顔を洗って髭を剃り、最後に髪を整える。 そうしたところで寝室に取って返し、クリーニングしたてのYシャツと制服を着込めば、生徒会長風折迅樹のいっちょ上がりだ。 そして、以前ならば、ダイニングキッチンでトーストとコーヒーを取りながら3紙取っている新聞を隅から隅まで読み、時間が来たら学校に向かうという風折の生活パターンは、ここ半年ばかりで激変していた。 制服に着替えはするものの、ブレザーには腕を通さず、更にはYシャツの袖をまくりながらダイニングキッチンに向かい、冷蔵庫の横に掛けてあるエプロンを首からかけ、頭と内臓を取って前の晩に水につけてあった煮干し入りの鍋を火にかける。 アジの開きを魚焼きグリルに突っ込んで、冷蔵庫から、これも昨夜のうちにとってあった鰹出汁と卵を取り出す。 卵をボールに割り入れて、ある程度撹拌できたところで、その出汁と薄口しょうゆ、更に砂糖じゃなくてみりんを加え、更にかき混ぜて卵液は準備OK。 最初は整形するのに難儀した厚焼き卵も、コツを掴んだ今では簡単に作ることができる。 風折は、慣れた手つきで卵を美しく巻き上げると、ガスを極々弱火にした。 このまま、じっくり火を通せば、卵がふっくらと膨らんでくれる。 その間に、煮干しでとった出汁をこし、味噌をとかす。具はオーソドックスに豆腐とわかめ。 煮立たせないように気をつけながら、いい具合に焼き上がった卵焼きをカット。 みそ汁の火を止め、アジをグリルから取りだし、冷蔵庫から文字通り出汁に浸してあったほうれん草のお浸しを取り出せば、一汁三菜の基本を守った、日本の朝ご飯のできあがりだ。 エプロンを外し、ほかほかと湯気を立てる食卓に背を向けて、涼を起こしに向かう。 朝ご飯には、どうしても米の飯とみそ汁、更には焼き魚がなくては食べた気がしないという涼の為に、現在、風折の朝の風景はこんな感じだ。 今時、新妻でさえここまではしないのではないかと思う程の尽くしっぷりである。 そして、風折が涼を起こす台詞でさえも、まるで新妻のようだった。 涼の部屋のドアを開け、枕を抱き込んで寝ている彼の肩に手を置き、そっと身体を揺らす。 「涼、朝だよ起きて。朝ご飯できてるよ。今日はおみそ汁がとってもいい出来なんだ」 ☆ ☆ ☆ ──まだ5月末だってのに、なんでこんなに暑いんだ。その日の3時間目。 風折は、基礎解析IIの授業を受けながら、眉をひそめて窓の外を眺めていた。 梅雨入りの前に、思いっきり自分の存在を示しておこうと言わんばかりにギラギラと光る太陽は、外気温を既に30度以上に上昇させていた。 ──今日の体育授業、マラソンだったよな…… と、眉を寄せる風折が心配しているのは、自分が受ける授業のことではない。 今頃、二次関数のグラフを四苦八苦しながら書いているであろう涼が、次の時間に受ける授業のことである。 ──こんな日に外でマラソンなんかやって、涼が日射病や熱射病になったらどうしてくれるんだ! 風折は、イライラとシャープペンシルを回した。 教師陣が既に諦めてしまっているのか、和泉澤には球技大会ぐらいしかスポーツ関係の行事はないが、涼の通っている学校は春の陸上記録会から始まって、来週行われるクラス対抗マラソン大会、夏の水泳大会、秋の耐久遠足、冬の球技大会、新春格技大会と、やたらと体力勝負の行事がある。 しかもマラソン大会ときたら、当日欠席しようとも、生徒全員が女子5キロ、男子10キロのコースを1時間以内で走りきれるまで延々と再レースが行われるのだそうだ。 さすがに走れない持病がある生徒はレースを免除されるらしいが、その為には医師の診断書を取った上に、マラソンに関するレポートを提出しなければならないという話を聞いて、風折はあきれ果てた。 なぜ、そこまでして生徒を走らせたい──と。 まあ、それくらいしないとマラソン大会をサボる生徒が続出するというのが、そうする理由だろうが、そもそもそこまでしてマラソン大会を開催したい理由がわからない。 ──つーか、そんなに生徒を走らせたいなら、せめて時期を選べ。春先だとか秋口だとか、走りやすい時季ってものがあるだろうが、時季ってものが。 とまあ、風折が外を眺めながら涼のこととか涼のこととか涼のこととかを考えていると、ふいに教師が彼の名を呼んだ。 「風折、田原、長山、大野、鈴木。前に出て164ページの例題解け」 この教師が授業に集中していない人間をわざと前に出させて問題を解かせるのはいつものことだ。 わざわざ前で難問を解かせ、出来ないのを見越した上で「授業を真面目に聞いていないからこうなる」とねちねちと説教をするために。 風折としては、彼のこのやり口がどうも気に入らない。 授業に集中していないことを叱りたいのならばそうすればいいのに、わざわざこんな感じの悪い方法を取るから、出した問題を解かれてしまうと口を噤むしかなくなるのだ。 今までに3度ばかり、そんな状況を目撃したことのある風折は、本日彼を思い知らせてやることにした。 だからこそ、普段は涼のことを考えつつも、一応授業に集中している風を装っているのだが、今回はわざとぼんやり外を眺めていた。 そして、風折と同時に名前を挙げられた生徒達の目的も同じだ。 もちろん、授業が始まる前に風折が彼らにそうするように耳打ちし、出されそうな問題の解答をコピーして配ったからだ。 斯くして、いつものように生意気なガキに嫌味をくれてやり、秘かにストレスを解消しようしていた教師は、指名した全員にスラスラと問題をとかれてしまい、「よく出来た」と言うしかなくて、却ってストレスをため込むこととなる。 地味に自分の憂さを晴しつつ人気も稼ぐ、例によって抜かりのない風折迅樹であった。 2004.11.11
※はい、涼のこととか涼のこととか涼のこととかを考えている風折です。 |