何かを打ち付けるような鈍い音が扉の向こうで響いて、ジュリアスは考えを現実に引き戻された。 資料に目を通していたはずが、自然とまた想い人のことばかりが心を占めていた自分に気付き軽く自嘲の笑みをもらしながらも、常に静けさに満ちた聖地にらしからぬ音が気にかかり扉を開ける。 目に飛び込んできたのは見慣れた、赤い髪。 表情は伺い知れないものの、いつも轟然と前だけを見据える強い瞳がうつむいて、その手は闇の守護聖の扉に打ち付けられていた。 きっと、自分だけにはこんな姿は見られたくなかったであろうとは思う。 けれどきっとお前の気持ちが一番理解できるのもまた、私なのだろうとも感じていた。 想う相手が同じ人でさえなかったら、どんな協力でも惜しまないであろう、大切な……友人でもある男。 ただひとり、想う人のためならば、そんな弱さも曝け出し、思いを言葉にすることを怖れず、自分とは正反対で……けれど何処か通じるところがある人間。 かける言葉は見当たらなかった。 ただ無言で近づきその腕に手を置いた。 腕に触れる温もりにふと視線を上げると、そこにはジュリアスがいた。 反射的に、眸を逸らす。 見られていたのか。 この、無様な姿を。 真っ直ぐに、前だけを見据える瞳。何よりも尊敬してやまないそれが、今はひどく痛かった。 ――本当に…情けないな 言葉を発することもできず、オスカーはただ掴まれた腕を見下ろしていた。 「……この前の視察で手に入れた秘蔵の酒がある」 掴んでいたままだった手を離し、ジュリアスはまるで何事もなかったかのようにオスカーの逸らされたままの瞳を見つめ、言う。 「飲みに来い。今日はもう執務にならぬだろう?」 その言葉に眉を顰め、やっと真直ぐに見返してきたオスカーに、ジュリアスは軽く笑ってみせる。 「……私も仕事になりそうにもないのでな」 驚いたように瞳を見開いたオスカーの返事を待たずに踵を返す。 「……行くぞ」 前を進むジュリアスの後ろ姿を見つめながら、オスカーもやっと苦笑を漏らす。 何も言わない。何も聞かない。 その心遣いが、ひどく心地好かった。 ジュリアスの優しさは、時にひどくわかりにくい。 彼の傍らで過ごすようになって始めて知った、意外に不器用な一面。そんなところもまた、好ましいと思う。 誤解されやすいという点では、ジュリアスはクラヴィスによく似ているのかもしれない。 「…ありがとうございます…」 幾重もの意味を込めて、小さく告げた。 その届くか届かないかの小さな礼の言葉は、ジュリアスの耳に届いてはいたが返事はしなかった。 何故、想う人がそなたと同じなのだろう。 ……複雑にもつれた糸のような感情を持て余し、考えても仕方の無いことを考える。 全てと引き換えにしても、手に入れたいと願う人。 けれど、友人であるお前を失いたくないとも思っている自分がいる。 戸棚から無造作に数本のボトルとグラスを引き抜き机の上に並べると、ジュリアスは黙ったままふたつのグラスに手近にあった酒を注いだ。 なにも言わずに、その酒を口にふくむ。 喉を灼く強い酒に、ようやく思考が正常に働き始めた。 謹厳実直で知られるジュリアスと、日も落ちぬうちから、執務室で酒を酌み交わしている。 ……坊やたちが見たら、さぞや驚くんだろうな。 小さく苦笑して、オスカーは杯を重ねた。 沈黙は、決して気まずいものではない。 ただ、彼から伝わる気配が優しかった。 ――幸せものだな、俺は失くしたくない、と。 虫のいいことを思った。 叩きつけられた扉。 オスカーの想いが込められた音。 だが、私には、何もできない。下手な慰めや同情は、オスカーを更に傷つけることになるだろう。 しばらくすると、隣の執務室の扉が開けられた事に、クラヴィスは気付いた。 あれだけの音を出せば、ジュリアスも気付くか。どう出る? 扉の向こうから話し声がクラヴィスにも聞こえたが、内容までを聞き取る事が出来ない。 そして、二人分の足音がジュリアスの執務室へと消えた。 ジュリアスがオスカーを誘ったのか? 互いに認め合っている二人のことだ。 誰よりも気持ちがわかるのであろうな… 彼らを追い詰めている私がこう考えることは、不遜か… オスカーを…おそらくジュリアスをも苦悩させているのは、他ならぬこの私のなのだから。 あの二人今頃は…黙って酒でも酌み交わしているやもしれぬな。 私が行った所で…仕方なかろうが……せめてもの罪滅ぼしに陣中見舞いでもさせてもらうか。 クラヴィスは、立ち上がり酒棚から数本のボトルを取り出すと両手に抱え、執務室を後にした。 隣の執務室の扉を開けるとアルコール臭が鼻をつき、思わず顔をしかめる。 この短時間でどれほど飲んだのか? それに鍵も掛けぬとは無用心な…誰かに見られでもすれば、首座の威厳も何もあったものでないはないぞ。 執務室の鍵を掛けるとクラヴィスは、二人に歩み寄った。 NEXT |