「兄さんが、俺を?」
「正確には、こっちのお前さんらしい」
「それはそうだけど……」
達哉は考え込む。
「これは先に言っておいたほうが良いかもしれない……」
「なんだ?」
達哉の深刻な顔に、パオフゥは眉を顰める。
またぞろ何か問題がありそうだ、と思ってうんざりする。
「"向こう側"で、俺は兄さんに殺されかけた」
「はぁ?」
「起きたら兄さんに首を締められていた」
「冗談だろ?」
「冗談で言うのには、深刻すぎるだろ?」
「……だな……」
全く、世界を挟んでとんでもない兄弟である。
「で、どういう対策を打ったんだ、"向こう側"では?」
「何も……。俺を殺したいなら、そうすれば良いと思ったから、放っておいた」
「おいおい……」
兄が兄なら、弟は弟だ。
「命を粗末にする奴は、転生出来ないんだぞ」
「関係ない。二度とこんな場所に生まれたいとも思わないから、丁度良い」
「辛いか、生きているのは?」
「生きているのが辛いんじゃなく、誰かの気持ちに引きずられるのが恐いな……」
「成る程……」
人間は一人では生きて行けないと同時に、誰かに自分を乱されると不安を覚える。自分が何か別のものに変わっていく感覚。これは自分でいたい自分には、とても辛いものだ。
ならば一人でいれば良いと思うだろうが、それは出来ない。
人間はすべからく、他人と関わることでその存在を確立しているのだ。
それは達哉も例外ではない。
どんなに他人を排除しようと思っていても、生活そのものに他人が関わることが、生きることの最低条件となる。
「しかし、対策を打っていないなら、何度も仕掛けてきたんだろ? どうしてお前は生きてる?」
「……生きてるんだろうか? その辺の自覚がないんだ。気付いたら、呼ばれていた」
「呼ばれた? 誰に?」
「……判らない。子供――だったような気がする。どこかで見たことのある……」
「子供……ね……」
「助けてくれ、と泣いていたから、助けてやる、と言ったら、ここに来ていた」
ここ=達哉の身体の中。
呼ばれた達哉。
弟を殺そうとする克哉。
「助けてくれ……か。案外と、こっちの兄貴かもしれねぇな。お前にヘルプを送ったのは」
「何故、そう思う?」
「そりゃ……誰よりもお前を想う人間だからだ。自分じゃ弟を殺しちまう。俺じゃ止めるだけの力を持っちゃいねぇ――他人だからな。なら、お前しかいねぇじゃねーか」
「本当にそうなんだろうか……むしろ俺には……」
「ん?」
「いや……。続きを頼む。一週間の続きを……」
「ああ……」
パオフゥは殆ど吸い込まないままで灰になってしまった吸殻を携帯灰皿に捨て、新しい煙草を取り出した。
平坂を出たパオフゥと克哉は、そのまま来た道を逆戻りした。
以前使っていたねぐらは鳴海の崩壊と共になくなってしまったので、今では港南区に移ってきている。
珠閒瑠の中でも港南は古い街で、過去は貿易の中心となった港が近いおかげで、古い洋風のビル、倉庫などが古いまま持ち主もないまま放置されている。
パオフゥは金にあかして廃ビルとなったものを安価で買い取り、新たな住まいにしていた。
ビルの一階を仕事場として改築し、最上階の全ての部屋を自宅と物置代わりに使い、その他の開いた階は貸しマンションとして家賃を取って貸している。
物置として使うつもりで放置していた部屋に、克哉を案内し、そこで休暇を過ごすように告げた。
憔悴しきった表情で、克哉は「すまないな……」と告げた。
本当にすまないと思ったら、相談なんてするんじゃねぇ。
思わず本音が飛び出しそうになったが、堪えて首を振る。
「仕方ねぇからな」
まさにそんな心境だった。
仕方ない。
周防兄弟には借りがあるし、弟の方は自分も気に入っている。どっちの世界の達哉もだ。
「中に生活必需品は揃ってるはずだが、必要なものがあったら、言ってくれ」
「ああ……」
「鍵は外からもかけておく。一人で外に出るんじゃねぇぞ」
と言っても、地上6階から脱出する手段なんて殆どないだろうが……。
「判った。で、何かあった場合の連絡方法は?」
「そっちの壁を叩け。隣が俺の部屋だ」
「判った……」
お休み、と告げてドアを閉める。
物置として使おうとしていた関係上、鍵は中から一つ、外から一つかけられるようになっている。そのどちらも施錠してから、パオフゥは自宅に戻った。
荒唐無稽。確かにそうだ。だが、声が聞こえる現象なら、少なからずパオフゥも経験していることに気付いた。
ペルソナ。
個人に宿る専用ペルソナというものがある。パオフゥには、オデュッセウスとプロメテウスがそれだ。それらのペルソナを召喚した際、確かに声を聞いた。
「我は汝、汝は我……か」
だが、克哉の聞く声はペルソナとは違うように思える。
ペルソナはもう一人の自己であるから、克哉の望まないことを告げはしない。
克哉の望み、それは達哉を愛すること――肉欲も含んだそれに他ならない。
ならば、達哉を得ることにこそ、助言をするのではないか? 殺してしまえば存在を失ってしまう。それでは、愛は存在出来ない。
「事件との関連性か……」
確かに、犯人の境遇は克哉に酷似しているかもしれない。だが、それに引きずられて殺人を引き起こすのには、決定打が足りない気がする。
殆どの人間が意識もしていないし、最近ではその前提も崩れかけているが、人間の脳内には最低限のタブーが、細胞の記憶とでもいうようにインプットされているものだ。
即ち、他人の命を奪うこと。
犯してはならないタブーだからこそ、人間は憎しみにストッパーがかかるようになっている。
衝動を抑える理性。それがストッパーだ。
殺人を犯す者の殆どは、このストッパーが、感情の奔流によって崩れた状態にあるといえる。
要するに、本来なら起こりえないはずの犯罪なのだ。殺人は。
特に克哉はその理性のストッパーが強固だったはずだ。
例え無意識の状態だったとしても、達哉を殺そうとするなんてあり得ない。
あり得ないのだ。
なのに……。
「何してやがんだ……あいつは……」
パオフゥは鍵を取り隣へ駆けつける。
どんどんと何かがぶつかる激しい音。
一階下はまだ空室ばかりだから良いものの、これが全室入居者がいたら、大家として苦情処理に走らなければならないところだ。
「おい、周防!」
声をかけると、音がピタリと止む。
鍵を開けて中に入ると、克哉が銃を構えて向いていた。
「達哉はどこだ?」
楽しそうな表情が尋ねる。
「お前、本当に周防か?」
「他に誰に見える? この姿が証明だろう?」
小首を傾げた腕が動く。
ゆっくりと安全装置をはずし――。
ち、と舌打ちしてパオフゥは飛びのいた。
ドゥン!
低い唸りが空気を震わせ、一瞬前にパオフゥのいた場所に弾丸が命中する。
――正気じゃねぇ。
しかも、安全装置を外すことを覚えた。
ポケットを探りコインを取り出す。
体勢を整えている暇はなかった。取り出したコインを弾き、同時に克哉に飛び掛る。
コインは上手く銃を握る手に命中し、銃は取り落とされた。
そこに飛び掛り、鳩尾に一発入れる。
「う……」
唸りを上げながら意識を失っていく克哉。
慌てて抱きとめて床に下ろした克哉は、目尻に涙を溜めていた。