その日の深夜、は、雨の中傘を差して帰宅の途についていた。
深夜に少女一人なので、少々恐ろしいが、今は人の気配を感じないので、その身に危険は迫っていない。
とはいえ、あたりの様子に出来るだけ注意して、急ぎ足でアパートへの道を歩く。
雨音が支配する世界で、水を撥ねるの足音だけが鮮明に聞えていた。
暫く歩いていると、突然雨脚が強くなる。
バケツをひっくり返したような、そんな豪雨。は、歩みを少し早くする。
アパートまではまだ先だ。早く帰って、体を拭いて、あったかくしてなければ、風邪を引いてしまう。
そう考えて、はアパートまで急いだ。
の歩く道筋に、街灯の立つ曲がり角があった。
アパートへは、その曲がり角は曲がらず真っ直ぐ行くのだけれど。
強くなった雨脚もあり、は急ぎめにその曲がり角を通り過ぎようとする。
その時だった。
ドンという、体に響く鈍い衝撃。
「あっ」という二つの声。
衝撃に弾かれたが、はどうにか踏みとどまった。
傘を取り落とさなかったのは幸いだ。
「いったぁ…」
そう言いながら、に衝撃を与えたその相手を見ようとしたが、相手は急いでいるのかあっという間にその場から走り去ってしまった。
はその後姿に視線を向ける。
顔は解らないが、自分と同じ背格好で髪の長さの女性のようで。
詫びもなく逃げてゆく彼女に腹が立ったが、走り去ってゆく彼女を追いかけて文句を言う気にもなれない。
は、ただ呆然と女性を見送る。
しかし、すぐに我に返った。
そういえば、彼女はこの雨の中傘も差さずに走っているのか……。それが疑問として湧いてきたのだ。
何か急ぎの用があるのか、誰かに追われているのだろうか……。
誰かに追われている、そう考えると、なんだか怖くなった。
もしかしたら、彼女を追ってる何かがここを通るかもしれない。
そんな事が頭をよぎり、はその場から慌てて立ち去った。
少し小走りで、アパートへと向かって……。
アパートに返りついたは、土砂降りの雨で濡れてしまった衣服を脱ぎ去り、頭や体に纏わりつく雨の雫をタオルで拭う。そして、寝間着に着替えて眠る事にする。
シャワーが浴びれないのが残念だが、仕方がない。
は布団を敷き、その布団に潜り込む。布団の中で、降りしきる雨の雨音を聞きながら、は思う。
先ほどぶつかった女性の事を。
こんな深夜に走っていた女性。一体どうしてなのだろう…。
気になる事は沢山あったが、今更彼女に問う事など出来る筈もなく。
何より、彼女の顔を見ていなかったのだから、探せる訳もないのだし。
そう考えてしまうと、詮無い事だとは思い、考える事を止めた。
明日も朝は早い。早く眠らなければ、朝が辛くなるだけ。
は瞼を閉じ、眠りの園へと向かう。
知らない間に運命の歯車が回りだした事に、気付くこともなく………。
それから、三週間ほどがたった頃。
梅雨明け宣言はまだされておらず、雨の振る日々。
朝、目覚めたは、起き抜けのシャワーを浴びる。シャワーでさっぱりとした所で、朝食と昼食の準備。
夜、居酒屋でバイトしているだけあって、残り物を毎日もらえて助かる。
朝食も、昼食も、それを利用するのだ。
夕食は、居酒屋のまかない。
食事補助がつく、なんともには嬉しい仕事先だ。
まぁ、それがあるから決めた仕事ではあったのだけれど。
昼食を弁当箱に詰め、朝食を食べる。
テレビも何もないから、無音の四畳間。
たった一人、だけの食事。
妹のと一緒であった時は、これほど静かではなかったのに……。
寂しいと、思ってしまったけれど、我慢しなければならない。
のほうが、もっともっと辛い思いをしている。病魔に冒され、病院で闘病生活を送っているのだから……。
本当なら、毎日お見舞いに行ってやりたいなのだけれど、二足の草鞋で働いている為、それもままならない。
しかし、それでも時間を作っては、の居る病院へ見舞いに行くのだ。
そしては仕事へと出かけていった。
雨は降り続き、そんな中でも雨合羽に身を包んでは仕事をする。沢山の男性や中年女性達に混じって、一人健気に働いているのだ。
どんな辛い仕事にも、音を上げずに頑張る姿は、同じ現場の男性達だけでなく、女性達にも随分と人気があった。
現場で、はとても可愛がられていた。
そのお陰か、は仕事での人間関係に苦労する事は少なかった。
今日の仕事は、昼まで。現在の現場での仕事は今日までらしい。
次の派遣先は、まだ決まっておらず、お金が欲しいには少々困った状況だ。
もちろん、早めに派遣先を探すと、上司は言ってくれているが、それでも時間はかかりそうらしい。
まぁ、これだけはにはどうしようもない事で。
派遣先さえ見つかれば、暫くは安定した収入を得られるのだけれど……。早く派遣先が見つかってくれるのを祈るしかないのが現状だ。
仕事が終わり、時間は随分と余った。
今日はの見舞いに行ける。
派遣先が見つかるまでは、の看病をするのも良いかもしれない。
そんな事を考えながら、は仕事着から私服に着替え終えると、職場を後にした。
途中で、遊びに行かないかと同僚に声を掛けられたが、妹に会いに行くと断った。
「お姉ちゃん……」
病室のベッドに横たわるは、を見てにこりと笑う。けれど、その笑みはとても脆弱で。
どうやら熱を出しているらしい。
はに笑みを返し、ベッドの傍にあった丸椅子に腰掛け、の頭を優しく撫でる。
「ずっと、熱が出てたの?」
そんなの問いに、はコクリと頷く。
「ごめんね…なかなかお見舞いにこれなくて……」
妹が熱を出して苦しんでいると言うのに、傍に居られない。それが辛くてたまらないけれど、自分が働かなければ、の医療費は稼げない。
「謝るの、だよ…。が病気になったせいで、お姉ちゃんが辛い思いしてる……」
弱々しく、が言葉を紡ぐ。
「お姉ちゃんはちっとも辛くないよ。が元気になるのなら、どんな事でも辛くないの。頑張れるの。だから、そんな顔しないで……」
悲しそうに眉をしかめているの表情を見て、がそう言葉を返す。
「ごめんね、お姉ちゃん……。お姉ちゃんばっかり、いつも辛い思いしてる…」
そう言うの目尻から、涙が零れ落ちる。
「泣かないで、。が居てくれるなら、お姉ちゃんは辛い事なんて何もないの。 が居なくなる事の方が、お姉ちゃんは辛い…。だから…、だからは病気を治そう?そして、二人で一緒に暮らそう? ね、……」
の涙を指先で拭い、再びその頭を撫でてやりながら、は優しく言葉を紡ぐ。
するとは、うんと小さく頷いた。
「今日はまだ暫く一緒に居られるからね」
に笑いかけながら、は更に言葉を重ねる。
再びが頷いて、安心したように瞼を閉じた。が、すぐにその瞼を開く。
そんな彼女の様子に驚き、は小首をかしげた。
「お姉ちゃん、手…ぎゅっとしてて……」
そんな風に言いながらはに手を伸ばす。
はにっこりと微笑んで伸ばされたの手をそっと握る。
するとは、安心したように再び瞼を閉じる。
それから間もなく、は眠りの園へと落ちてゆく。その様子を見たは、フッと微笑んで、空いているもう片方の手で彼女の頭を撫でてやる。
今日は、時間ギリギリまで居てあげよう。
そんな事を思いながら……。
*
眠っているを見守っていると、病室に顔見知りの看護師が入ってきた。どうやら、の主治医から話があるらしい。
はぐっすりと寝入っているので、起こさないようにこっそりとは病室を後にする。
そして、看護師の後を付いて主治医の元へと向かうのだった。
診察室で、の主治医と対面する。
なんとなく、はこの主治医が何故自分を呼んだのか、察しがついていた。
「……今後の、ちゃんの治療についてなんだけどね…」
主治医がそう口にした時、は やはりとそう思った。
「すみません…、足りない医療費がある事は重々承知しています。でも、ちゃんと払います。どんな事をしてでも、ちゃんと払いますから、このまま治療を続けてください!」
には総主治医に頭を下げて頼むしか出来ない。
足りない治療費がある為に、への治療が続けられないと、主治医は言いたいのだ。
だが、そんな事をされてしまっては、の病気は治らない。治らなければ、は死んでしまう……。
朝も昼も働いているのに、それでも追いつかない、の医療費。
今でも足りない分があり、滞納しているくらいだ。
だからといって、見捨てられるわけには行かない。
は、にとってたった一人の肉親なのだ……。絶対に失いたくない家族なのだから…。
しかし、どんなに努力しても、どうしても赤字が出てしまうのだ。
とはいえ、16歳では借金すらすることは出来ず……。
「……大丈夫、かい?まだまだ、治療には時間がかかるんだよ?このまま治療を続けるとなると、更にお金が掛かる……」
主治医の問いの意味はすぐに解った。
一人で、働いて稼げるのもなのか?と問うているのだ。
医療費は、毎月毎月、の病が治るまで払い続ければならないのだから……。
どんなに働いても、自身の生活費もの医療費もとあれば、足りなくなる。
しかし、かといって頼れる身内は一人も居ない。
こんな現状で、一人で稼げないと弱音を吐いても仕方がないだろう。
だから、は主治医を真っ直ぐ見据えて言う。
「はい、大丈夫です。どんなに時間がかかっても、医療費はちゃんと全て払います。先生達にご迷惑をおかけしてしまいますが、どうか…どうか、を助けてください…」
妹だけは…、だけは失いたくない……。
そんなの気持ちを、主治医も理解してくれたらしい。
どんなに滞納しようと、完済する気持ちがあるようだから、このままへの治療を続けると……。
そしては主治医との話を終え、診察室を後にする。気が付けば、もう夜の仕事に出かけなければいけない時間だ。
少しだけ、の顔を見て仕事に出かけよう。
そう思って、はの居る病室へと向かうのだった。
病室のはまだ眠っていて、幾らかほっとする。主治医に呼ばれたと知れば、は余計な心配をするだろう。
に余計な心配は掛けたくない。病気を治すことに専念してもらいたいのだから。
「じゃ、また来るね」と、小さな声で眠るに声をかけて、は病室を後にした。
仕事先の居酒屋まで、病院からは電車を使わなければならない。電車に揺られながら、は考えていた。
この先の事を。
限界のある自身の稼ぎ。どうにか増やせないかと考える。
もっと、安定して沢山稼げる仕事先を見つけなければ、無理だろう。
工事現場の仕事も、それなりに稼ぎはあるのだけれど、現場がおわって次の現場へ行くまでに仕事のない期間が出来てしまうのが難点で。
なら、夜の…所謂 水商売というものをやろうか…。
本来なら、そんな仕事に付くことが許される歳ではないが、歳を誤魔化せば…。
そうこう考えていたら、目的の駅に電車が到着した。
電車から降りて、駅の改札口を抜ける。そして、仕事先までの、見慣れた道を歩く。
と、その時だった。
「お嬢様っ!」
そんな声が、の横から聞えたかと思うと、腕をぐいとつかまれた。
突然の事で、は一瞬頭が真っ白になる。
呆然としたままの状態で、は自分の腕を掴んだ人物を見上げた。
年の頃は40代位だろうか…。黒髪の男性がを見詰めている。
「やっと見つけました……。こんな所にいらっしゃるなんて……」
男性がそんな言葉を紡ぐ。
そして、の思考がやっと戻ってくる。
「人違いですっ!」
は思わず叫んだ。
「何を仰っているんですか、お嬢様。そんな見え透いた嘘をついても無駄ですよ」
男性はそう言い放つと、の腕をぐいぐいと引いて歩き出す。
「え、ちょと…、嘘じゃないですっ! 私は、そのお嬢様って人じゃ……」
の言葉に男性はちっとも耳を貸さない。
「はいはい、解りました。言い訳はお父様とお母様の前で仰ってくださいね、お嬢様」
ぴしゃりとそう言い放ち、そして、見るからに高級そうな車にを押し込めてしまう。
男性はの隣の座席に乗り込み、運転手らしき人に車を出すように指示をする。
車は動き出し、はあっという間に、見ず知らずの男に連れ去られてしまうのだった。
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