「ちょ、大友先生ってば、聞いてる? せ〜んせい」 「ん? ──ああ」 目の前で手を振られ、ハッとした俺はどこか遠くを見ていた自分の視線を三角に戻した。 そこには、「ホントにどうしようもねぇな先生は」と言ってるみたいな三角の顔があり、俺は小さくため息をついた。 その小さなため息はサイズこそ小さいけれど、中にはみっしりと様々な思いが詰まっていて、普通のため息よりもずっと質量が高かった。 そう、吐き出した瞬間に床に落っこちてカタンと音を立てるんじゃないかと思う程に。 鉄100キロと綿100キロどっちが重い? だなんてひっかけクイズが昔あったけれど、鉄でも綿でも100キロは100キロだ。 ただ、両手で一抱えの綿よりも、片手の中に収まる鉄の方が重い場合がある、それが質量の違いってヤツ。 「ったく、感じ悪いなぁ。人の顔見てため息つくって、一体どういう了見よ。自分で言うのも何だけど、俺、そんなに見苦しい顔はしてない筈だぜ」 三角の言葉に、俺は今一度ため息を漏らした。 だが、今度のため息は三角の発言にあきれたために出たものだったから、大きくて軽い。 「自分で言わなくても他人が評価してくれる面を持ち合わせてるやつがそんなこと言うなよ。なあ、円谷。お前からも言ってやれ」 話を振られて、三角の横で俺たちのやりとりを傍観してた円谷が、やれやれと言わんばかりに肩をすくめた。 「他人から評価される顔の持ち主って点では、直海ちゃんも変わんないじゃん」 「お前なぁ……。せめて、俺の前だけでいいから大友先生と呼べよ。俺の威厳が地に落ちる程、お前の面倒が増えるだけなんだぞ」 俺の言葉に再び肩をすくめると、円谷は口調を改めた。 「人様から評価されるお顔の持ち主だという点では、大友先生は三角先輩といい勝負だと思いますが」 「誰が同じ台詞を言い直せって言ったよ。しかも、思ってもないことを」 俺の反論に円谷はしゃあしゃあと応えた。 「いえ、思ってますけど。先生、食堂のおばちゃんに大人気じゃないですか」 「そう。俺の場合は三角と違って、食堂のおばちゃんだけに大人気なんだよ。円谷、お前、彼女らにモテたいか?」 「いえ、出来れば霞ヶ丘の女生徒にモテたいです」 「だろ」 大まじめな顔で、こんな会話をしている俺たちが──円谷が望む恵まれた立場である──三角にとっては面白かったのだろう。口元を手で押さえて笑いをこらえた後、三角は口を開いた。 「そんな話、生徒相手に真顔でしてて、威厳も何もあったもんじゃないって先生。それこそ円谷の面倒が増える。人の耳なんてどこにあるか解ったもんじゃないんだぜ。現に──ほら」 言って、三角は食堂の入口を親指で差した。 その指に促されて、そちらに視線を投げると、TV番組の合間をぬって自販に飲み物を買いに来たらしい数人の生徒の姿が見て取れた。 「大層ためになるご忠告ありがとさん。ヤツらはともかく、食堂のおばちゃんに聞かれでもした日にゃ、それこそシャレになんねーしな」 「なんだよ。なんのかんのと言いつつ、直海ちゃん、食堂のおばちゃんにモテたいんじゃん」 「だから、大友先生と呼べ。ばかだな円谷。食堂のおばちゃんってのは、好かれるのも面倒だが、敵に回すともっと面倒なんだよ。さて、余談はここまでだ。三角には生徒会の引継って仕事もあるんだから、こっちの引継は今晩中に終わらせるぞ。三角、続けろ」 「了解」 俺の言葉を受けて、三角が制作者不明の寮長マニュアルなるもの片手に円谷への説明を再開する。 そう、俺の重たいため息の一番の理由はコレ。 三角定規が寮長ではなくなり、半年後──いや、正味四ヶ月後には、この寮から去ってしまうということなのである。 なんだか、すごく置いてけぼりにされる気分になるのは、一体どうしてなんだろう── ☆ ☆ ☆ 三角が選んだだけあって、円谷の寮長ぶりはなかなかのものだった。こいつが円谷だなんて怪獣映画のプロダクションみたいな名前じゃなくて、分度器──これを名前風に読み替えるのがちょっと無理だとしても──とかって名前だったら、三角定規の後釜として完璧だったのに、と、どうでもいいことを考えられる程度には。 もちろん、少々のアクシデントがなかったとは言わないが、2年の新寮長を3年が手こずらせるのは毎年のことだから、それは勘定の内だ──というより上出来すぎる。 平穏だからこそ、俺に余計なものを見たり、余計なことを考えたりしてしまう、それこそ余計な暇があるんだろうから。 なんつーか、こう……時々耐えようにない孤独感に襲われるみたいな? 集団の中で、俺だけ居場所がないみたいな? 仮にも国語教師のくせして『みたいな?』はないだろ、と自分でも思いはするものの、こんなこと真面目な文章で考えちゃったらいよいよへこむだろ、いよいよ。 いや、別に高校生の中に混ざりたい訳じゃくてさ──つーか、これ以上生徒と立場の差がなくなってもらっちゃいよいよ困る──えーと、その……アレだ。 いや、ほら、一応俺って彼女と別れたばっかりだし、ただ漠然と淋しいとか人恋しいとかなら、自分でもそれが当然とかって思えるんだけどさ、どうやらそういうんでもないみたいなのよ。 なんちゅうかかんちゅうか水中花──我ながらサブッ──じゃなくって……つまり、俺のこの淋しさはそういった漠然としたものじゃない訳。 例えばさ、同じ「彼女が欲しぃぃぃぃっ〜」って叫びでも、不特定多数の女性という種別を妄想しているのか、特定の個人をさしているかで、その意味合いって結構違ってくるだろ──要はそういうこと。 はいはい、回りくどいってか。ああ、俺もそう思うよ。ただ…ね。俺の中途半端な大人としてのプライドがこの現実を認めることを拒む訳よ。 百歩譲って、向こうの方がそう思うならまだしもだ。 だってだってだって、そうだろう! 20歳を過ぎた男が、どの面さげて、高校生にかまってもらえなくて、淋しいだなんて言える? ──いや、言っちゃったけど。 はいはい、そーですよ。俺ってば、寮長って役職を離れた三角にめっきりかまってもらえなくて、それがつまんないんですとも。 折角、三角が寮長も生徒会長も引退して気楽な立場になれたというのに、それを素直に喜んであげられない──最低の人間なんですとも。 そりゃ、こんなことを思うのは、自分でもどうかと思いはするけど、思うものは思うんだから仕方ない。 それにさ、生徒会長じゃなくなってからの三角の掌の返し具合ったら、とんでもないんだぜ。 君たちとは職務上だけのお付き合いでした。単なる個人になった今、俺は自分の付き合いたい人間とだけ付き合います。じゃ、そういうことで〜。と言わんばかりに、他人──というが、友達じゃない人間──にそっけなくなったんだから。 そりゃ、俺だって今までの三角が立場上、わざと友人を遠ざけてたのは知ってるし、残り少ない高校生活、気心の知れた相手と暢気に過ごしたい気持ちは解るけどさ。 今まで特に用事がなくても2日に一度は俺の部屋に顔出してたのに、いきなり1ヶ月近くも音沙汰がなくなっちゃ、俺じゃなくても思うだろ。 俺って、お前にとってウザいだけの取り巻きと同じ分類されてた訳?──って。 歳は離れてるけど、友達だと思ってたのに──って。 だったら、「俺に出会えて良かっただろ」だなんて、言わなきゃいいのに──って そう、俺が一番認めたくないのは、三角にかまって貰えないことを淋しいと思っていることじゃなく── 三角にとって俺は友達ではなかったということだ。 ☆ ☆ ☆ ──コンコン。明日の朝までに教科主任のチェックを受けなければならない指導案づくりの手を止めて、うだうだと女々しいことを考えていたら、部屋にノックの音が響き、俺は反射的に壁にかかった時計を見た。 ぼんやりと考え事をしている間に、思った以上に時間が経っていたらしく、既に時刻は10時半を回っている。 平日のこの時間、俺の部屋をノックできる人間はひとり──寮長の円谷である。 ここ、和泉澤学園第2寮の門限は10時。そして、寮長の点呼もその時間から開始される。 ただ、玄関に鍵がかけられるのは点呼の後なので、3年になると最小15分から最大30分までの門限破りが可能となる。 もちろん、寮則に記載されている門限は10時であるが、その程度の特権は見て見ぬふりで放置しておいた方が、先輩後輩間で変なトラブル起きない──というか、1年はジャージで廊下に出てはいけないだとか、1年は3年生のために給湯室までお湯を取りにいかなければならないみたいな変なルールが出来にくい。 同様に、TVのチャンネル権と寮内の自販で炭酸飲料を買ってもいい権があるもの3年生だけだが、これも黙認。 若いとはいえ日本人、1年生も年功序列な感覚は身に付けているらしく、パシリに使われるのでなければ、この程度のことで文句は出ない。 つーか、どうしてもTVが見たけりゃ携帯で見られて、寮内の自販でジュースが買える時代──俺がこの寮に居た頃は、携帯の持ち込みは禁止だったし、自販で買えるのは牛乳とコーヒー牛乳とフルーツ牛乳だけだった──に生きているこいつらの不便なんて、不便の内に入らないと俺は思う。 いや、今、そういう生活をしろと言われたら絶対に嫌だけど。 ──コンコン。 そんなことを考えながら、床一杯に散らかした資料の隙間をぬって、そろりそろりと歩いていると、もう一度ノックの音が響いた。 「はいはい、聞こえてるからちょっと待て」 声を張り上げながら、俺はやっとの思いで書籍障害を抜け、ドアを開けた。 「悪い、円谷。仕事中──」 開けたドアの向こう、いつもの位置に円谷の顔がなくて、俺は慌てて視線を上に向けた。 「えっ? 三角?」 「ええ、三角です」 ──ああ、三角が寮長だった時は、視線の角度はいつも、こうだったっけ…… たったひと月の間に、ドアを開けた時の視線の角度が変わる。 こんな、自分では気付かない程度の変化を積み重ねて、人は過去を忘れ、新しい日常に飲み込まれていくのか。 チリも積もれば山となるし、新聞紙も43回折れば月まで届く──そんな風に。 以前通りの三角の笑顔を見つめながら、こんな悲しいことを思った。 そんな思いを振り切って、俺は目の前の三角に問いかける。 「円谷は?」 俺の質問に、三角は肩をすくめた。 「円谷のやつ、先生には何も言っていかなかったんスか?」 「ああ、何も聞いてない」 「ったく、律儀なんだか慌て者なんだか……」 「何かあったのか?」 「ええ、点呼の途中に『アニ キトク スグ カエレ』ってな連絡が入ったらしいですよ。俺の所に点呼の代理頼みにきたんで、てっきり先生にも言ってったもんだと……多分、相当パニクってたんでしょうね」 「だろうな。押さえるところが全く逆だ」 「まあ、点呼の途中だったってのも、理由のひとつなんでしょうけど……ちょっと間抜けですね」 「間抜けすぎだ。しっかし、頼りにならん寮長だな」 「いや、あいつ、尊敬する人物は? って質問に兄って応える位にブラコンなんですよ。普段はその兄貴を目標としてるから、しっかりしてるんですけど……」 「ああ、その兄が危篤じゃな。病気だったのか?」 「いや、事故みたいっすね」 「そりゃ、慌てるなってのが無理な話か。OK、事情は解った。明日も円谷が帰らないようなら、点呼は俺がするよ。寮長代理ご苦労さん」 言って、俺がドアを閉めようとしたら、三角の右手がそれを阻んだ。 「ちょ、待ってよ。先生」 「なんだ? 何か他に問題あったのか」 「そーじゃなくて、円谷って、やっぱ、無断外泊扱いになんの?」 「はは、後輩思いだな三角。心配しなくても、俺はそこまで鬼じゃないって。じゃあ、お前も早く部屋に戻れよ」 と、玄関先での話を切り上げたにも関わらず、三角の右手はドアにかかったまま離れない。 「まだ、なんかあるのか?」 「今日は、なんだかんだと理由つけて上がってけって言わないの?」 「はっ?」 三角の言葉に、俺は固まった。 身体は固まりながらも、頭の中では『何、言ってんだコイツ?』という思いと『俺、そんなことしてた?』という疑問が、交互にかけめぐっている。 そんなプチパニック状態の俺の返事を待たず、三角は次の台詞を口に乗せた。 「それとも、先生の相談に乗るのは、もう円谷の役目だとか?」 ──いや、円谷は関係ないけど…… 「寮長じゃない俺には、もう用がないとか?」 ──いや、寮長か否かも関係ないけど…… 「先生、ちょっと冷たくない?」 ──それは、お前の方じゃないか。 「人前じゃさすがに言えないけど、友達だと思ってたのに」 ──それは、こっちの台詞だ! 「なあ、なんとか言えよ先生」 ──っていうか、お前…… 「なあ」 ──もしかして…… 「なあ、先生ってば」 ──ここひと月、音沙汰なかったのって…… 「せ〜んせいっ」 ──またしても、俺を悩ます作戦かっ! 「こら、直海っ。寝てんのか?」 「うるさいっ! 適当な理由が思いつかないだろ。少し、黙ってろ」 「……あのさぁ〜」 「だから、黙ってろって言っただろっ!」 「怒る理由がそっちな時点で、もう理由なんてなくてもいいだろ」 「お前はな。でも、俺にはいるんだ」 「はいはい。なら、理由は後で考えろよ。取りあえず中入れて」 いい加減、玄関先でのやりとりが嫌になったのだろう。三角は強引に俺の身体を押しのけて、部屋の中へと入ってきた。 三角の姿を追って、視線を室内に戻した俺は「あっ」と声を上げた。 何故って、惨状と表現するに不足ない、現在の部屋の状態のことを今の今まで忘れていたからだ。 「いや、これは……」 慌てて言い訳をしはじめた俺を振り返り、三角は意味ありげな笑みを浮かべた。 「理由、俺が考えてやるよ。寮長代理の三角はお忙しい大友先生に認印をもらう為に寮監室に入ったが、散らかった資料に足を取られて転び、しばらく気を失っていました──とかってどう?」 「それ、あまりにもあり得なさそな上に、無駄に長すぎ」 「確かに長いのは認めるけど、アリかナシかで言ったらアリだと思うよ。忘れたの? ココ、ダルマの落下事故で気絶者だした部屋だよ」 「……確かに」 「だろ」 上手にウインクをしてみせる三角の顔を眺めながら、俺は思った。 ──で、俺たちこれから、何を話す訳? |
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