本当は、断りたかった。
  を病院の前で待ち伏せしていた沢木と言う男の言葉を。
  自分の主人が、再びと会いたがっているので会って欲しいと、沢木は言った。
  断ろうと口を開く直前に、が来なければ自分が酷く叱られてしまうので、助けると思ってついてきて欲しいとまで言われた。
  としては、沢木を助ける理由など何処にもなく、いや、むしろ昨日はこの男のせいで、仕事を遅刻する羽目になってしまって、恨みはあっても恩はない。
  とはいえ、はどうも人の良い性格であるようで。
  そこまで言われると断りづらくなってしまい、彼の言葉にうなずくのだった。

そして、再び訪れる事になってしまった、その屋敷。
  早く話を終わらせてしまおうと、はその屋敷の門をくぐりながら思った。

 昨日と同じリビングらしき場所に案内された
やはり、昨日と同じ中年夫婦がを待ちうけていた。
  リビング中央に据え付けられているソファーに座らされ、高級そうな菓子やお茶が振舞われるけれど、それに興味はわいてこない。
「一体なんの用ですか?」
  は、先制の言葉を目の前に座する中年の夫婦、夫妻に向けた。
  けれど…。
「まあ、お茶でも飲んで落ち着いてから話そう」
  そんな以前聞いたときとはまったく違う、穏やかな声、やさしげな笑みで、夫の修一は言葉を返した。
  しかし、はぴしゃりと言い返す。
「夜からは仕事があります。昨日の様に遅刻する訳にはいきませんので、話は手短にお願いします」
  毅然とした態度でそう言われれば、のんびりと話をするという訳にはいかなくなったらしく、修一は表情をまじめなものに変えてを見やった。

「君に、娘の代わりをやってもらいたい」

 修一の言葉に、やはりなという心の声が、の脳裏に響いた。
  鋭い視線をに向けて言う修一。
  も、その視線に負ける事無く見詰め返す。
「お断りします」
は。一刀で切り捨てるような即答をする。
  しかし、それすら修一の想定範囲内だったらしい。
「成功報酬は君が欲しいだけ出そう」
  それは、を釣る為の言葉。
  修一達は、の身辺を調べ上げていた。
  彼女が、お金に困っているという事を、知っていたのだ。
  しかし、は頭を横に振って言う。
「どんなにお金を積まれても、そんな事出来ません。だいいち、なんで私が貴方達の娘さんの代わりをしなきゃならないんですか?」
  目の前の夫婦が、お金を払ってまで何故自分を娘の代わりにしたいのか、訳が解らない。
「娘のは、三ヵ月後に結婚する予定になっているの」
  の問いに、答え始めたのは修一の隣に座っていた妻の深雪だった。
「来月には、その方と新居で暮らし始める予定なのよ。でも、は突然 姿をくらましてしまって……」
  深雪の言葉を聞いて、は理由がなんとなく解ってくる。
「つまり、さんが見つかるまで、私がさんの振りをして、結婚相手を騙せと…それが成功したならばお金を払うと…そう仰るのですね?」
  要点だけをかいつまんで、夫妻に言い放つ。
  すると二人はそうだと頷いた。
「ならば、なおさらお断りします。人を騙すなんて、そんなの犯罪みたいじゃないですか。私には出来ません」
  はそう言って頭を振る。
「ただ、が見つかるまでの間、目くらましになってくれればそれで良いんだ。が見つかれば、入れ替わって今までどおりの生活に戻ればいい」
  修一は、に懇願するかのように言葉を向ける。
さんが見つかるまで…って……、一体どれだけ時間がかかるんです?」
  はそんな問いを掛けてみた。
「それは…解らない……」
  そんな、歯切れの悪い返答が、修一から返ってきた。
「なら、お話になりませんね。二月三月くらいなら、ボロを出さずに騙せるかもしれませんが、それ以上となると無理が出るでしょうし」
  それは、の考えた夫妻を諦めさせる言葉だった。
  しかし、その発言が思わぬ事態に発展する。
「二月三月くらいなら……やれるの?」
  深雪がそんな問いをにかけた。
「え…」と、思わず困惑する
「二月三月くらいなら、騙せるかもって…貴方自分で言ったじゃない。その期間でいいわ、娘の代わりをやって頂戴」
  の紡いだ言葉の一片を聞き逃さず、がそんな事を言い出す。
「ちょ…ちょっと待って下さい。それはただの言葉の文で……」
  慌てては言葉を訂正するが、効果をなさないようで。
「三ヶ月、三ヶ月で良いわ。あの子が正式に結婚するまでの準備期間の間だけ。騙しとおせたら、あなたの妹さんの医療費、全額を面倒をみてあげる」
  深雪の口から放たれた言葉に、は驚いた。
  何故、自分に妹がいること、そしてその妹に医療費が必要である事を知っているのか…。
  そんなの驚きの理由に、深雪は気づいたようで。
「悪いとは思ったんですけど、あなたの身辺については調べさせてもらったわ。 妹さん、白血病なんですってね」
  深雪から放たれた言葉に、の心臓がドクリと音を立てた。
「白血病って、とてもお金がかかる病気なんですってね…。しかも あなた、ご両親も頼れる親戚もいないそうじゃない」
  さらに深雪は言葉を重ねる。
  それを聞いたの心臓の音が早くなってゆく。

「臍帯血移植……、出来るようにしてあげるわよ。させてあげたくても、あなたの財力じゃ、無理だったんでしょう?」 
  深雪のその言葉は、の思考を麻痺させてしまう麻薬のようなものだった。
  白血病に効果の高い、臍帯血移植。
  深雪の言うとおり、その手術を受けさせたくとも、の稼ぎではどうしようもならず、諦めていたもの。
  投薬治療でも、治る見込みはあると言われてはいる。
  けれど、投薬治療よりも、臍帯血移植の方が治る確立は高いらしい。
  深雪の言葉に、の心が揺れる。
  そんなに、深雪は更に追い討ちをかけた。
  が一番言われて弱いその言葉を…。
「妹さんの病気、治って欲しいんでしょう?」
  その言葉は、の心を揺さぶるのに十分すぎるものだった。
  深雪から向けられる視線に耐え切れず、は俯く。そして、考え始めた。

 人を騙す…という行為は、やってはならない悪い事。
  それは、生前の父がに言い聞かせていた言葉。
  だが、は思う。
  仕方がないのかもしれない。
  を救う為に必要な事であるならば、人を騙す事も已むを得ない事なのではないかと。

 そんなの様子を見て、深雪はソファーから立ち上がり、ゆっくりとのもとへとやってくる。
  そしての隣に座り、その肩を抱き寄せて耳元で囁く。
「貴方が今ここで頷けば、ちゃんの助かる可能性はもっともっと高くなるのよ」
  深雪から放たれる言葉は、毒のようにの心を蝕んで。

 気が付けば、は首を縦に振り、「わかりました…」と言葉を返していた。

 *

 そして、夜から仕事があるという事なので、詳しくは後日と、を帰してやる事にした夫妻。
  二人きりのリビングで、最初に口を開いたのは夫の修一だった。
「うまくいったな……」
  ふっと笑みをこぼして修一がいう。
「あの娘が単純で助かったわ」
  深雪もそう言うと口元を緩める。

 実を言うと、一月であろうと、の替え玉でいてくれさえすれば、夫妻の目的は達成された事だった。
  が跡部財閥の御曹司との結婚を前に失踪した事、そしてその理由の二つさえ隠し通す事が出来ればよいのだから…。

 跡部財閥の会長から、彼の息子ととの結婚を持ちかけられた時、もうとっくにには末を誓った男が居た。
  しかし、跡部財閥という巨大な権力を持つ家と親類関係を持てるチャンス。
  それを逃す手などあろう筈もない。
  修一は、一も二もなく頷いた。
  と恋人は別れさせようと、そう思いながら。
  そして勝手に結婚の日程まで全て整え、その話をに持ちかけた。
しかし、がそれを拒絶しないわけがない。
  だが、全て整ってしまった結婚への日程。
  家の為に…と、そう泣き落としまで加えれば、娘は折れてくれると……そう思っていた。
  しかし、は頷いてはくれなかった。
  愛する人と結ばれる事を望んだのだ。
  そしては姿をくらましてしまった……。

 夫妻が焦ったのは当然だろう。
  大財閥、跡部家の嫁入りが決まっているというのに。
  早く探し出して説得しなければならない。
  しかし、方々探しても見つからない
  そんな時、見つけたのがだった。
  娘に瓜二つの少女。
  娘の振りをして、跡部家の御曹司と暮らさせ、その後突然姿をくらましたように見せかける。
  そうやって、相手方にも非があったかのように見せかければ、家だけの不祥事だとは思われないだろう。
  そして、今度は堂々とを捜せばいいだけの話。
  後は、が三ヶ月という期間、として跡部の御曹司と暮らしているだけでいい。
  どうせ先方はがどんな性格であるのかすら知らないのだ。
  顔だけは、写真を送ってあるのでどうしようもないが、瓜二つのなら問題はない。
  入れ替わった後に、性格の違いで問題が起こるかもしれないが、事故で記憶喪失とでも言って、それらしい事を言う医者でも付ければ、さほど問題もないだろう。
  がボロさえ出さなければいい。
  夫妻はそう考えた。

 そして、計画は実行に移されるのだった。








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