きっとこの気持ちは誰にも知られちゃいけない。
絶対に。
「はぁ……」
溜息をつくクラウド。横に座るエレノアは、その溜息の数だけ苦笑する。
クラウドが病院から復帰したのが、つい昨日のこと。
あらぬところに試験実験中の細胞槐を突っ込まれたから、と病院に押し込まれた結果、クラウドの体に微量の毒素が検出されたので、入院ということになった。
それから半月。
退院してきたクラウドは、見事に溜息の垂れ流し状態になり、なんだか幸せそうだったルーファウスまで沈み込んでいるというテイタラク。
あの日、何が起こったのか、エレノアは息子から聞いてある程度は知っていた。
まだ十五で、初体験もまだなクラウドには辛い経験だっただろう。だからといって、何時までも沈み込んでいては駄目だ。
と普段のエレノアなら言いたいところなのだが、どうやらクラウドの悩みは違うところにあるらしい。
ルーファウスを見る度に強張る体や顔。
それに……。
溜息には微妙な色がついているのに、さすがに気付いた。
色のついた溜息。人間はそれを、主に恋に悩んだり迷ったりする時に放つ。
「とうとうか……」
自覚、したのだろうと思う。自分の気持ちを。
どこでそれが恋に変わったのか、その変化のきっかけは判らない。けれど、クラウドの悩ましげな目や仕草を見ていれば判る。
今もじっと副社長室の閉じられた扉を見ているクラウド。
「会いたいなら、入れば?」
エレノアが言うと、クラウドは困ったように笑う。
「あ、会いたくなんか、ないですよ」
明らかに無理していると判る表情で言われても、納得出来ない。
「なら、今日は早退しなさい。どうせ仕事にならないんだから」
「え……」
クラウドは慌てて自分のデスクに視線を走らせる。
積みあがった書類は、先程各部門の責任者から送られてきた、ルーファウスへの陳情書である。
「あ……」
本日昼までには処理して、スケジュールと照らし合わせてルーファウスの視察予定を汲まなくてはならなかったのに、それすら出来ていない。
「すみません……俺……」
「良いから、今日は帰って休みなさい。そんな様子じゃ、副社長も心配するでしょ?」
「それはないと思うけど……でも、今日は俺……済みません……」
見ているのが痛々しいほど力なく去って行くクラウドの背を見つめて、エレノアは溜息を吐く。
「全く謙虚というか、奥ゆかしいというか……」
クラウドのデスクの上に乗った書類を日別に整理してスケジュールと照らし合わせる。
陳情の殆どは、仕事場の改善なので、ルーファウスの視察は絶対だ。
空いたスケジュールを適当に埋めて、副社長室のドアをノックする。
「入れ」
横柄な返事を受けて入室したエレノアは、こっちもまるで仕事がはかどってないのを見て、クラウドの陰気が移ったように溜息をついた。
神羅ビルから、遠慮したのにケネスに屋敷まで送ってもらって、クラウドは挨拶もそこそこに部屋に篭った。
退院してからずっと、ルーファウスとは一緒に眠っていない。
抱きしめてくれていた温もりを半月失って、病院のベッドでも暫く違和感に慣れなかった。
でももう、これからはずっと、あの温もりを得て眠ることはないのだ。
それまで殆ど使うことのなかった部屋はあまり馴染めない。
クラウドの私室なのに、まるで別の誰かの部屋のように落ち着かないのだ。
それまでずっとルーファウスの部屋を一緒に使っていたからかもしれない。
持ち帰った仕事をする時も、眠る時も、殆どの時間をあの部屋で過ごした。
振り向けば毛足の長いソファに腰掛けて読書をしているルーファウスが振り向いて「どうした?」と声をかけてくれた。
時々、まだ早いかもしれない、と言われながらもお酒に付き合わされることもあった。
風呂から上がれば、一緒にベッドに入って。
一緒に眠って。
だけど、もうそれだけじゃ我慢出来なくなってしまった。
宝条に教えられた感覚は鋭く体に残りくすぶり、何の意図もなく触れられるだけでも、何故か体が疼く。
眠る時に薄く感じていた――あの触れられる感覚が本物だったら良かったのに。
触っているのがルーファウスだったら良かったのに。
いっそのこと、激しく求めてくれたら良いのに。
だけど、それはあり得ない。
相手を選ぶこともなく得ることの出来るルーファウスが、まさかクラウドを選ぶことなんてあり得ない。
将来は社長の椅子に座ることを前提に、今を生きているルーファウスには、きっと決まった相手がいるのだろうし、例えいなかったとしても、何の取りえもないクラウドを選ぶなんてあり得ない。
年下で、まだ成人もしてなくて、何の得にもならなくて、他の誰と比べても突出した魅力なんてないクラウドを。
「せめてもっと――綺麗だったら良かったのに……」
クラウドはまだ自分の匂いすらついていないベッドに顔を埋めて呻く。
悩みの迷路は、何時までもクラウドの前から去ってくれそうにない。
「そうだ、お酒……飲んでみよう」
脳髄を痺れさせるような効力を持つあの液体なら、もしかしてこの苦しみを一時でも忘れさせてくれるかもしれない。
クラウドは立ち上がり、唯一酒の置いてある場所――ルーファウスの部屋へと向かった。
「副社長。仕事をする気がないなら、帰って下さい」
きついエレノアの声に、虚ろな視線が向く。
「君、失礼じゃないか?」
「仕事をしないで給料を得る人間を、私は許せません」
さすがに調査部にいたことのある経歴の持ち主だけあって、相手が誰でも言いたいことを言う。
「……クラウドは?」
「早退しました。体調が良くなさそうなので」
「え? 大丈夫なのか!」
「まぁ……多少精神的に参っているようでしたけど、おおむね良好だと思います」
「そうか……」
安心したように吐息を漏らすルーファウスに、ちょっといきすぎかな、と思いながらも、エレノアは言いたいことを言ってしまうことに決めた。
周囲がドロドロとした悩みの中で、仕事が一向に進まないのはエレノアの趣味じゃない。色々はっきりさせて、クラウドはまるで仕事をしなくなっても、それでもほけほけと平和に笑ってくれていた方が、エレノアにとっては余程嬉しいことなのだ。
「副社長。越権だし余計なお世話とは思いますが……」
「なんだね?」
「クラウドに告白してやって下さい」
「なんだって?」
ルーファウスは目を見開く。
「どういう意味だ?」
「お好きなんでしょう? 十近く年の離れたクラウドが」
「十近くって……」
「嫌いなんですか?」
「何を言う! 好きに決まっているだろう!」
でなければ、無理に秘書になんかしなかったし、騙まし討ちのように引越しをさせなかった。
「ならば、クラウドにその気持ちを伝えるべきです!」
びしり、と指を突きつけながらのエレノアの言葉に、しかしルーファウスは溜息を吐く。
「君はそう簡単に言うけが、クラウドの気持ちはどうなる?」
「残念ながらクラウドの気持ちは副社長に向いているようです。今のクラウドの落ち込みは、いわゆる恋煩いというもので、それは副社長に対しての感情と思われますが?」
「冗談だろう?」
「冗談?」
エレノアは眉を寄せ思い切り不機嫌そうにルーファウスに顔を寄せた。
「この私が冗談を言うように見えますか?」
「あ……いや……」
「ですよね!」
「は、はい……」
息子を立派に育て上げたとは思えない美女ではあったが、さすがに母を一度でも経験した女性は強い。
「私だってですね、副社長になどクラウドを預けたくはありません。どうせ幸せに出来ないのに決まっていますし、最後に泣かされるくらいなら、ケネスと離婚させたジャックの方が余程クラウドに相応しいと思います。でもね、クラウドの気持ちは傾いていてます。あなたに恋して悩んでいます。だから、仕方ないから、預けて差し上げます」
「ず、随分横柄な言い様だな」
「クラウドは息子のようなものですから」
母の気持ちからすれば、確かにルーファウスなどには預けたくないだろう。
ルーファウスでさえそう思うのだから、エレノアの心情としたら更に。ということだ。
「幸せに、か」
「出来ますか?」
「自身はないな」
「けれど、自覚はしていますよね?」
「……」
ルーファウスはエレノアの表情を掠め見て目を細める。
「クラウドがどうでも、あなたはクラウドなしでは幸福になどなれないことを」
図星だ。
欲しいものを与えてくれるのは、クラウドだけだ。
きっぱりさっぱりした性格で、純情で純粋。誰に文句を言ってもその言葉には悪意がなく、聞いていても不快にならなかった。
家族の愛情や温もりに近いものも、クラウドだけがルーファウスに教えてくれた。
けれど、クラウドに対してもっと熱いものがあるのも真実で。
眠る彼に何度ギリギリの行為をしかけたか判らない。
意識がないのを良いことに、パジャマの上から体を撫で、唇を塞いだ。
「本当にクラウドの気持ちは私に傾いているのか?」
「そう見えます」
きっぱり断言したエレノアの言葉に力を受け、ルーファウスは唸るだけだった副社長室を飛び出した。
お酒お酒。
ベッドサイドから酒瓶を取りだして、何時もルーファウスがするようにグラスに注ぐ。
量が判らなくて、グラスの縁ギリギリまで茶色の酒を注ぎ入れた。
煽れば熱を持った液体が体内を下っていく。
カッと一瞬にして熱を持った体は、クラウドの思考を見事に鈍らせた。
グラス半分までを体に収め、ふらつき始めた体をベッドに沈ませる。
ルーファウスの匂いの染み付いたベッドだ。
ベッドメイクしても匂いが染み付いたそこは、薄い記憶を運んでくる。
触れる手。パジャマの上から体中を。
ふさがれた唇。まるでキスみたいな。
記憶をなぞるように己の体に触手を伸ばし、クラウドはズボンを下着ごと脱ぎ捨て、高ぶり始めた下肢を握りこむ。
熱い肉槐は、それを求めていたように手の中で質量を増し、クラウドは夢中でこすり始めた。
だけど、足りない。
もっと強い刺激を、教えられてしまった。
それは忌まわしい記憶だったけど、それでも甘美な喜びも運んできた。
そっと空いた手を後ろに伸ばす。
あの日、そこに肉槐を食まされた。
今は固く閉じた入り口を撫でる。
ゾクリとした感覚が足元から駆け上がり、一瞬の喜びを運んでくる。
乾いた指では進入は果たせない。
一度戻した指をクラウドは口に含む。
塗りこめるように舌を使い指を濡らし――。
「クラウド!」
ドアが開いたのは、クラウドの濡れた指が、そこに収められた時だった。
一方では下肢を握りこみ、一方では後ろを開いている。
視線はドアを振り向き、ルーファウスの姿を確認する。
確認して――。
「や、やだ!」
慌てて布団に飛び込んだ。
無理に抜いた後ろは、衝撃で激しい痛みと快感をクラウドに与え、その一瞬の衝撃に、前ははじけて飛沫を散らした。
ベッドを汚してしまった。
そんな罪悪感が、クラウドの思考を占める。
布団をかぶって震える一時。
酔いはさめてしまった。
近付く足音に怯えながら、クラウドは必死に出て行ってくれることを祈る。
そしたら、その間にベッドを綺麗にしておくから。
しかし、足音はクラウドの方へ近寄ってきて、布団に包まったクラウドの上に乗りあがってきた。
「クラウド、聞くんだ」
「やだ……」
「嫌でも聞いてもらう。私は、お前が好きなんだ」
布団の所為でくぐもった告白。
クラウドは耳を疑う。
「好き?」
「そうだ。私はお前が好きだから、一度断わられたのに秘書にしたし、この屋敷に一緒に住むことにしたんだ」
くぐもったルーファウスの驚きの告白。
けれど、疑うまでもなく布団越しに抱きしめる力が強くなるのが、それが真実だと告げている。
「好きだから一緒に寝たかったし、眠っているクラウドの体に、色々としていたんだ」
パジャマ越しに体中を撫でる手。
ふさがれた唇。
気の所為じゃなかった?
クラウドは布団から顔を覗かせる。
「本当ですか?」
だけど、信じられない。
疑い深い、未来の恋人候補にルーファウスは笑みを見せる。
「本当だ」
言いながら、やっと見ることの出来たクラウドの顔。その唇に、吐息を奪うようなキスをしかけた。
「おっはようございまーす!」
元気な声が秘書室に響いて、エレノアは全てが上手くいったと気付いた。
「今日は元気ね」
「はい!」
「でも、元気すぎない?」
エレノアは強めに腰を叩く。
「はい?」
動じないクラウド。
眉を寄せたエレノアは、クラウドの耳に口を寄せると。
「最後までしなかったの?」
と囁いた。
「はい?」
何を言われているのか判らないクラウドは首を捻り。
「何をですか?」
と尋ねてきた。
ふむ、と唸ったエレノアは、副社長室に向かって。
「セックスしなかったの? 昨日?」
と叫んだ。
副社長室内部から、物凄い衝撃音が響く。
クラウドは真っ赤になって。
「し、してません!」
怒鳴ったのだった。