ジュリアスが私の世話をするようになって五日が経ち、瞬く間に生活は一変した。
望んだ訳でなく余儀なくされたと言うべきか。
私にとって早朝にあたる出仕前に現れ、文字通り叩き起こされた上、無理矢理に朝食を食べさせられる。執務の休憩時間に来ては昼食、そして最後の夕食。
三度も食事を取ることなどなかった身には、かなりつらいものがある。
しかし、残せば説教まで喰らわねばならぬし……食事を詰め込む方がまだ良いとも言えるが……
やはり考えなしに言うのではなかった。幾度後悔したことか。
あの時のジュリアスがあまりに優しかったゆえ、流されるように頼んでしまったものの口煩さが変わるわけでなし……
あれに慣れているのが、せめてもの救いか? 無論煩いだけでないこともわかっているのだが。
控えめなノックの音と共に、執事が入って来る。
「クラヴィス様、夕食の支度が整っておりますが如何なさいます?」
「もう、そのような時間か?あれが直に帰って来るであろう」
『帰って』と答えながら、共にいることがあたりまえのように感じている自分に苦笑してしまう。
館に通い始めたジュリアスは、二日目に『三度も通うのは時間の無駄だと思わぬか?』と何やら思案しているかと思えば、三日目には『私もここに住む必要があると思わぬか?』と私でなく執事へ同意を求めたのだ。
通常ならば執事が主の意思を問わぬはずがない。だが、まるで事前に打ち合わせた芝居のように、即座に客間の一つをジュリアスへ用意する旨を伝えた。
彼らの不安がわからぬでなく事後承諾したことは言うまでもない。
「かしこまりました。ジュリアス様は、お帰りが遅うございますね」
「忙しいのであろう。昼に珍しく愚痴をこぼしていたくらいだ」
普段の時間ならば厨房まで入り込んで、栄養バランスや肉の焼き方等あれこれと指図しているであろうに。
私一人の時は、暇であったであろう料理長も難儀なことだ。気の毒に……
「料理長が残念がっていました。今日こそは、ジュリアス様に指摘されないようにと頑張っていましたから」
胸のうちを読んだのか? と思うほど執事の絶妙な言葉に苦笑がにじむ。
なるほど、そのようなものなのか。逆にやる気を起させるとは、人の心情とはわからぬものだな。
口煩いのが来たわりには、使用人達が喜ぶ気持ちも不思議でならない。煩く言われ、何が嬉しいのか?
執事を下がらせるとテラスへ抜ける扉を開けた。すでに室内を移動する分には、苦労しなくなっている。
夜のひんやりとした冷たい空気を感じる。今は、小鳥のさえずりもなく、風になびく木々の葉音だけが静かに聞こえていた。
「そう言えば、長く庭にも出ておらぬな。久しぶりに外の空気でも味わってみるか」
不意に思い立ち、外へ一歩踏み出す。と同時に、段差があることを失念していた身体が足元から崩れ落ちた。
―― 倒れる! ――
しかし、覚悟した衝撃は訪れず、背後から差し伸べられた腕の中に収まっていた。
見えずとも、声を聞かずとも、すぐに誰かわかる。
「―― ジュリアス……」
「大丈夫か? 遅くなってすまぬ」
耳元に囁かれる心配げなジュリアスの声は、走り寄った為か微かに息の乱れを感じた。
感謝と安堵と共に、一瞬の恐怖と緊張が小刻みに身体を震えさせている事に気付いた。己の醜態を恥じながら掠れそうな声を抑え込み返事を返す。
「大事ない。すまぬな」 「間一髪だったが間に合ってよかった」
つかの間安堵の息を吐いた相手は、不意に語気を荒げた。
「何故、大人しく部屋で待っておらぬ!」
「―― 耳元で怒鳴るな。たまには、外の空気を味わいたくなる」
「普段は、篭っているのにか? このような時こそ、得意の怠慢さを発揮すればよかろう?」
「ずいぶんな言われようだな」
動揺収まらない相手に容赦ない言葉を投げるものだ。しかし、いつもの会話にいつの間にか身体の震えが収まっていた。緊張を解くように身体の力を抜くと、足に力が入らないことに気付く。あの程度の事だが身体にもたらすダメージは、大きいようだ。
「どうした? 部屋に戻らぬのか?」 「――ジュリアス……おまえは……」
問いながら喉の奥で笑っているのがわかる。
この状態をわかっていながら聞いているな? 性格の悪い奴だ。
「おまえが離せねば戻れまい」
反射的につい口に出してしまった途端、ジュリアスの笑いが一段と増したような気がする。
「かまわぬのか? 本当に?」
『そのような事をすれば困るのは、そなただろう?』と笑いを噛み殺した言外の声が聞こえる。
今、離されれば確かに困る。確かにこれ以上の醜態をさらけ出したくないのだが釈然としない。
「そなたも素直ではないな。一言ですむであろうに」 「それを言いたくない場合もある」 「何を言うかと思えば。現状を一番理解しているのは、そなたであろうにな?」
言葉に詰まる私に焦れたのかジュリアスの腕が位置を変え力が強められた。意図を察した抗議も空しく次の瞬間、足が地上を離れた。
「この方が早かろう?」 「そう言う問題ではない!」 「いつまでも夜風にあたるのは、体に悪いと思っての心遣いなのだが」 「おまえに運ばれるのは、屈辱だな」
心もとない浮遊感にジュリアスの首にしがみつくように両腕を回す。
「悔しければ二度と失態をせぬことだ。今は、諦めろ」
抗議を意に返した様子もなくジュリアスは、悠然と歩き始める。私が落ち着くのを待つよりは、この方が早いだろうが……我ながら情けない。
「そなた、軽すぎるぞ。もう少し、食べさせねばなるまい」
後半の自分に言い聞かせるような言葉にため息がでる。私にしては、十分に食べて……否、食べさせられているのにまだ、食べねばならぬのか……考えただけで脱力感が襲う。
「クラヴィス、気分がすぐれぬか?」
ジュリアスは、私の態度を誤解したのか杞憂な問いをする。
おまえの言葉にため息が出たと言えば、『そなたを心配しただけだ』と小言が始まりそうだ。
それは、遠慮したい。
「何でもない」
「ならばよいが……」
ジュリアスは、寝椅子に寝かせた私の前髪をかきあげ熱を調べているのか額に手の平を当てる。
「熱はないようだな。そなた、体温が低いな」
何を思ってか、ジュリアスは、額に置いた手の平を頬に首筋にと撫でるように移動させていく。
ゾクリと、明らかに悪寒とは違うものが私の背筋を走り抜けた。
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