「何時からなんだ?」
ガラスに向き合ったまま、達哉は横に立つパオフゥに尋ねた。
「お前さんが再来するちょっと前だ」
神妙な顔付きの二人は、白に囲まれた場所に立っている。漂う薬品の匂いが鼻につく場所。白く長い廊下に続くガラス窓の、その外で二人はガラスに向き合っていた。
「何故俺だと気付いた?」
「雰囲気がな、違うんだよ。お前さん、判ってないだろう? こっちとはかなり違うぜ」
「演技不足だった……というわけだな」
「そうらしいな」
達哉はゆっくりとパオフゥを振り返る。
「治る可能性はあるのか?」
「医者の話じゃ、五分五分だってよ。原因不明なんだ。日常生活にその兆しもなかったって、お前さんが来る前のお前さんが言ってたな」
「俺が……」
達哉は中空を睨む。
「他に俺は、何か言っていなかったか?」
「他に――か……」
パオフゥは胸元の内ポケットに手を突っ込んで、眉を潜めた。
「外に出ようや。ヘビーな老人には、清浄な空気なんざ似合わねぇ」
「……判った」
ガラスの向こうに今一度視線を向ける。
白く区切られた明るい光の中、たった一つ置かれたベッドの上に、克哉が人形を抱いて座っていた。
「……病院って奴は、腹黒さを自覚してる人間には居心地が悪くて仕方ねぇ」
「全体白で構成されているからか?」
「まぁな。ちょっとでも黒くすりゃ良いのによ。嫌でも自分の汚さ自覚しちまう」
達哉は肩を竦める。
「あんたの話は極端だな、何時も」
「そうかぁ? お前の境遇の方が極端だと思うけどな」
「否定はしない……けど、何故兄さんが……」
パオフゥは笑う。
「ほんっとにお前らは違うな。「兄さん」か……。こっちのは「兄貴」って呼んでいたな」
「そうなのか……」
パオフゥは煙草を取り出すと火を点け、一口大きく吸い込んだ。
上手そうに煙を吐くパオフゥの前には、シビアに表情が変わった達哉が立っている。
「さて、お前さんのさっきの質問の答えだが……。俺が現状に気付いたのは一週間前だ。お前さんは昨日降臨したわけだから、その間のことを話してやろう」
「一週間だな」
「ああ……実際には発病して10日。弟と話したのがその四日後。俺は奴の異変に気付いて直ぐに弟に会いに行った」
「判った。話してくれ……」
パオフゥは達哉をベンチに誘い、煙草をふかしながら記憶をさらい始めた。
マンサーチャーの仕事というのは、案外と忙しい。
ただでさえ、世界の存続までかけた戦いの中、崩壊した鳴海区に集中して行方不明者が続出している。
白石のマンサーチもかなり繁盛しているらしいと聞く。
商売仇になりえるはずの白石とは、連携を汲んでいる。ほぼボランティアの白石に対し、本格的に商売しているパオフゥでは、仕事の内容が多少違うが、情報交換するならあの飲み屋の店主は情報通だった。
パオフゥのもう一つの情報源が、克哉だ。
刑事という仕事柄、克哉は専用の情報屋を数人抱えていたからだ。
もう二度と会わないだろう、と別れの時に言い合ったのに反し、一週間に三日は顔を合わせる日々が続いていた。
さらに克哉にはもう一つ情報源があった。南条グループである。
南条と個人的な関わりを持つようになった克哉は、グループの松岡をその窓口に、南条本人と連絡を取ることが出来た。
パオフゥはそれも利用しているわけである。
現在抱えている依頼は、鳴海の開発に関わっていた、南条グループに属する会社の社員。
克哉に連絡を取ったところ、南条グループに話を持っていってくれるという話だったので頼み、今日はその報告を聞きに行く予定だ。
待ち合わせは港南区。つい先日に起こった事件で、ろくに家にも帰れない刑事を相手にするなら、場所の融通はつけなくてはならない。
六時に駅前。
時間の確認をして、ギリギリで向かう。
待ち合わせ場所には既に克哉は来ていて、人待ち顔で辺りを見回していた。
「よぉ!」
声をかけると振り返る。どこか虚ろな目の色。
「どうした、元気がねぇじゃねぇか?」
「いや、ちょっと疲れているんだ……」
表情に滲む疲労。青白い顔が、言葉を証明していた。
「悪いな。忙しいのに」
「いや、事件は片付いた。明日は休みだから……」
「そうか。じゃ、さっさと帰って休めよ。実家に顔を出せばどうだ?」
「いや、ちょっと相談したいことがあるから、付き合ってくれないか?」
「俺にか?」
珍しいこともあるもんだ、とパオフゥは思う。克哉は滅多なことでは他人の相談というものをしないタイプの人間だと思っていた。パオフゥ相手になら、尚更だ。
「飲むか?」
「だな。俺も今日は仕事は終ってる」
「なら、しらいしに行こう」
「これからか?」
飲み屋なら港南区にもある。わざわざ平坂に行く必要があるのか?
思ったパオフゥに。
「あそこで話したいんだ」
克哉は虚ろにそう答えた。
電車を乗り継ぎ平坂へ。
時間的に混んでいた店の中、カウンターの端に席を確保する。
「久し振りだねぇ」
言う店主に、歪んだ笑みで答えた克哉は、二人分の飲み物を頼んでからパオフゥに向き直った。
「仕事の話から先にしよう。探し人の上司が会ってくれるそうだ。アポは南条君の名前で入っている。受け付けでそれを告げれば会えるはずだ」
「悪いな。で、ターゲットの足取りはつかめてるか?」
「そこまでは聞けない。社用で出ていたというから、恐らく上司が知っているだろう」
「……絡んでるか?」
「らしい。いかに南条君の名前があっても、企業のプロジェクトに関する情報まではもらえない」
「企業スパイか……」
「面倒だが、南条グループは扱っているものが大きいから仕方ないな」
「だな……面倒だが……」
企業は口を噤みたがる。警察相手でもそれは変わりない。情報を糧に生きる企業だから余計に外に漏れるのを防ぎたいだろう。
その辺はパオフゥも長く検事の仕事をしていたので知っている。
「で、お前さんの相談ってのは?」
「僕自身のことなんだ……」
「お前さんのか?」
飲み物が運ばれて、克哉は一気に煽る。飲まなくてはやっていられない、という態度がパオフゥにはひっかかる。
「で、なんだ?」
克哉に反してちびちび飲み物を含んだパオフゥは、ちらりと克哉を観察する。
疲れている。確かに表面上ではそう見える。
まだ若く体力が充実している人間にしては、酷い疲労を抱え込んでいる、というのが感想だった。
克哉は虚ろな目をパオフゥに向けると、呟くように告げた。
「声が――聞こえるんだ」
「声? どんな?」
「声の特徴は判らない。ただ……頭の中に直接響くような声で、ずっと同じことを言っている」
「何て言ってる?」
「それは……勘弁してくれ……思い出したくもない」
「それじゃ、何のコメントも出来ねぇだろうが」
克哉は首を振った。
「内容など言わなくても、行動で判る。僕は――達哉を殺そうとした」
「は?」
克哉が? ブラコンで、弟の為に結婚も出来ないような奴が、その可愛い弟を殺そうとした?
「寝言は寝てから言え」
性質の悪い冗談だ。パオフゥはそう思った。しかし、克哉の表情は深刻で。
「寝言じゃない。冗談でもなんでもない。声が聞こえ始めると、もう身体の自由はきかない。どこにいても達哉の元へ向かい、銃口を心臓に向けている」
「おいおいおい……」
「引き金を引こうとした。安全装置が外れていたら、殺していた……」
パオフゥは克哉を凝視する。
冗談にしては性質が悪すぎる。本気なら更に悪い。
「……達哉はそれを知っているのか?」
「いや……目を覚まさなかった。達哉は寝ていたから」
「……寝ているところをか?」
「ああ……。気付いて愕然としたよ。僕は……自分が信じられない……」
嘘をついているようには見えない。だからと言って、言われたことを鵜呑みにも出来ない。
疲れすぎて幻覚じみたものを見るのは良くあることだ。特に刑事なんていう、事件が起これば緊張状態が続く職業なら、尚のこと。
「疲れているからだ……」
「三日前からなんだ……事件の犯人の目星をつけて、その被疑者の家庭状況を調書で確認していた時に、初めて声が聞こえた……」
事件。蓮華台の住宅街で、小学生の少年が殺された。少年は学校から帰る途中にアラヤ神社に寄るのが日課で、その日も神社で姿が確認されている。しかし、神社から出た後の足取りが消えていた。
行方不明として両親が警察に届けてた翌日、自宅近くの空き地で全裸の少年が見つかった。
司法解剖で、少年は性的暴行を受けていることが発覚した。
異常性愛者の犯行であると、その時点で断定された。
「被疑者は被害者の年の離れた実の兄だった。家庭にかなり問題があり、兄弟は二人で成長したようなものだ。特に兄には多大なストレスがかかっていたと思われる」
「どこかで聞いたような話だな……」
「今日……自供が取れた。奴は、弟が好きだったと、そう言ったんだ。何時ものように神社に迎えに行って、自宅近くの公園の茂みで行為に及ぼうとしたところを抵抗されたので、首を絞めて動きを止めた。動かなくなってから、ことを成し遂げたのだと――そう言った」
「おい! お前、それは違反行為だ!」
「……明日にはニュースで流れる。問題はない……」
「だからと言ってだな!」
「同じだと思ったんだよ!」
「何がだ!」
「僕と同じなんだよ!」
パオフゥは息を呑む。
「……僕が高校くらいの時だった。達哉は良くアラヤ神社で一人で遊んでいた。あの事件があった頃で――他人を信用しなくなっていた達哉は、友達も全てシャットアウトして、一人でアラヤ神社で遊んでいたんだ」
「……で、迎えに行ってたのか?」
「ああ……。家には誰もいないし、あの頃は事件の所為で、近所の目も口も煩かった。帰りたくない達哉は、迎えに行かないと何時までもアラヤ神社に居続ける。だから迎えに行っていた」
一緒に手を繋いで、無理に家に連れ帰って。
二人だけの家の中で、日常を淡々を過ごしていた。
「……お前、まさか、達哉を好きだったとか言わないよな?」
「好きに決まってる。僕の大事な弟だ」
「……そうじゃねぇ。恋愛感情なのか? 抱きたいと思ってたのか?」
酒に逃げていた克哉が、パオフゥを振り返り、薄く笑う。
疲れの滲んだ顔にいびつな笑み。どこか得体の知れない恐怖を覚えて、パオフゥは舐めるように飲んでいたはずの酒を煽った。
「思ってたってことか……」
「実行しようとは思っていなかったがな。達哉は僕を嫌っていた……それに、その頃僕には恋人もいた」
「達哉似の美人だろ……」
「判るか?」
「想像出来るさ……」
身代わりだ。
感情から逃げる変わりに、代償行為に走ったのだ。
「……僕は犯人の感情に引きずられているんだと思うか?」
「思う……が、声が聞こえるんだろ?」
「ああ……酷い声だ……」
「だが、犯人は逮捕された。もう声は聞こえないだろ?」
「……判らない……だから、僕を見張ってくれないか? 長期休暇を取った。その間……」
荒唐無稽な話だと思った。だが、憔悴ぶりを見るのに、放ってもおかなかった。
それに……。
疲れているのにしては、感情の起伏が激しすぎるし、常の克哉とは違い過ぎるのが気になった。
「仕方ねぇ。家に来い」
言うと、克哉は暗く笑い――「悪いな」と呟いた。トゥービーコンテニュー