北国の春

 ドンドン、ドンドンドンッ。
 激しくドアが叩かれる。そこの住人は何事だろうと、勉強の手を休めて立ち上がると、1LDKのアパートの戸を開けた。

「高瀬〜。でらさぶいよ〜」
「じっ、仁‥。お前なんでこんな所に」
 ドアの外に立っていたのは1時間ほど前に電話で話した相手だった。大きなリュックを背負って鴨居に着きそうな上背を丸め、顔には血の気がない。慌てて中に入れると、ストーブの前に座らせる。少し前に淹れてあったコーヒーに牛乳を足し、レンジで温めてカップを握らせた。
 蒼白だった顔に赤みが戻る。
「あったけ〜」
 コーヒーを啜りながらその言葉が出るとほっとした。

「一体どうしたんだ? なんの連絡も無しに。さっきだって来てるなんてひとことも言ってなかったじゃないか。てっきり名古屋からだと‥」
「だって高瀬、連絡なんてしたら来るなって言うじゃないか」
「‥‥そっそんなこと‥」
「会いたかったんだで別にいいだろう。何か不都合があるの? 高瀬は俺と会いたくなかったんかよ」
「会いた‥くなかった‥」
「ええっ、マジ?」
「うっ‥嘘に決まってるだろう。従兄じゃないか」
「従兄だから‥なのか」
「そうだ、それ以外に何があるんだ」
「だけど俺、ちゃんと大学合格したよ。そしたら応えてくれるって言ったじゃないか」
 従兄の仁の真剣な顔が高瀬の心を締めあげる。

「あっああ、名大の推薦取ったなんて‥凄く頑張ったな」
「だろ、誉めてくれよ。だでお祝いちょうだい」
 仁は握りしめていたカップをこたつに置くと高瀬の方へ顔を近づけた。
「ほら、コーヒー冷めるから」
 高瀬はそれには気が付かない振りでカップを取ってまた押し付けた。

「そんでなんでそんな寒そうな格好で来たんだ。ここは北海道だぞ。札幌なんだぞ。名古屋とは違うんだぞ」
「だっだって、名古屋じゃもう桜咲いとるし、上着持ってくりゃいいかと思ったんだよ」
 春とはいえまだ3月の終わりだ。最高気温だって10度を超えないくらいなのに。仁はお世辞にも厚いとは言えないハーフコートに、なんと中はデニムのシャツ一枚しか着てなかったのだ。

「お前はバカか」
「なっ、そっそんなにバカにしなくてもいいだろう。自分を慕って来てくれたかわいい弟に向かって言う言葉かよ」
「何が可愛いだ。俺よりはるかにデカイ図体しやがって」
 高瀬は仁の頭を小突くと空になったカップを持ってキッチンへ引っ込んだ。
 シンクの端を両手で掴み、歯を食いしばった。
「なんで‥どうして、忘れたんじゃ、なかった‥のか」
 整った理知的な顔を苦悩で歪ませると、出そうになる水分を無理やり中に押し込めた。


 河合高瀬(かわいたかせ)は22歳の北大4年生。と言ってもこの季節には卒業してるはずなのだが。従兄の河合仁(じん)は反対に今度大学に入学する18歳。
 この4歳違いの従兄は小さな頃から仲が良かった。兄弟のいない高瀬は弟のように仁を可愛がった。高瀬の両親は2人ともが弁護士であり、事務所を構えていて忙しかった。
 また仁の両親も病院を開業しており、医者と看護婦の親に構ってもらえることは多くはなかった。仁の弟の倫(りん)も入れて3人でその寂しさを紛らわして育ったのだ。
 長男の2人はそれぞれ親の職業を継ぐため、学業についてだけは口やかましく言われてきた。似たような環境の中で互いを思いやって過ごして来たのだった。

 しかし兄と弟の関係は弟が反乱して終わりをみた。

 まだ仁が中学2年だった。そして高瀬は高校3年だった。4歳も違うのに、既に背丈は抜かれていた仁に好きだと告げられたのだ。
 だけど高瀬は答えを保留にしたまま北海道まで逃げて来たのだった。
 ここに仁が来たのは2年前の夏休み。もちろん倫が一緒の時だ。盆や正月で帰っても2人っきりで会ったことはない。
 告白されてから今までの間、仁に特に変わったそぶりはなかった。高瀬はてっきり仁が諦めたと思っていたのだ。仁は従兄のひいき目を抜いても、ハンサムで活発で女の子からはかなりもてるタイプだった。
 そういう話はしたことがなかったが、もうとっくに彼女が居ると思っていた。いや、倫に彼女が出来たと聞いて仁にもいると思ってしまったのだ。高瀬とのことは一時の気の迷いだと気が付いたと思い込んでいたのだった。

 自分たちの道は違いすぎる。とうてい一緒には居られない、それならばいっそ初めから無かったことにしてしまえばいい。それが高瀬の出した結論だった。

 それなのに仁は追いかけてきた。まだ忘れてはいなかった。諦めてなんかいなかった。気の迷いなどではなかったのだ。

 なぜあのとき、ハッキリと断れなかったのだろうか。高瀬は自分の中の浅ましい残酷なもう一人を呪う。そのもう一人はこうなることをどこかで期待していたのだ。仁に忘れて欲しくはなかったのだ。
 結果として楽しく送れたはずの高校時代をずっと縛り付けてしまった。常に自分の影をちらつかせてしまったのだ。


「高瀬〜。全然引っ越しの準備できてないじゃん」
 仁に呼ばれて高瀬は我に返った。
「なっ何が‥」
 慌てて仁のそばに行く。
「だって段ボールとか用意してないし、今も勉強してたんかよ。卒業したのに?」
 仁はこたつの反対側に隠すように下ろしておいた、ノートに挟まれた教科書を取ろうとする。高瀬は仁の手に触れさせないようそれを取り上げた。
「お前、何しに来たんだ」
「決まってるだろう。引っ越しの手伝いにきたんだが」
「誰も‥頼んでないぞ」
「何だよ、せっかく来てやったのに。手伝わなくていいって?」
「こんな一部屋くらいは何でもない。それにすぐは帰れないから」
 ジッと見つめる仁の目が鈍く光ったような気がした。何か嫌な予感がして高瀬は視線を外す。


「何で帰れんの。理由を聞かせてよ」
「じっ実は‥えっと、お前にはまだ言ってなかったが、大学院へ行くことにしたんだ。そうそう、だからほら、今もまだ勉強しなくちゃならなくて」
 疑わしそうな仁の視線が高瀬の胸を容赦なく刺す。
「だからさ、明日と明後日とこっちの案内してやるからそれから帰れよ」
 いきなりこんな事を言って納得してくれるかと仁の顔をうかがいみる。意に反して仁はあっさりとそれを信じた。
「ふ〜ん、分かった。旨いもん食いに行きたい」
「あっ、ああ。了解」
 その余りにも疑うことをしない仁の態度に今度は高瀬の方が不安になる。


「そういや、俺腹ペコ。高瀬昼食った?」
 さっき見せた鈍い暗い光はどこにも見当たらず、いつもの屈託無い仁が居た。
「いっいや、まだだけど」
「そんならさ、俺いい物持ってきたんだ」
 仁は嬉しそうに自分のリュックを引き寄せると中からインスタントのカップ麺を取りだした。それを高瀬にさぞいい物かのようにみせる。
 そんなところはまだまだ子供なのに。先ほど顔を寄せられたときは大人になったことを痛感せずにはいられなかった。いつまでも引き延ばしてないで、今回こそは引導を渡そう。

 仁にも、自分にも‥。
 高瀬は心の中で決意する。


「高瀬、大好きだったろ」
 決して貧乏ではなかった。むしろ金は有ったと言っていい。しかし家政婦がいるほど大金持ちだったわけではない。だからおやつ代わりによく食べた、名古屋ならではの味噌煮込みのインスタント。なぜか3人ともがラーメンよりもこれが好きだった。
「ああ、懐かしいな」
 呟いてからふと気が付く。そう、さっきから気にはなっていたのだ。なぜこんな大きいリュックを持ってきたのか。着替えが詰まってるなら、着れば良かったのにと。

「仁、お前その中見せてみろ」
 リュックを取り上げる。それは見た目よりもずっと軽かった。蓋を開けて中をみた。
 何とそのカップ麺がぎっしりと詰まっていたのだ。
 引っ越しのつもりなら帰ってからいくらでも食べられる。それなのにわざわざここまで持ってくるなんて‥、おかしいと気付いたことは外れてはいなかった。
「一体これはどういうことだよ」

 仁はいたずらっ子のようにニヤリとした。
「だって俺、味噌煮込みがないと生きていけないもん」
 リュックを抱えて子供の真似をする。
「そんなことを聞いてるんじゃないっ」
「分かったて。そんなに怒んないでよ。来月から俺も北大に入学するからだよ」
「なっ、なんだって」
「だから、俺も北大に入るの。ずっと札幌に住むの。分かった?」
「じゃ‥あ、名大の推薦の話は」
「そんなもん嘘に決まっとるが。俺が推薦なんて取れるわけないじゃん。しかも医学部はたったの10人しか受け付けてないんだぜ。そんな選抜は勝ち抜けません、て」

 ヌケヌケと事実を述べる仁は、嘘を付いていたことを何とも思ってないようだ。確かに仁はずば抜けて賢いわけではなかった。だからよほどの努力をしたんだと思っていたのに。自分の賛称した心が行き場を無くし、怒りに変わる。

「なんでそんな嘘を付くんだ!」
「だって高瀬は俺が名古屋から出ないように願ってたから」
 嘘の言い訳よりずっと真剣な目。高瀬の心も見透かしたこれが、仁の本音なのか。痛いところを突かれて高瀬の怒りが引っ込んだ。
「それじゃあ、うちの医学部に通うんだな?」
「俺の頭じゃ医学部は無理。だから農学部。でもここでも大変だったんだから」
「なっ何を言ってるんだ。うちはどうするんだよ。跡は継がないのか」

 仁の言うことは一々高瀬の範疇を超えていた。一つを乗り越えて何とか納得すると、またもう一つ疑問が湧く。いつまでたっても理解できない。

「倫が医者になる。あいつが跡を継ぐからって言ってくれた」
「倫が‥」
「そう、あいつの方が相応しいだろ」

 仁の二つ下の倫はどっちが弟か分からないほどしっかりしていた。そして頭も良かった。だからそんな風に言ってしまえばそうだな、としか言えなくなってしまう。だけどそれだから仁は頑張ってきたのではなかっただろうか。
 しれっと言ってはいるがその踏ん切りを付けるのにかなり心を痛めたであろう。高瀬はその場にいてやれなかったことを詫びた。

「仁、そばにいてやれなくて悪かった」
 高瀬は仁の奥に秘めてる心を思って膝立ちになり上からそっと抱き締めた。
「いいんだって。おかげで高瀬と一緒の大学に通えるんだから」
 仁は高瀬を抱き返し、嬉しそうにそう告げる。

 また引っ掛かること言われて高瀬は仁から離れた。
「俺が名古屋に帰ったらどうするつもりだったんだ」
「もういい加減止めたら? そっちこそ嘘付くのは」
 息を呑む高瀬が隠していたことを仁は暴露する。

「ここを受けるときから決まってたんだろ」
「なっなっ、何で‥」
「だって、高瀬はすごく動物が好きだった。自然と触れ合っていたい、都会から脱出したいって思ってたのも知ってる。そしてすごくすごく優しい。あんな人の揚げ足取ってるような仕事は似合わない。だから高瀬が自分で道を切り開いて進んでいく姿はでら格好良かった。俺も絶対あとに続こうと思った。高瀬のあとに」

「一体‥いつ」
 ほとんど放心状態の高瀬をまた仁は抱き締めた。

「前にここに来たとき。帰ったふりをして倫と一緒に大学に行ったんだ。あんなに頼んだのに高瀬が連れてってくれなかったら余計に見に行きたくて」
 なんと自分で墓穴を掘っていたのか。高瀬はそれに気が付いて苦笑する。
「俺は‥もう北海道から出る気はないんだ」
「分かってる、だで俺がここへ来たんじゃないか。大学合格したら応えてくれるって言っただろう」
「仁‥」


 北大に行くことが決まったとき高瀬は仁にこう言った。
「4年経ったら帰ってくるから。そのときお前が名大に合格してたら考えることにする。だから頑張れよ」
 そう言って高瀬は名古屋を出、仁はそれから4年後を夢みて勉強してきた。2年前にその夢は方向を変えたのだが。

 そして仁は高瀬が出した結論などものともせずに飛び込んできた。最後まで高瀬の予想を超えていた。
「だから入学祝いちょうだい」
 抱き締めていた腕を少し押しやると仁は高瀬に唇を寄せる。

「ちょっちょっと待て。仁、お前俺が引っ越さないって分かっててあんな芝居してたのか」
「だって俺五年も待ったんだよ。高瀬の焦る顔くらい見たっていいじゃん」
 仁は軽く微笑んだ。
「まったく、悪い子だ。お兄ちゃんはそんな嘘つきに育てた覚えはないんだけどな」
 そう言いながら高瀬も微笑む。
「そのお兄ちゃんが嘘つきなんだから仕方ないだろう」
 二人ともが吹き出した。
 そして互いの思いを確認するように固く抱き合った。

「高瀬‥。高瀬。綺麗な高瀬。気高い高瀬。凛とした高瀬。強い高瀬。賢い高瀬。優しい高瀬。どの高瀬も全部、全部‥全部が好きだ。高瀬のことしか考えられない。高瀬のことだけ考えて狂いそうになる五年を過ごしてきた。応えてくれなかったあのときを恨んでもみた。だからもう絶対に離れないから。いいよね、俺ここに一緒に住んで」
 五年分の思いが詰まった濃厚な告白に高瀬の胸は熱くなる。だがしかし‥

「いや、ダメだ」
「なっ何で!」
 驚いてバッと腕を伸ばし高瀬の顔を覗き込む仁。
「だって狭すぎるだろ」
 高瀬はペロッと舌を出す。
「一緒に住むならもう少し広いところに越さなくちゃ」
 さっき散々あせらせてくれたお返しを高瀬はした。
「もうっ、許さない」
 今度こそは途中で邪魔されることなく、仁の目的は遂げられた。高瀬はその泣きたくなるような切なさに、幸せに、胸を一杯にした。


「なあ、あと二年の学費はどうするんだ」
「ああそれか、うちの親は俺の言いなりだからさ。知ってるだろうけど名のある大学さえ行ってればいいって思ってるから。さっき言ったように大学院へ進むって言ってある」
 高瀬の両親は言われるままに高瀬の口座にお金を振り込んでいたのだった。大学のことは一切タッチしてなかったのだ。
「高瀬って悪い奴」
「ああ、お前の兄貴だからな」
 また二人でクスリと笑う。

「はぁ〜。良かった。俺さ、下手したらこのうどん、ヤケ食いしなきゃならないかって思ってたんだて」
「ほんとお前って嘘つきだな。そんなことちっとも思ってなかったくせに」
「あっ、バレた?」
 今度は仁が舌を出す。

「お前が強引で自信過剰だって忘れてたよ」
「そこに諦めが悪いってのも付け加えて欲しいな」
「ふふっ、そうだな」

「将来の夢は高瀬獣医のいる牧場経営!」
 高瀬は仁のたくましく力強い夢に、めまいがするほど高揚していた。

 北の地を選択したのは、身を切るような寒さに晒されたかったから。仁の想いに応えられない自分だけが幸せになろうとは思ってなかったのだ。

「冬が終われば、雪が溶ければ、‥北の地にも春は来るんだな」
 高瀬は暖かい仁の腕の中でそう呟いた。

終わり

分校目次 ・愛情教室 ・あとがき

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