どれほど意識を失っていたのか、気付けば闇に包まれ夜の獣の鳴き声が森の中で木霊する。
ゆっくりと身体を起こし、背後の大木にもたれると天空に輝く星々を見つめる。
「オスカー…おまえを忘れ去る事ができたなら、胸の痛みを感じることもなかろうに…私だけが過去に取り残されている」
暗い気持ちに陥りながらも、二人を見た瞬間の息苦しさは、すっかりと影を潜め落ち着いていた。
意識を失う寸前に見た人影と腕のぬくもりのせいか? 何かを言われた気がするが思い出せない。
誰だったのか? あのまま身を委ねたいほどに限りない優しさと切ない想いの主は…
周囲に光の残滓を感じる。ジュリアス? まさかな…あれががあのような温かさを持つはずがない。私を弄び欲望の吐け口としか捉えていないのだから。
ならば、森の優しさが生み出した幻であったかもしれぬ。聖地で育った自然ならば、慰め癒す不思議な力ももっていよう。
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気を抜けばジュリアスの鋭い視線が躊躇なく襲いかかる為、自分でも呆れるほど真面目に執務を行う。
そのせいか、渡される仕事の量が数倍になっている。うんざりしながらも、何かに没頭していれば現実を忘れる事ができると、黙々と執務をこなしていた。
そんな日常が繰り返し流れてゆく。
「完璧な仕上がりだ。ご苦労であった」
差し出した書類のチェックを終え顔を上げたジュリアスは、柔らかな笑みを見せる。皮肉や厭味でない本心から思っているのが分かった。
ジュリアスの笑みだけでも驚きに値するが、今まで褒められたり労いを掛けられた事があったであろうか…認められたようで嬉しいのだが…何とも奇妙な気分だ。
「おまえにそう言われると…何やら恐ろしいものがあるな」
「人の賞賛は、素直に受け取れ。早々褒める事もないであろうしな…これだけ出来るのであれば、もっと早くからさせればよかったと後悔している。そすれば私も楽が出来たであろうに」
ニヤリと笑みを浮かべたジュリアスに苦笑を返す。あの夜以来、緊迫した関係を続けていたのが嘘のように、何ゆえか何処か穏やかとも言える空気が漂っていた。
不意に、職務怠慢となじりながらも決して押し付けて来なかった事実に、今更ながら気付き愕然とする。私がやらぬだろうと思い込んでいたとも取れるが、それでも長い間執務を全てやってきてくれたのか…
自然と謝罪の言葉が口をつく。
「すまなかった…」
「何を言うかと思えば、くだらぬ。これからもこの調子で執務をやる事で償えばよい」
「できる限りやらせてもらおう」
「期待している」
紺碧の瞳が優しい色を作る。オスカーと別れた雨の夜に抱きしめてくれたジュリアスがそこにいた。
あの時の腕が温かかった事を何故忘れていたのか? あまりに冷酷な仕打ちばかりだったから、記憶の奥深くにしまいこんでいたのか?
彼の持っていた優しさを…
「どうした? 何を考えている?」
訝しげに眉をひそめるジュリアスに力なく首を振る。
「何でもない…人の記憶のあやふやさを改めて思い知ったようでな」
「記憶だと?…何か思い出したのか?」
硬い口調と探るような視線に戸惑う。何を思い出したと思ったのだ? その言い方では、ジュリアスが覚えていて私が忘れている事があるような…
「我々の間に何かあったのか? 私が忘れている事が…」
「…何も無い。気にするようなことはな」
覇気の薄れた口調が嘘だと告げていた。何かを隠している…とても重要な何かを…
「おまえらしくない答え方だな…何を隠している?」
答えの替わりに立ち上がったジュリアスが近付いてくる。
反射的に逃げを打ちそうな身体を叱咤しその場に留まった。真っ直ぐに見つめてくる怖いほどに真剣な瞳から目を逸らす事が出来ない。
ジュリアスは、触れる程度の口づけを寄越した後に耳元で囁く。
「知りたくば…そなた自身で思い出せ」
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『知りたくば…そなた自身で思い出せ』
言葉が脳裏を離れない。執務中も私邸で寛ぐ時間さえ、迫るように追いかけて来る。
何があったのか知りたい気持ちは、確かにある。だが、あの夜のつらい記憶を刻んだ心が、思い出す事を拒み続ける。
ジュリアスは、顔を合わせる度に冷笑のような、苦笑のようにも見える複雑な表情を作り出す。
何か言いたげでありながら執務以外の事は、決して話そうとしない。
それどころか用件が終われば即座に背を向け、早々に立ち去れと言わんばかりの行動を取る。
私を疎んじてでなく、そう…何処か後悔しているように見えた。
本当は、私が思い出すのを望んでいないのだろうか?
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聖殿の奥庭にある木陰にもたれ花々を見つめても、ジュリアスの言葉と表情が心を占める。
温かな腕と冷酷な仕打ち。思い出せと迫りながら後悔の表情。
相反する行いをするおまえの思惑は? どちらが本当だ?
私は、どうすればいいのだろう……
思い出すべきなのか? 思い出して何になる?
何かが変わるのか? 何が変わるのか?
何の為に思い出そうともがいている?
亡くした記憶の中にジュリアスの真実があるから?
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ふと名前を呼ばれたような気がして顔を上げた。そこに心配気に私を見つめるかつての恋人を認め、驚きに呆然と名を呟く。
「オスカー……」
「如何されました? この雨の中では、お風邪を召すと…つい声を掛けてしまいましたが」
「雨?」
彼の言葉に空を見上げるといつの間にか小雨が降っていた。葉の合間から落ちてきた雫で髪も衣装も重さを増している。
以前にも似たような事があったな……あの時、考えていたのは目の前のオスカーの事、声を掛けたのはジュリアスだったが。
「やはり気付かれていませんでしたか。何かに気を取られるとご自分の世界に入ってしまわれる…変わりませんね」
以前のような親しげな口調、懐かしむような笑み。先日までの態度が嘘のように穏やかだった。私に対する怒りが溶けたのか?
「雨脚が強くなってきました。急いで中へ参りましょう」
自然な仕草で自分のマントを私に被せ、手を引き聖殿へと導く。久しぶりに触れるオスカーの優しさに戸惑い、言葉が掛けられない。
走りだすと同時、空に雷鳴と共に稲妻が描かれ、その輝きに目を奪われた瞬間、ある光景が甦った。
濡れた私を抱きしめた腕。何度も髪を撫で続けた指。
そして……
『私が守ってやろう…永劫の時を賭けて。愛している……』
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