「う…嘘…だろ」 美形の若手演歌歌手に似ていると良く言われる風貌の持ち主の彼──大友直海(おおとも・なおみ)は、目の前に広がる光景に呆然と立ちすくんだ。 現在の彼は、ポケットの中に財布と携帯電話を突っ込んでいるのみで、手に鞄の類を持っていないが、もし持っていたならば、それが路上に転がったことは、まず間違いがない状態だ。 友人宅でやけ酒をかっくらい、酔っぱらって朝帰りした今時の学生が陥る困った状況。 同棲している彼女に閉め出されただとか、同居人が彼女を連れ込んでいて玄関より先に進めないだとか、普通に鍵を落としただとか、そんな状況は多々あれど、帰るべき家がいきなりなくなっているというのは、あまりない。 たった一つの理由を除いては。 言うまでもなく、それは火事っていうやつだ。 大友の住む──というか、住んでいた──部屋は、木造二階建てアパートの2階の角部屋。 6帖ワンルームユニットバス付、家賃5万3千円、築10年。贅沢を言えばキリはないけれど、まあそこそこに満足していたその部屋は、現在姿形もなかった。 部屋がというよりも、アパート自体が原型をとどめていない。 保険会社も渋ることなく、全焼扱いで保険金を支払うだろうといった状態で、ある意味綺麗さっぱり焼け落ちていた。 よくもまあ、近所の建物に燃え移ることなく、壁を黒くする程度で済んだものだと感心するくらいに。 「あっ、あはは……」 ──人間、あまりにも途方にくれると笑っちゃうってホントなんだな。 大友はそんな、決して積極的に知りたくはなかった実感をかみしめながら、自分の状況を呪った。 昨夜までは、今以上に最悪の状況があるだなんて、思いもよらなかったが、それは間違いだったとたった今撤回する。人生で最悪なのは、確実に今だ。 大人だけど家無き子。 自ら望んでホームレスになったというのでもなければ、これはかなり切ない。 ヒュルルル〜。 現実にも心の中にも北風が吹き荒れて、大友はブルルと身震いした。ついでに大きなくしゃみもひとつ。 そのくしゃみで、大友は我に返った。このままここに立ちつくしていたところでどうなるものでもない。 取りあえず、現状を把握すべく、大友は近所に住む大家宅へと向かった。 ☆ ☆ ☆ 大家の話によると、アパートが燃えたのは昨夜10時過ぎだったらしい。火元は大友の下の部屋で、原因は煙草の火の不始末。積もり積もった灰皿にきちんと火を消さないまま、煙草を突っ込んで住人が外出したとのこと。 携帯をバイブにしたまま上着のポケットに入れっぱなしにしていた大友は最後まで連絡がとれず、この少々おせっかいではあるが気のいい大家さんに大いに心配をかけたらしい。 帰省やら旅行やらで、昨夜はアパートに殆ど人がおらず、死亡者や怪我人が出なかったのは不幸中の幸いと言えるだろう。 が。 不幸中の幸いというのは、あくまでも不幸中なのである。 事情が解ったところで、その不幸にちっとも変わりはないのだ。 結局、大友は帰ってきたばかりの友人宅にとって返し、すり減った畳を更にすり減らしそうな勢いで、床に頭をこすりつけ、取りあえずの寝場所を確保するはめになった。 別にそこまでしなくていいと、友人は大いに同情してくれた。とはいえ、未来永劫ここにいられる筈もない。 大学4年の2月という今頃をもってして、未だ就職の決まっていない大友とは違い、高等部で同じクラスになってからずっと親しくつきあっているこの友人は、来月末から就職する会社の社員寮に入ることが決まっている。 部屋がなくなるだなんて思っていなかった昨日の夜、大友は友人とやけ酒を飲みながら、最悪フリーターでもいいやという結論に達していた。 この不景気下、いくら名門和泉澤出身といえども、就職は厳しい。 流石に書類選考で落とされることはなかったものの、面接を受けては『ご縁が無かったということで』と言われ続け、昨日、かなり妥協して受けた会社──この時期に募集を出している時点で大したことない会社なのは証明されている──にまで、同じことを言われた。 これ以上、就職試験を受け、再び落ちてしまったならば、自分が世の中で誰にも必要とされていない人間だと、他の誰でもなく自分が認めなければならなくなるかもしれない。 大友はそれが怖かった。 けれど、今はそんなことを怖がっている場合ではない。何がなんでも、就職を決めなくてはならない。 たとえ、その就職先がどんなに素性の怪しい会社だとしても。 そこまでするくらいなら実家に帰ればいいと人は言うだろうが、大友には大友の事情がある。 年の離れた兄貴が後を継ぎ、世代がすっかり若夫婦に移行してしまった煙草農家の実家に大友の居場所などない。 別に兄は大友のことを邪険にする訳ではなく、いよいよになったら帰って来いとは言ってくれるが、田舎の生活が嫌で、無理を言って和泉澤に進学させてもらったというのに、今更どの面を下げて帰れるというのだ。 それに、やっぱり田舎暮らしはしたくない。 3・3・4と計10年も便利な暮らしを体験してしまっては、歩いていける距離にコンビニがなく、車で15分程走ってやっとたどりつけるそれでさえ、午前1時には閉まってしまう所に自分が住めるとは思えない。 道に信号がないどころが、街灯さえ小学校の周りにしかなくて、娯楽が近所の人間の噂話。 誰がどこで何をしていたという会話が繰り返される地元に帰るだなんて、部屋がなくなり、警察に摘発されそうな会社に就職するよりもぞっとする。 更に、大友よりも2年早く社会人になった彼女にも、こっちに残らないのなら別れると宣告されてしまっている。 一緒にいなけりゃ、愛なんて冷めるものだし、いつかその人のこと自体忘れるもんよ、と言い放つ彼女は、それでも自分のことを心配してくれているのだと、大友は良く知っている。 就職に限らず何をするにも、他人の為ではなく、自分の為にするのだということは解ってはいるが、彼女の為にこちらに残りたいと切に思う。 そんな風に決意を新たにし、くじけてしまわないようにと、目の前の友人に宣言した時、大友に向かって彼は言った。 「そこまで決心してんなら、例のアレ受けろよ。受かると同時にもれなく住むところもついてくるぜ」 「…………」 こんなにも追いつめられた状況の大友さえもが、受けるのを躊躇する例のアレ。 それは、昨年の春先からずっと、就職相談室の掲示板に募集が貼られ続けており、条件的にも決して悪くはないにもかかわらず、この不景気下に申込者が一人も出なかったものである。 その就職先とは── 和泉澤学園高等部第2寮、寮監室。 ☆ ☆ ☆ 何も知らない人間は、大自然に憧れて割と簡単に牧場で働きたいと思えたりする。農家の息子のところに嫁に行けたりもする。現実を知らないからだ。しかしながら、現実を知っている農家の子供は決してそんなことは望まない。 それが、どれだけ大変なことであるか、身をもって経験しているからだ。 和泉澤学園の出身者にとって、寮監になるというのは、気分的にこんな感じが一番近い。 教員としてだけならばともかく、寮監として戻るとなると、かなりの覚悟が必要とされるのだ。 なぜなら、寮という閉鎖された空間にすし詰めにされた男子高校生が何をやらかすか、全て想像がつく──というより、自分もやらかした──からである。 休日前、皆が寝静まった頃を見計らい酒盛りを始める。まあ、ここまでは好奇心旺盛な高校生なら仕方ないと言える。だが、年に1〜2人は急性アルコールでぶっ倒れる奴が出る。 あと、完全に火の消えていない煙草が入った灰皿を慌てて机の引き出しに突っ込みボヤを出す者。 無理だと解っているのに夜中に抜け出そうとしてセキュリティシステムのアラームを鳴らす奴。 ふざけていて消火器を倒し廊下を真っ白にする奴。 給湯室以外は火気厳禁となっている筈の寮内に、ホットプレートを持ち込み焼肉をする奴。 それでもホットプレートならばまだましだ。大友の先輩には七輪を持ち込んで炭火をおこした強者までいる。 校則の甘い和泉澤学園において、生徒がくらう停学は殆どが、校則ではなく寮則を破ってのものだ。 その中の90%が喫煙によるもので、残りの10%が通称『宴会停学』と呼ばれる飲酒及び懲りずに何故か年に1回は誰かがやらかす焼肉絡みのものと、同じく通称『麻雀停学』と呼ばれる賭け麻雀によるものだ。 持ち込みが禁止されているとはいえ、談話室のテレビは3年生に占領され、更には携帯以外──大友が現役の頃はこれさえも禁止されていたが、親からの要求が多くて解禁されたらしい──の電化製品の持ち込みも一切禁止されている寮内には、暇を持てあましている生徒達がゴロゴロいるのだ。面子にはことかかない。 もちろん、次の日の昼飯を賭けてだったり、勝っても負けても現金が最高千円程度でしか動かないレートで行われているものならば、寮監も放っておく。 しかし、これも年に数回は調子に乗ってレートをあげて──といっても点0.1(テンイチ)程度だが──賭け麻雀をしたはいいが、負けがこんで停学覚悟で寮監に泣きついてくる奴が出てくる。 こうなれば連帯責任で寮内から少なくとも4人が3日間姿を消すのだ。 が、そうなっても、互いにしこりを残すことなく、4日目に寮に復帰するのが、学園生の気のいいところだ。それならば、仲間内で話し合えば停学をくらわずにすみそうなものだが、掛け金が払えないとは死んでも口にしたくないのが、男の子のささやかなプライドなのかもしれない。 とまあ、こんなことが日常的に行われている上に、相手が人間な以上、急病などで夜中に起こされることもしばしばだ。 もちろん、トータルでは何事もおきない日の方が多いのは事実だが、気の休まる暇がない。 更に、数年前まではその寮にいて、寮監に隠れて色々なことをしていた立場の学園卒業者は、なんだか仲間を裏切るような気がして自分がその立場になるのを嫌がるのだ。 寮監を兼任するという条件をのみ、どんな教科でもいいから高校の教員免許さえ持っていれば、この不景気下に確実に就職できるというのに。 加えて、その引継を行うのが、説教が長くて解りにくくて、常に聖書を小脇に抱えている神父となれば尚更だ。 残念ながら──授業は別として──彼に説教をされずに無事3年間を寮内で過ごせた人間は皆無である。 彼のあだ名はストレートにバイブル。カソリック系の学校である和泉澤学園には、聖書の授業があり、神父もいる。 考えてみれば、神父ほど寮監という仕事がふさわしい属性はそうはない。 人を正しい方向に導くのが仕事であり、結婚もしない。異性との──ついでに同性とも──交わりも禁止されている。 そりゃ、迷える子羊を救う為にいくらでも寮監室に詰めていろっていう感じである。 しかし、そのバイブルでさえ、よる年並みには勝てなかった。 体力的限界による寮監引退(あくまでも、寮監のみの引退)を申し出て、学園側もそれを了承した。 体力的限界──パワー溢れる高校生を相手にするのだから、これはもうどうしようもないことだ。 斯くして、大学部の就職相談室に件(くだん)の募集が張り出された訳である。 学園側としては、敬遠されることは解っていても、ある程度事情──当然だが、焼肉停学や麻雀停学の色物停学についての事情ではない、色は色でも色恋沙汰に関することだ──を知っており、少なくともそれが理由で退職することのない卒業生に寮監についてもらうことを望んだのだが、一度自由を知ってしまった大学生が、あんなところに出戻りたいと考える筈もなく、後任が決まらないまま現在に至っていたのである。 こうなったら、学園の独身教員全員にあみだくじでもひかせるかと、学園側がヤケになりかけていたところで、1本の電話が鳴った。 言うまでもなく、それは大友からのものである。 してやったり。問い合わせさえ入れば、もう学園側の思うつぼである。 就職を切に願いはするものの、いっそ落ちればすっきりするのにという大友だったが、試験は一切行われず、面接のみで彼の着任は決定した。 仮に採用されるのならば、火事で焼け出されているので1日でも早く引っ越したいという大友の申し出に、一風変わってはいるが、人を見る目だけは人一倍備わっている、まだ30台半ばの若すぎる和泉澤学園の理事長は告げる。 「じゃあ、明日から引継に入ってもらうということで、色々と物入でしょうから、準備金も渡しますね」 もしかして後から事務局に請求するのかもしれないが、どう見たって理事長個人の財布から取り出され、むき出しのまま大友に手渡された現金は丁度30万あった。 この瞬間、大友の身分は国語教員兼和泉澤学園第2寮寮監と相成った。 彼がこの先、出戻った寮内で、どんな体験をするのか── それはまた、別のお話。 |