禁断の放課後
出会いは突然やってくる。
それは偶然か、運命か。
神の悪戯に引き寄せられて
ぼくはあなたに出会った。
聖女のように凛として気高く
聖母のように優しく微笑んで
娼婦のように淫らで蟲惑的な人。
一目でぼくはもうあなたの虜。
二度と抜け出せぬ禁断の恋。
たとえ、それがソドムの罪であっても。
あなたが空を翔びたいというのなら共に。
あなたが川の流れに身を投じるなら共に。
この想いと共に何処までも堕ちていこう。
その先が天国でも地獄でも構わない。
それこそが、ぼくの幸せ。
午後の授業を終えて、ぼくはいつものように寄宿舎に戻った。
昨日は夜遅くまで本を読み耽っていたので眠い。
夕食まではしばし時間がある、束の間でも休息をとるか…などと目をこすりながら考えながら。
部屋のドアを開けた。
「……誰だ!」
鋭い声がして、はっとする。
すぐに辺りを見ると、そこはぼくの部屋ではなかった。
そして、部屋の中心で椅子に座っていた人物がこちらを振り向きながら僕を睨みつけている。
しまった、と思った。
ぼんやりして部屋を間違えてしまったらしい。
「あ……」
すぐに、謝って出て行こうと思った。
だが、ぼくは動けなかった。
部屋にいる人物が、あまりにも美しかったから。
肩で切り揃えられたぬばたまの黒髪。
雪よりも白く、血の通ってないような透き通る肌。
ぼくを睨みつける瞳は元より切れ長なのか、氷のように冷たい印象を受ける。
不愉快げに歪んでいても艶めかしい、紅い唇は笑えばきっと可憐だろうと場違いな事を思う。
絵画か、彫刻から抜け出してきたような凄絶な美貌の持ち主が、そこには居た。
息をするのも忘れ、ぼくは見入っていた。
むしろ魅せられたという方が正しいのかもしれない。
その人はただそこに『居るだけ』なのに、まるで魔法にかけられたかのようにぼくは動く事も忘れてしまった。
抗い難い魔力、魅力。
そこだけ、空気の色も温度も違う気がした。
「……いつまでそこに突っ立ってるんだい。用がないなら出ていってくれないか」
自分を凝視したまま動かないぼくを見て、目の前の人物は苛立った声をぼくにぶつけた。
その涼やかな声も天上の音楽のように耳に響き、もっと声を聞きたいとすら思ってしまったが。
「あ…あ、すいません。部屋を間違えました。ごめんなさい!失礼します」
その言葉にようやく我に帰り、急に恥ずかしくなる。初対面の人の顔をじろじろ見ていたなんて。
慌てて頭を下げると逃げるように部屋を後にする。
ぱたんとドアを閉じても、すぐに立ち去るのは名残惜しくてそのドアに背を持たれかけたまま、ようやく息を吐いた。
心臓が、張り裂けそうなほど音を立てている。
…びっくりした。
いや、きっといきなり見知らぬ人間が部屋に入って来たほうが驚くんだろうけど。
あんなにキレイな顔をした人間が居るなんて、思わなかった。
神や天使が実際に居たらあんな感じなのだろうか。
年齢、性別、全てを超越したような美。
あんな人に手を差し伸べられたら。
きっとどんな人間でも逆らう事なんて出来ないんだろうな、とぼんやり思う。
本当は悪魔だと言われても、ついていってしまいそうだ。
…この寄宿舎で彼の人を見たことはない。だとしたら転校生なのだろうか。
この静謐な森の奥深くに建つミッションスクールは全寮制の男子校。
社会的地位も名誉もある人間の子弟のみが入れる名門学校だった。
だとしたら、あの人も男性なんだ…。
そう考えて、がっかりする自分に気付く。
最初、あの人を見て驚いたのは勿論部屋を間違えたからもあるし、その美しさに目を奪われたのもあるけど。
「……はぁ」
初恋で、一目惚れだった。
見た瞬間に恋に落ちてしまった。
自分の初恋が男性なんて、としばし落ち込む。
恋をした次の瞬間には、絶対叶わないと決まっている恋なのが確定してしまったのだから。
自分と同じ男性に恋をするなど自然の摂理に反する。
神も許されぬ行為だ。
「…とりあえず自分の部屋に戻ろう」
恋の淡い期待に震えた胸を、暗い気持ちで鎮めてドアから身を離す。
自分の部屋は何処だろうと辺りを見回すと、なんと隣の部屋だった。
「……」
ごくり、と喉が鳴る。
じゃあ…これからはあの人が隣の部屋なんだ。
治まった鼓動が、再び高鳴りを訴える。
…目の前がぐらぐらするのを感じながら鍵を開けて部屋に入ると、そこはいつもと同じ自分の部屋。
手に持った教科書を震えながら机の上に置き。
ふらふらした足取りでベッドに近づく。
靴を脱ぐのも忘れてその上に膝をつくと、ぴったりと壁に身体を押し付けた。
さっき見たあの人の部屋には。
この反対側にベッドがあった。
そして、今この壁一枚隔てた向こうにはあの人が居る。
わずかな声でも聞こえないかと聞き耳を立てる。
目を閉じて、耳を澄ますとうっすらと椅子がずれる音を立てた気がした。
それだけで身体中が幸せな気分に包まれる。
ああ。
この恋は禁忌。
神に背く重大な罪。
けれどぼくはもう魅せられてしまった。
アダムとイヴが禁断の果実に手を出した気持ちが今ならわかる。
頭ではいけないとわかっていても。
止められない。
それがぼくと昴さんの出会い。
そして、決して許されぬ禁断の恋の始まり―――――。
そのまま眠るどころではない時間を過ごし、壁に寄り添ったままいつの間にか夕食の時間になっていた。
彼の人が出て行くのを見計らって、それとなくさっきの事を謝るついでに一緒に食堂に行けないかなどと思いつつ…
しかし残念な事に夕食の時間になってもドアが開く事はなかった。
後ろ髪を引かれながらも食堂に向かう。
だが、食事は喉を通らなかった。
頭の中にはさっき見た彼の人の姿が焼きついていて。
思い出すだけで胸が一杯になって食欲など全く湧かなかった。
食事を終えて部屋に帰ってきたあとも、机に向かう事もなく壁に寄り添うだけの時間が過ぎていく。
……部屋が隣同士なんだし挨拶に来てくれないだろうか、むしろ自分が行くべきか。
気がつくと、一生懸命に隣人に近づくきっかけを模索している自分がいる。
けれど隣人が挨拶に来てくれることはなく、待っている間に夜は更けていった。
時計を見る。もう21時だ。こんな時間に挨拶に行っては迷惑だろうとその日は諦めた。
翌日。
週に一回、土曜の朝に行われるミサにと聖堂に行くと
「あ…」
人の群れの中に隣人が居た。
だが声をかけることは出来ない。
厳かな早朝のミサでは私語は厳禁だ。
ロザリオを手に、自分の前に立つ彼の人の姿をうっとりと眺める。
神と聖母の見下ろす厳粛な聖堂。
昨日まではそれらを敬い、感謝を胸に祈りを捧げていたのに。
今の自分は禁忌とされる同性への恋心で一杯だった。
本当に神がいるのならば。
きっと自分は目の前の神のように十字架に磔にされるのだろう。
それでも構わない。
手の中のロザリオをぎゅっと握りしめる。
もう、神に祈りを捧げる事は出来なくなってしまった。
神に背いた恋に身をやつし、神よりも特別な存在が出来てしまったから。
だから、祈りは神ではなく彼の人に捧げた。
自分の心を支配してしまった、美しき隣人に。
どうかもう一度、ぼくを見て下さい。
そして話しかけてください。
ぼくの美しい人―――――。
一心不乱に祈っていたせいだろうか。
気がつくとミサは終わっていた。
はっとして辺りを見回すが既に隣人の姿はない。
…肩を落としながら部屋に戻る。
その日の朝食もまともに喉を通らなかった。
思い浮かぶのは彼の人の姿ばかり。
他に何も考えられない。
世界は彼の人の色に染まって、他の色は全て褪せてしまった。
もやもやした気分の晴れぬまま、眠い目をこすって授業へと校舎へ向かう間も。
頭の中には隣人の事しかなかった。
名前はなんていうのだろう。
今日の夜こそきちんと挨拶に行ったときに聞こう、そんな事を考えていて。
授業にも興味がなかった。
だから、教室に入ってきたのが担任教師一人でなかったことにも最初は気付かなかった。
「………じゃあ挨拶を」
窓の外を見たまま、そんな言葉を聞き流していく。
「……僕の名前は九条昴。それ以上でも、それ以下でもない」
唐突に、鼓膜を突き刺すような衝撃が訪れた。
その声を聞き間違えるはずもない。
咄嗟に前を見ると、そこには彼の人が立っていた。
氷の彫刻のようなその美貌。
その美しさに惹かれるのは当然自分だけではない。
育ちの良い少年の集まる中では揶揄する者もいないが、誰もが陶酔のため息と羨望の眼差しを彼の人…昴に向けていた。
だが、昴はそれを気にした様子も見せず視線を誰に向けるともなく遠くを見たまま。
心臓が跳ねて、頭の中でその音がどくんどくんと自分の興奮を主張する。
これからは隣人なだけでなくクラスメートでもあるのだ。
嬉しくないはずがない。
「じゃあ…席は」
担任教師が教室を見回し、やがて空いている席を見つけるとこう言った。
「大河くんの隣が空いているね。九条くん、君の席はあそこだ」
「!!」
今度こそ、心臓が口から飛び出ると思った。
こんな夢のような話が、あるわけがない。
「……」
昴はすぅっと差された席に向かってくる。
横を通られた生徒がその姿を目で追いかける気持ちは良く分かる。
自分だって。
その姿、動きの一つすら見逃すまいと凝視していたのだから。
「…おや、君は」
隣の席まで来たときに、昴が首を傾げながら自分を見てそんな言葉を呟いたときには。
心臓が止まるかと思った。
「隣人かと思ったら、席まで隣か。不思議な偶然もあるものだね」
口の端にかすかな笑みを浮かべて笑う。
さらりとこぼれた髪をかきあげると、昴は静かに腰を下ろした。
自分はそれを黙って見たままで。
自己紹介をする良い機会だったのに。
気がついたら授業が始まっていた。
もちろん、授業なんか頭に入らない。
教科書の影に隠れながら隣の昴の様子をちらりと窺う。
昴は退屈そうに授業を聞いている。
まるで、こんなものわかりきっているといいたげな表情を浮かべて。
あんまりじっと見ていると気付かれるかなと思いつつ、ちらりと見ては教科書に目を落とし、また昴を見ていたら。
「……先生」
昴が静かだがよく通る声で呟いた。
「そこ、間違ってますよ。……そこはそうじゃない」
机に頬杖をつき、笑みを浮かべて昴は言う。
細くて長い指が、黒板を指していた。
教室中が軽くざわめく。
「…が正解です。失礼、授業を進めてください」
それだけ言うと、何事もなかったかのように再び黙る。
指摘された教師は呆然としていたが、それにも全く関心がないようだ。
確かにそこに『居る』のに、まるで気配というものを感じさせない昴。
周りを無意識に威圧する空気を振りまきながら、本人はあくまで周りに無関心だった。
教室中の人間がちらちらと昴の様子を窺うのにも目を向けることはなく。
その授業は過ぎていった。
授業後、昴は声をかけたくともその雰囲気に圧倒されて様子を窺うだけのクラスメートを無視して。
すぅっと教室を出て行ってしまった。
慌てて追いかける。
「…す…九条さん!」
昴さん、と言いかけて思わず一瞬詰まる。
いきなり名前で呼ぶなんて馴れ馴れしいと思われてしまうだろう。
呼ばれた昴は足を止めて、振り向く。
「…何か用かい。それと、昴でいい」
「あ、あの……ええと」
つい追いかけて呼び止めたはいいものの。
何か用かと言われれば『身体が勝手に動いただけ』だったとは言えない。
「昨日は…その、すいませんでした。部屋を間違えて入ってしまって」
とりあえず、昨日の事を謝る事にした。謝りたかったのは事実だし。
「別に……もう気にしていない。今後は鍵をかけることにしたしね」
突き放すような言い方に傷ついたが、自業自得なので何も言い返せない。
俯いたまま、それ以上何も言えずに立ち尽くしていたら。
今度は昴から問いかけてきた。
「……ああ、一応隣人でクラスメートなんだから名前くらい聞いたほうがいいか。君の名前は?」
とってつけたような問いに、更に胸が痛んだがそれでも名前を尋ねられた事に喜ぶ自分が情けない。
「ぼくの名前は、大河…大河新次郎です」
「大河か。まぁ、適度によろしく頼むよ。僕は来たばかりでわからないことも多いしね」
そう言って微笑む姿もやっぱり綺麗で。
自分はただ見惚れるばかり。
一日中見ていても、きっと見飽きないんだろうなと思う。
「さて、そろそろ次の授業が始まるね。教室に戻ろうか、大河」
昴はすっと踵を返し、教室に戻っていく。
「あ、待ってください…昴さん!」
置いていかれそうになって必死にその背中を追いかける。
待とうという気のさらさらないその足取りに切なくなりつつも。
追いかけながら、胸の前で十字を切る。
自分の願いを叶えてくれた神への感謝を込めて……。
その日から、幸せと胸苦しさの詰まった日々が始まった。
朝起きれば、壁に聞き耳を立てて隣人の様子を窺い、授業では隣の席を盗み見て、食事はさりげなく隣の席を確保する。
自分の部屋に帰って机に向かっていても隣の部屋に昴がいると思うと勉強も身が入らない。
ベッドに入っては、隣の部屋の様子が気になって眠れぬ日々が続いた。
生まれて初めて抱いた恋心は自分の全てを変えて、何もかもを考えられなくさせてしまった。
それまでは、品行方正な優等生だった自分が。
ただ一人の一挙一動にのみ左右されて、追い掛け回すような真似をしているのだから。
「……こんなことじゃ、ダメだな」
自分でもおかしいのはわかっている。
友人として慕っている、というには態度が露骨すぎるしこれじゃいつか昴にも嫌われる。
昴は周りに関心がないのか、自分のそんな行動も気にした様子は見せていないけれど内心はきっと鬱陶しいだろう。
九条昴。
彼の人が人離れしているのはその美貌だけではなかった。
その頭脳も常人ならざる明晰さを持ち、学問だけでなく音楽などの芸術やスポーツにおいても右に出るものはいなかった。
いきなり現れた美貌の転校生は瞬く間に学校中の噂を持ちきりにし、誰もが昴に注目する。
学校始まって以来の天才、それが周りの昴への評価だった。
あながち間違っていないと思う。
テストでの成績のみならず、運動においても普段の生活においても完璧で非の打ち所のない昴。
羨望と嫉妬の視線を向けられても、昴は全く興味を持たなかった。
常に退屈そうで、何処か気だるげな雰囲気を漂わせながら昴は日々の授業に出ている。
何事も完璧だからだろうか。
昴が何かに熱心になったり必死になる姿というのは見たことがなかった。
感情を表に出す事もほとんどない。
だが、昴には一つだけ変わった点があった。
自分の肌を人に晒すのを極端に嫌がる。
着替えはいつも何処かへ行ってしまうし、共同浴場で昴の姿を見たことはなかった。
寮の中でも特別な個室のため、一応、部屋にシャワーはあるが。
自分もそうなのだが、一人部屋は生徒の中でもごく限られた人間しか使えない。
家がよほど金持ちであるとか学園にコネがあるとか。
普通は二段ベッドを使用した相部屋が基本だ。
自分がこの部屋に居るのは実家が一人っ子である自分を心配して配慮してくれたからなのだが、昴は違うのかもしれない。
そういう意味でも昴は何処か謎めいていて、掴みどころがなかった。
けれど、そんな所も含めてたまらなく魅力的で。
恋心は募る一方だった。
誰にも言えない、打ち明ける事など出来ない禁断の恋。
胸を掻き毟られるような想いを抱いて、壁に寄り添う。
壁一枚隔てた向こうには愛しい人が居る。
そう考えるだけで身体が熱くなり、頭がぼぅっとしてくる。
甘美な陶酔感に身を浸し、目を閉じると瞼の裏には「大河」と自分を呼ぶ彼の人の姿が瞬時に思い浮かべられた。
休日になると、昴は一人でふらりと何処かへ行ってしまう。
深い森の中に立つ、この学校は広い。
寄宿舎や校舎の他にもミサを行う聖堂もあるし、講堂もある。
校舎の内部一つをとっても広大で中には教室や職員室などの他にも図書館や祈祷室まであるのだ。
自分もまだその全てを把握していないほど広い建物。
そもそも敷地も膨大で、学校を囲むような森にでもふらりと行かれればわからない。
…一応、獣が出るという事で森に行くのは禁止されていたが。
それらを当てもなく歩きながら無意識に愛しい人の姿を探す。
休日でも校舎への出入りは自由だったから、昴が何処にいるかはわからない。
ただ、好む場所の検討はついていた。
「……あ」
音楽室から聞こえてくる繊細なピアノの音色にぴくりと反応する。
聞き覚えのあるその音色。間違えるはずはない。
躊躇いがちにドアを開けると、はたしてその中には昴が居た。
音楽室には豪華なグランドピアノがあって、昴はそれを気に入ったらしくここによく居る。
眩しい朝の光を浴びながら、優雅な手つきで鍵盤を操るその姿は神々しいまでに美しい。
さながら、一枚の絵画のように。
ふと、昴の指が止まった。
入り口からじっと自分を見つめる視線に気付いた昴が、苦笑をしながらこちらを見た。
「…君か。入りたいなら、入って来ればいい。それとも、君もピアノを弾きに来たのかい?」
「あ、違います。外を歩いていたらピアノが聞こえてきたので…つい」
下手な嘘だ。
昴を探してここに辿り着いた事くらい、昴だって知っているだろう。
「僕のピアノの音色に惹かれたってわけか。聞きたいなら構わない。うるさくしないと約束してくれるならね」
「じゃあ、お邪魔します。…ぼくは気にせずに、どうぞ続けてください」
ピアノの横に立ち、昴にそう告げる。
…こんなに近づいたら気が散るかもしれないとは思ったが、少しでも昴の近くで昴の姿を見ていたかった。
「………そうだな。今日は気分がいいから君の好きな曲を弾いてあげるよ。何かリクエストはあるかい?」
滑るような指どりで鍵盤を爪弾きながら、昴はそんな事を言う。
「え、え……」
「僕の弾ける曲だったなんでも。大河のお望みのままに…」
急にそんな事を言われて動転したのか、そう言われてもしどろもどろするだけの自分が情けない。
せっかく、昴が自分の為にピアノを弾いてくれると言っているのに。
「ええと…」
「ないのかい?それとも曲を知らないかな」
からかうような口調で、昴は笑う。
そんな笑顔を見れるだけでも幸せで、焦る気持ちだけが先走り余計に何も思い浮かばない。
「……昴さんの好きな曲が、聴きたいです」
考えた末に出てきたのはそんな言葉だった。
「僕の、好きな曲?」
少々、予想外の言葉だったらしい。昴は目を瞬かせて自分を見ている。
「あ…あの、すいません。昴さんの好きな曲ってどんなか、興味があるので…」
それは嘘じゃない。
昴はいつも思い浮かんだ曲を当てもなく弾いてるという感じで、特定の曲を心を込めて弾くというのを聞いたことがなかった。
…自分の思い過ごしかもしれないが。
「僕の好きな曲、か…」
話しながら鍵盤に指を滑らせていた昴の動きがぴたりと止まる。
「…いいよ。じゃあ僕の一番好きな曲を大河に贈ろう」
昴は目を閉じると、舞うような動きでピアノを弾き始めた。
今までとはあきらかに違う、指先まで神経の張り詰められたような動きに驚く。
「……」
同じピアノを弾いているのに、鍵盤の奏でる音まで違う気がするほどそれは素晴らしい演奏だった。
繊細で優雅で、それでいて内に情熱を秘めたような甘く切ない音色。
いつの間にか自分も目を閉じて、うっとりとその音に聞き惚れていた。
全体的に穏やかで静かな曲なのに、時折激しさを増す瞬間に一番心を震わせられる。
…昴みたいな曲だ、と思った。まるで昴の心を表しているような曲…。
一番好きな曲だ、と昴は言っていた。
だとしたら昴の内面もこんな風に激しい情熱を秘めているのだろうか。
そんな事を考えているうちに演奏が終わった。
閉じていた瞼を開くと、昴がこちらを見て微笑んでいる。
「…これが、僕の一番好きな曲だよ。大河も気に入ってくれたようだね。熱心に聞いてくれたところをみると」
「はい…。すごく、素敵でした。何て曲なんですか?」
夢見ごこちのまま昴に尋ねたのはただ純粋な興味からだった。
昴の好きな曲がなんという名前か知りたかった。
だが、昴は意味ありげな笑みを浮かべ
「それは…」
立ち上がると耳元でこう囁いた。
「……あなたが欲しい」
「!!」
衝撃で、頭が真っ白になる。
自分の心を読まれたような台詞に目が眩んだ。
「今の曲の名前は『Je te veux』…意味は、あなたが欲しい」
そこまで言われて、ようやく昴の言葉の意味に気付く。
昴はただ、曲の名前を言ったに過ぎない。
自分の心を読まれたわけでも、昴が自分に向かってそう言ったわけでもない。
なのに心が震えて、身体が震えて止まらなかった。
「僕の一番好きな曲だよ。さて、久しぶりに本気で弾いたら少し疲れてしまった。僕は外の空気でも吸ってくるよ」
昴はそのまま音楽室を立ち去り、自分だけが残される。
だが、動く事ができなかった。
頭の中にはさっきの演奏がひっきりなしに流れている。
『Je te veux』
あなたが欲しい。
「昴さん……」
甘く、切ない音色。
昴には、欲しいと思った相手が居るのだろうか。
昴はその相手を思い浮かべながら弾いていたのだろうか。
…邪推とは思っていてもそんな事を考えてしまう。
フタが開けられたままの鍵盤の上に両腕でのしかかるようにして頭をもたれかけさせる。
重みで鍵盤が不協和音を奏でたが、それも気にならなかった。
まだわずかに昴の指先のぬくもりを感じる鍵盤の上で、静かに目を閉じる。
『Je te veux』
あなたが欲しい―――――。
昴の一番好きな曲というそれは
その日から自分の一番好きな曲になった。
そして数ヶ月が過ぎたころ。
衝撃的な事件を目の当たりにした。
部屋に帰るとどうしても隣の部屋の昴を意識してしまう。
勉学にも身が入らなくなり、成績が落ちたのに気付いてからは勉強は教室に残ってするようにしていた。
いかに昴に恋していようと勉強を疎かにするわけにはいかない。
両親は立派な人間になることを願ってこの学校に入れたのだ、その期待には応えねばならない。
…もうすぐテストが近いこともあり、必死になって勉強しているうちに外はもう夕焼けが沈もうとしていた。
ある程度キリのいいところまで復習を終えて、帰途につく。
……その途中で、見てしまった。
昴が、担任教師とキスをしているのを。
「……っ」
咄嗟に物陰に身を隠し、見つからないようにそっと窺う。
自分の方には担任が背を向け、昴の顔は担任の身体に隠れて見えないが。
そのしなやかな手が背中や首筋に回されているのを見て、身体中を衝撃が走った。
あまりの驚きに声も出ない。
自分は夢でも見ているのかと、頬をつまんでみたが。
つまんだ頬は痛みを訴えた。夢ではないらしい。
「…んっ……、ダメだよこれ以上は」
顔を離した昴が尚も迫ろうとする担任に向かって言う。
今まで聞いた事もないほど、艶やかで甘い声だった。
「…じゃあ、また……」
直視する事も、さりとて逃げ出す事も出来ず隠れたまま立ち尽くしていたら。
そんな声がしてはっとする。
こっちに来たらどうしようと思ったが、担任の足音は逆の方に遠ざかっていった。
だが、昴はまだそこに居る気配がする。
と思ったら、笑う声がした。
「……いつまで隠れてるんだい。出てきてもいいよ。もう、僕一人だから」
「…!!」
心臓を掴まれたような錯覚を覚え、背筋に冷や汗が流れる。
…気付かれていた。
「そこに居るんだろう?大河」
名指しされ、竦みあがる。
去る事もできず、すごすごと物陰から姿を現すと昴が夕焼けに照らされて立っていた。
顔には妖艶な微笑を浮かべて。
「…おやおや。どうしたんだい?そんなに怯えて。別に君を獲って食べたりはしないよ」
断罪の場に向かう罪人のように身体を固くして昴の前に自分の身を晒す。怖くて、顔をやや俯けたまま。
昴はそんな自分を見て愉快そうに顔を歪めた。
「そんなにショックだった?…大河」
昴が笑みを浮かべたまま近づいてくる。
後ずさろうとしても、足が動かない。
まるで呪縛にかかったように。
「キスくらいでこんなに顔を真っ赤にして……」
細くてしなやかな指が自分の顎にかかる。
つい、と上向かされた。昴と視線が合う。
吸い込まれそうなほど、黒くて神秘的な瞳が自分を見つめていた。
「……何なら、君ともしようか?興味はあるんだろう?…立ち去らなかったんだしさ」
顔が近づく。
吐息がかかりそうなほど唇が迫ってきて…
「…っ。やめてください!」
あと少し、という所でやっと身体が動いた。
昴を力一杯突き飛ばす。
小柄な昴はよろめいたが、倒れる事はなかった。
「…す、すいません……失礼します!」
気が動転して、何を言えばいいのかもわからずそれだけ言い残して一目散にその場を走り去る。
「はぁっ……はぁ…っ……」
部屋まで走って、飛び込むと鍵をかけてベッドに倒れこむ。
さっき見た光景の一部始終が甦ってきて、頭を振り払う。
全てが信じられなかった。
昴が担任とキスをしていたことも。
昴が自分とキスしようとしたことも。
全てが完璧で洗練された昴。
自分の中で神や天使のように崇めていた存在の生々しい部分を見せ付けられて、混乱していた。
心のどこかで、昴は無垢で穢れない存在なのだと思っていた。
なのに……。
「昴さん…あなたは……」
ぽつりと呟いたが、その先の言葉は出てこなかった。