季節は、梅雨。
  雨が降るこの季節は、じめじめとしていて気持ち悪いものだ。今日は雨は降ってはいないが、やはり湿気を帯びた空気が体にまとわりつき、その熱が体から水分を奪ってゆく。
  昼下がりの、一番気温が高くなる時間帯。
  しかし、彼女はそんな中、働いている。
  工事現場という、女性には少々辛いであろうその場所に。
  きつい、くさい、きけん。
  3K付く、ビルの工事現場。
  周りを見れば、男や中年過ぎの女性ばかりで、少女であるのは彼女一人。それでも、彼女は必死に働いている。
  名前は。歳はまだ、16歳。
  薄汚れた作業服に身を包んでいるというのに、整った目鼻立ちの美しい見目に目を惹かれない者はいない。
  黒鳶色の瞳と、腰まで届く黒髪がとても印象的な少女だった。
  16歳と言えば、まだまだ学生である歳。夏休みでもない今の時期、は学校にも行かずに働いている。
  それもそうだろう。
  には自身を庇護する両親という存在がない。あるのは、彼女が庇護しなければならない、まだ14歳の妹 だけ。
  と同様、も見目の良い少女で、両親が健在であった時は美人姉妹だといわれたほどだった。
  しかし、その妹も今では病に侵され入院中だは、妹の入院費を稼ぐ為に、この場所で必死に働いている。
  ここだけではない。
  ここでの仕事が終われば、居酒屋での仕事が待っている。
  朝は工事現場。夜は居酒屋。この二つを掛け持ちして、彼女は必死に妹を守っているのだった。

 深夜、居酒屋での仕事が終わり帰路に着く。
  帰り先はぼろぼろな四畳しかない広さのアパート。部屋のある場所は、半地下で、更に日当たりが悪いせいで、窓ガラスはあっても光は殆ど入ってこない。朝日が昇っても太陽は拝めない。
  ユニットバスと流し台があるだけ、マシな方。洗濯は近くのコインランドリー。簡単なものなら、手洗いで済ませてしまう。
  アパートに帰り着いたは、小さな冷蔵庫に、居酒屋で貰ってきた残り物を入れ込んでゆく。これで、明日の朝食と昼食は何とかなるだろう。
  そうやって、無駄な出費を減らす。
  の為に。

 猫の額ほどの押入れから、布団を取り出し寝る準備。
  汗をかいて気持ち悪いので、本当は風呂に入りたいが、今は深夜。隣近所の迷惑も考えて、朝、早めに起きて浴びる事にする。
  その隣近所が、朝早起きな老人達だけであるのは、もしかしたら救いなのかもしれない。
  でも、固く絞った濡れタオルで、体だけは拭いておく事にした。

 濡れタオルで体を拭いた分、気持ち悪さはなくなった。
  でも、今の季節、半地下のこの場所は蒸し暑い。寝ている間に、沢山汗をかくのだろう。
  眠れないかもしれないとも、布団に体を横たえながらは思った。それでも、今まで生きてきた場所よりもここのほうが幾らかましだ。
  無意味な暴力のないこの場所の方が、ましだった。

 は、このアパートに数ヶ月ほど前に住み着いた。
  妹、と共に。
  幼い頃に両親を亡くした、を引き取ったのは母方の叔母夫婦だった。世間体の為に。
  自分の姉の子達が児童養護施設にいては、迷惑だと…。ただ、それだけの為に引き取られた。
  姉妹を哀れんでなど居なかった叔母夫婦は、二人を酷く乱雑に扱った。
二人の住まいは、庭先のプレハブ製の物置。躾という名の虐待。
  しかし、それを隠して良い人面をする叔母夫婦。

 それでも、幼かったは、耐えるしかなかった。母方の叔母夫婦以外、頼れる大人は居なかったから…。
  父方に親戚が全く居らず、母方の親戚だけが達にとっての親戚。けれど、叔母夫婦以外、達を引き取ろうと考えるような人間は居なかった。

 当時まだ10歳にも満たない幼子だった、
  二人だけで生きてゆける筈がない。
  だから、耐える。どんな暴力も、酷い扱いも。
  大人になれば、こんな世界から逃げ出せる。

 そして数年後、二人は逃げ出した。
  それは、が16歳の誕生日を迎えた日の事。
  中学を卒業していたは、働く事を始めていた。稼ぎは、叔母夫婦に吸い取られてはいたのだけれど。
  どうにかこうにか、叔母夫婦の目を逃れて貯めたお金を持って、をつれて逃げ出した。
  叔母夫婦が、二人を探す可能性はあった。けれど、距離が遠く、人の多い都心へと逃げて行方をくらましてしまおうとは考えた。
  都心ならば、叔母夫婦がを捜そうとしても、簡単には見つからないだろうと、そうおもったのだ。
  それに、都心は中学を卒業したばかりのでもそれなりに働ける場所があるだろう。
  二人で幸せに暮らす為に、なりに考えてとった行動だった。

 まだまだ子供と言われてもおかしくない達でも、住む場所は探せば意外とあるもので。運が良かった事もあったかもしれない。
  月1万の安アパート。
敷金も礼金も保証人すら必要ない。そんな所だった。
  だからこそ、劣悪な環境ではあったけれど………。
  それでも、今まで暮らしてきたプレハブの物置よりはましだ。二人はそう思ってそこで暮らし始めた。

 そして、二人だけの生活を始めた間も無く…。
  は、病に倒れた。
  病名は、急性リンパ性白血病。それは、子供に起こりやすい、白血病の一つ。
  多額の医療費が必要な病気。しかし、逃げ出した手前、叔母夫婦に援助は頼めない。
  の肩に、妹の医療費が圧し掛かる。それをまかなう為に、は毎日のように働き続けているのだ。
  再び、妹と二人で暮らしてゆく事を夢見て…。

   *

 梅雨と言う季節でも、彼には何の関わりもない。クーラーの効いた会社で働き、通勤移動は全て車。あまり、外に出るような事はない。
  今現在、父親から会社を一つ任され、そのトップに君臨している。
  強い信念、発言力。
  彼の類希なる能力から生まれる統率力で、会社の業績は鰻登りだ。
  会社ビルの最上階奥に位置する社長室から、窓越しに雨に濡れるビルの森を見やる。
 
  彼の名は、跡部景吾。
  日本屈指の大財閥、跡部財閥の跡取り。

 文武両道、容姿端麗、そんな四文字熟語が並ぶ事を許された存在。更に、人を惹きつけるカリスマを持つ彼は、将来を有望視されていた。
  そんな彼を、放っておく者など、居る筈もない。特に、女性はそうだろう。うまく取り入れば、大財閥の会長夫人だ。
  更に、彼は一流モデルと並んでも、遜色しない美貌の持ち主。右目の下にある泣きボクロですら、彼の美しさを引き立たせる。
  それ程の美貌の男で、財力もあるのならば、妻の座を欲するのは当然の野心であろう。
  中学に上がり思春期を迎えた頃から、彼の周りには沢山の女たちが付き纏った。

 一時期、そんな自分にすら誇りを感じていた事も、事実。
  中高時代は、付きまとう女達の幾人かに手を伸ばし、利用し遊んでいた事もあった。
  気に入った容姿の女を隣に置いて、飽きれば捨てる。そんな事を繰り返したりと…。
  跡部の思春期は、女遊びの激しい思春期だった。

 けれどそのうち、何が足りないと感じるようになってゆく。
  どんなに極上の女を隣においても、女を抱いて快楽を極めても、何か足りない……。
  決定的な、何かが…。
  そう感じはするものの、その足りないものが何なのか解らない。

 そのうち跡部は、まとわり付く女達全てを一蹴するようになった。
  決定的な何かを与えてもくれない女なぞ、必要もない。
  そう考えて……。
  女達はそれでも怯む事をしないのだけれど。
  大学を卒業し、社会へ出ても、跡部によってくる女達の数は減らない。
  それどころか、増える一方だ。それが鬱陶しくてたまらないのだが、のらりくらりとかわしていた。
  しかし、女たちは引き下がらない。
  醜い女の野心をその身に隠し、跡部に近づいてくる。
  正直、そんな日々にうんざりしてきていた。

 その日の仕事を全て終え、自宅へと帰りついた跡部。今日は運良く早く帰宅できた。
  そんな彼を待ち受けていた人物が居た。
  彼の両親だ。
普段父親は忙しく世界中を飛び回っているので、なかなか家には帰ってこない。家に居るのは、母親だけ。
  父親は、引退した祖父に代わって、跡部財閥を取り仕切っているのだから、余計に忙しいのだ。
  ちなみに今現在、祖父母は地中海にあるとある島で、老後を過ごしている。

 親子三人、一堂に会するのは何年ぶりなのだろうか。三人で過ごすには広すぎるリビングの中央。そこに据えつけられたソファーに三人は座っていた。

 突然前触れもなく帰ってきた父。だからこそ、不思議に思った跡部は父に突然の帰宅の理由を問うた。
  その問いに帰ってきたのは彼の驚く言葉。

 彼の結婚と、結婚相手が決まった。
  そんな言葉だった。

 別に、それを跡部が予期していなかった訳ではない。こんな家に生まれれば、結婚相手が自由にならないであろう予想は付いた。
  自分も26歳。結婚適齢期だ。
  事実 沢山の縁談が、彼の元には舞い込んでき ていた。それでも、彼は妻を選ぶ事はしなかったけれど。

 おそらく、そんな彼に痺れを切らしたのだろう。跡部の知らぬ間に、父は勝手に縁談を纏め進めてしまっていたのだ。

 もう、とっくに結婚の日取りまで決まっており、新居も出来上がっていると言う。 跡部は結婚相手が誰だかも知らされていないと言うのに……。
  全ては決定事項だと、そう言い放たれてしまえば、跡部に拒否権など与えられない。
  この跡部家で、父の命は絶対なのだから。
  そんな父から、逃れて家を出ればいいと、思わないこともない。
  だが、今の跡部は500人以上の社員を抱える会社の社長。
  そんな社長である跡部が全てを放棄したならば、どうなるか……。
  考えるまでもなく解る。
  責任感の強い跡部には、それが出来ない。
  彼の父親はそれすら見越していたのだろう。
  策士な父親に半ばはめられた形で、跡部は妻を持たざる終えなくなったのだった。

 跡部の妻となるのは、
  今現在、石油王として名高い、家の一人娘。
  石油王といえば、聞えは良いが、早い話が石油成金。少ない資産で工場を起こそうと、中東のとある一角の土地を買ったところ、そこから石油が出てきたという。
  財閥と比べれば、血筋など庶民と変わらない家の出ではあるが、この世界で最も必要とされるエネルギー源である石油の油田を持つ家だ。
  婚姻で、親類関係を結べば、それに付随してくるものは大きい。

 は高校を卒業したての18歳。正直、歳の差がありすぎる結婚だと、誰もが思うだろう。
  しかし、家の有する油田から生み
出される利益は、跡部家の繁栄を数代先まで約束するものだ。
  家にとっても、跡部の家の名は、己が一族の権力を更に強くする事が出来る。
  そのように、双方の利害が一致していた為か、ありえないほどスムーズに、事は流れていた。

 もう、一月後には同棲を始め、その三月後には式をあげ、籍を入れる。そんな算段になっていると、跡部は父の口から告げられた。
  まったく、スピード結婚も良いところだ、と、跡部は顔に出さず心の中でだけ苦笑。
  顔をあわせるのも、一月後の同棲を始める初日であるらしい。
  大昔の結婚を思わせる状況に、戸惑わない筈はない。おそらく、相手の方もそうではないのか?
  いや、逆に喜んでいるかもしれない。何せ、日本屈指の大財閥の会長夫人に納まれるのだ。石油成金の子にしては、大きな出世であるだろう。
  そう考えると、跡部は酷く卑屈な気分になってくる。が、だからと言って子供のようにグレる事など出来はしない。
  そんな事が許される歳でもなければ、立場でもないのだから。

 全ての話が終わり、自室に戻った跡部。漏れるのは小さなため息。
  女々しいとは思ったが、吐いてしまったものは仕方がない。
  唐突に決まった自身の結婚。しかし、それも家の為には仕方のない事。
  それに、父の気持ちも解らないではない。
  今は繁栄を極める跡部家でも、ある日突然、何かが起こって破綻してしまうかもしれない。
  世の中は何が起こるかわからないのだ。
  子や孫、出来る事なら子々孫々、安定した生活をさせてやりたいと考えるのは当たり前の事。
  その為に、必要な結婚なのだと、父は考えたのだ。
  ただ、今の為だけではなく、未来を考えて父は動いている。

 だから、跡部は自分の身に起こった事を悲観するより受け入れる事に決めた。








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