「……ん……」
どれくらい気を失っていたのだろう。
目を開けると見慣れた自分の部屋の天井が見えた。
「…やぁ、おはよう。目覚めの気分はどうだい、大河」
昴の冷ややかな声がして、声のほうを振り向くと昴が椅子に座ったままこちらを見ていた。
衣服も整えられ、いつものように寸分の隙もないその姿。
だが、その瞳は汚らわしいものでも見るかのように怒りに燃えていた。
…やはり、あれは現実だったらしい。
「昴さん…あなたは」
「……それ以上何か言ったら、僕は大声で悲鳴をあげるよ」
女性なんですか、と問う前に口は昴の手で塞がれた。
「…どうなるかはわかるよね?君は僕を襲った人間として将来を棒に振ることになる」
淡々と語るその口調と鋭い視線が本気なのだと実感させ、背筋を汗が流れた。
確かにこの状況を他人に見られたらそう思われても仕方ない、というかそうにしか見えないだろう。
言いません、という意思表示を込めて昴をじっと見つめ、首を横に振ると昴も納得してくれたらしい。
ようやく口を塞いでいた手を離した。
「君が僕に何を問いたいのかわかる。だが、問うことは許さない、もちろん他言も許さない」
きつい視線と口調のまま、昴は言い放つ。
「大人しい小鳥かと思ったらとんだ狼だったわけだ。…ああ、それとも虎かな」
髪を無造作にかきあげながら、昴は自嘲するように笑う。
咄嗟に否定しようとしたが、事実なので何も言い返せない。
「……まぁいい。君も所詮はただの獣じみた男だったというわけだ。…しかも僕を男と思ってそれでも襲おうとするとはね」
挑発的な瞳が、自分を射抜く。
…それも事実なので言い返せない。
「だが、僕が女だと分かって気を失ってしまうとは君は同性愛者だったのかい?僕の性別が予想と違ってショックだった?」
「違います!」
否定したら大声をあげると脅されていてもそれだけは誤解されたくなかった。
気を失ったのはショックからだが、決して昴が男でないからではない。むしろ逆で女だったのに驚いたからだ。
どちらにしろ、情けない事にかわりはないが。
「あなたの性別が何であっても…ぼくはあなたが……」
好きです、と言おうとして躊躇う。
この状況でそんな事を言っても説得力の欠片もない。
言葉の代わりに唇を噛んで、俯く。
「………ぼくはあなたが好き、とでも言われるのかな」
けれど、昴はため息をつきながら核心を突いてきた。
呆れるのも無理はない。
自業自得とはいえ恥ずかしさで身が縮こまる。
「…すいません……」
言葉が見つからず、そう言うと昴はもう一度ため息をついた。
「謝るくらいなら最初からするな。だが、僕にも非がないわけじゃない。もういい……」
そう呟いて椅子の背もたれに身体を預ける昴は心なしか疲れた表情だった。
「昴さん…」
「勘違いはするな、君に性別を知られたとて身体を許す気は毛頭ない。…今度そんな事をしようとしたら」
昴が立ち上がり、自分に近づいてくる。
喉元に触れた手は冷たく、まるで昴の心のようだった。
「この喉を、切り裂いてしまうかもしれないよ」
それもいいかもしれない、と思ってしまう自分は骨の髄までこの人に魅せられているのだろうか。
ソドムの罪ではなくとも、叶うはずもない恋なのに。
「…昴さん…」
「大河。秘密さえ守ってくれれば僕は友人のままで居てもいいと思っている」
その言葉にむしろ自分の方が驚く。
てっきり絶縁をされると思ったのに。
見上げた表情で昴にも驚きが伝わったらしい、こう付け加えた。
「……そんなに驚くことかい。僕はこれでも君を気に入っているんだよ。口は固いようだしね」
気に入っている、その言葉に心臓が跳ねた。
嫌われたと思っていた分、余計に。
「……」
それに、と昴は言う。
「君は僕の事を知りすぎているから、うっかり他人にばらさないように君を監視しないといけないし」
持ち上げられて、谷底まで叩き落された気分だった。
「大河。君が望むなら僕はいい友人で居続けよう。でも、僕の事を詮索するな、僕のすることに口は出すな」
喉元の手に、力が篭る。
「………僕は、男なんて大嫌いだ。でも、君は嫌いじゃない。だから、失望させないでくれ」
そう言うと、昴はくるりと踵を返す。
後に残されたのは、自分の恋が禁忌ではなかったというかすかな安堵とそれでも報われることのない自分の恋心だけ。
生まれて初めて恋をした人は男性ではなかった。
だが、それを素直には喜ぶわけにはいかない。
欲望のままに昴を組み敷きそうになった挙句、性別に驚いて気を失うという醜態を見せた上
『男なんて大嫌い』
昴にそう言われてしまった。
…当たり前だが、昴が自分を好きになることなどないだろう。
自分の手を見ると、さきほど昴の秘所に触れた生温かくて柔らかい感触が思い起こされる。
あの中はもっと柔らかいのだろうかと思うと身体中が熱くなる。
そして、それを思うままに出来る人物が憎いと思った。
これほどに人を憎いと感じたのは生まれて初めてかもしれない。
恋は人を変えるというが、まさしく自分は変わってしまった。昴によって。
これからは、別の意味で禁断の恋を抱えなければいけない。
愛しい人と友人を演じながら、本当にこの想いを秘め続けられるのだろうか。
明かされた秘密と、それによって生じた新たな問題。
出口のない迷路の中に迷い込んだ自分の恋。
それでも、昴を諦められない。
目を閉じると、それまでの疲れが一気に出たのかほどなく深い眠りに誘われた。
あんなことがあった翌日でも、だからなのか。
昴の態度はいつもと全く変わらない。
いつものように授業をうけて、放課後はふらりと何処かへ行ってしまう。
「す、昴さん」
呼びかけてもちらりとこちらを見ただけで無視されてしまった。
めげずに着いていくと、行き先は音楽室。
昴は自分の存在など目に入ってないかのように鍵盤に指を滑らせる。
「……何か用かい」
「あ、あの…」
中に入ったものの、近寄れないでいると視線を向けることもなく昴が呟く。
「話したいことがあるならこちらへ来ればいい。そんな所で話されても聞こえないからね」
言葉に従って、すごすごと昴の近くに寄る。
昴は自分の方を見ようとはしない。
「…君は本当に感情が顔に出やすいタイプだな。僕の性別を知ってそわそわするのはわかるが、もう少し普通にしてくれ」
「う…すいません」
昴の奏でるピアノの音に、ハスキーな声が重なる。
声だけなら、女性というより男性的にも思えるその声も女性と知った後だと以前と違うように聞こえてしまう。
「で、朝からずっと何か言いたそうだったけど何だい?…僕が何で男子校のここに居るとかだったら大声で悲鳴をあげるよ」
さらりと脅迫されて竦みあがる。
やっと手を止めこちらを見た昴は自らのネクタイを掴むと、それをゆるめた。
誘っているようにも見えるその仕草は、いつでも君を破滅させられると言わんばかりだ。
「ち、違います。そうじゃなくて…あの…………身体は、大丈夫ですか」
必死に手を振って否定しつつ、朝からずっと気になっていたことを口にする。
昨日、我を忘れて昴を襲ったときにうっかり昴の一番大事な部分を引っ掻いてしまった。
軽くではあったが、女性の身体が男性より繊細だということくらいは自分にもわかる。
さりとて人前で聞くわけにもいかず、ついそわそわしてしまっていた。
「身体…?ああ、そういえば君に襲われたときに何処かを乱暴に扱われたね。あれはちょっと痛かったよ」
一瞬、何の事かと眉を顰めた昴もすぐにわかったらしい。
ふっ、と笑う。
「すいません…あの、傷とかは、平気ですか?まだ痛みます?」
実物を見たことがないので、一体どうなっているのかすらもわからないが心配だった。
「…そうだね。傷が残るかもしれないな。君は責任を取ってくれるのかい?僕を傷物にした」
「え、え……」
責任。
そう言われてドキッとする。
男の責任の取り方…。
思いつくのは一つしかない。
「……なに真っ赤になってもじもじしているんだ、君は」
「あ…あの、その……昴さんさえよければ、ぼくは…一生でも、責任をとって…昴さんを……」
「大河」
「出会いはこんな形ですし、両親を説得をするのも大変だと思いますけど…ぼく、絶対に昴さんを幸せにしますから…」
自分でも何を言っているのか分からない。
でも、昴が責任を取れというのなら全力で取るつもりだった。
「…それは、つまり。責任を取って僕を君の嫁にするということかな?」
昴が自分を真っ直ぐに見る。
耳まで真っ赤になりながら頷くと、昴が息を呑んだ。
「君が、一生…僕を守ってくれるのかい。大河」
「は、はいっ」
精一杯顔を上げて昴を見つめると、細められた昴の瞳が急に冷たくなった。
「君は馬鹿か」
今までよりもトーンを落とした声に抉られる。
「昴…さん」
「あの程度の事で結婚を迫られるなどたまったものじゃない。第一、僕は誰かに守ってもらうつもりもない」
「……」
ぷい、と視線を逸らされ昴は再び鍵盤を奏で始める。
昴の気分を表しているかのように、鋭い音色。
「…昨日の事は忘れろ。それと覚えておくといい。たとえあのまま君が無理やり僕を抱いていたとしても…」
昴はそこで言葉を切ると、鍵盤を両手の指で叩きつけた。
耳をつんざくような音にびくっと肩を震わせる。
それが曲のせいなのか、昴の気分からなのかはわからなかったが。
「……僕は君に責任を取って貰おうなどとは思わなかったよ。抱いたからとて相手を支配できると思っているなら大間違いだ」
「昴さん…ぼくは、そんなつもりじゃ」
「まぁ、君がそこまで思いつめるとは正直思っていなかったから面白い反応だったよ。…やはり君と居ると飽きないな」
思い出し笑いをすると、昴はさきほどよりなめらかに指を滑らせる。
途端に軽快な曲調に変わったのはご愛嬌か。
そして愉快そうな昴と対極に、自分の心はぐさりと傷ついていた。
…かなり本気だったのに。
でも、考えてみれば昴はそういう人だ。
誰も理解できる事など不可能な孤高の天才。
それは昴が男であろうが女であろうが変わらないのかもしれない。
自分は手の平の上で踊らされているだけ。
そう思うと少しだけ虚しくなってきた。
だからといって昴を嫌いになったりはしないけれど。
「大河」
「……」
「大河」
昴に呼びかけられても素直に答える気になれず俯いたままで居たら。
「…怒ったのか、それとも泣いているのかい」
「違います…」
そうは答えてもがっかりした気持ちはまだ治まりそうにない。
本気だっただけに気落ちもひとしおで、昴に悪いと思ってもから元気も出なかった。
そんな自分を見るに見かねたのか。
昴はふぅとため息をつくと、あの曲を弾きだした。
『Je te veux』
思わず顔をあげると昴がこちらを見て微笑んでいる。
「…この曲はよっぽど気分の良い時じゃないと弾かないんだけどね。君の為に弾いてあげるから、機嫌を直してくれるかい」
「昴さん…」
「……君と居ると調子が狂う。君はあまりにも僕とは違いすぎて、正直どう接すればいいのかわからない」
「……」
意外な言葉だった。
昴が自分の扱いに困っているなどと。
「最初は君も周りと同じ良い子だと思っていた。僕の外見に惚れて慕ってくる可愛らしい子羊だとね」
…昨日は小鳥で今日は子羊。
自分は一体何だと思われているのだ、と思ったがそれは口には出さなかった。
「でも、どうも君という存在はよくわからない。ちょっと誘えばふらふらついてくるかと思えば拒絶されるし」
それは以前に昴にキスされそうになったときの事を言っているのだろうか。
確かにあの時は混乱して思わず拒絶してしまった。
昴は、清らかで高潔な存在だと思っていたから。
「…かと思ったら手だけじゃ満足せず僕を襲った挙句に卒倒するし。……わからないな、君は何がしたいんだか」
そう言われると恥ずかしい。
一度は拒絶しておきながら、結局は誘惑に負けたとはいえ自分から襲ってしまったのだ。
「ぼくは…」
何かを言おうとしても言葉にならない。
たとえ何を言ったところで言い訳にしかならないし、第一自分でも自分の行動がよくわかってないのだ。
だが、昴は元より答えなどはなから期待してはいないのだろう。
「だけど、わからないからこそ興味深い。…こんなに興味深い人間は久しぶりだよ」
「昴さん…」
「大河、僕は君を好きだ……友人として。君にとっての僕は、そうじゃないみたいだけどね」
「……」
そんな事ありません、とは言えなかった。
自分は昴に恋していて、昴もそれに気づいている。
「…やはり、無理なのかな。女の身で君と友人で居る事は。君も、結局は性の相手としてしか僕を見てはくれないのだろうか」
「昴さん!」
淋しそうにぽつりと呟かれた台詞に反射的に声を荒げて昴の肩を掴む。
その反動で昴の身体が揺れ、演奏する手が止まった。
「あ…ごめんなさい、つい怒鳴ってしまって。でも、ぼくは…ぼくは」
昴がこちらを見る。
今まで見たこともないような悲しそうな瞳で。
演奏を止めた手が、鍵盤の上でぎゅっと握りしめられていた。
かすかに震えるその手を取り、甲に口付ける。
ぴくり、と指先が動いたがはらわれることはなかった。
「あなたが好きです。あなたの何もかもが好きで、全てをぼくのものにしてしまいたい」
「…そうか」
「でも、それだけじゃありません。あなたの傍にいられるなら…何でもいい。友人でも何でも……あなたの傍に居たいんです」
「大河」
華奢な指先と冷たい手に頬ずりをしながら囁く。
「あなたが望んでくれるなら、ぼくは何でもします。だから、どうかぼくの傍に居てください」
跪くように膝をつき、昴を見上げると昴は驚いたかのように目を丸くしていた。
自分自身でも、こんな風に懇願する姿は情けないと思うし昴が驚くのも無理はないと思う。
でも、こうでもしないと昴が目の前から消えてしまいそうだった。
それほど今の昴は儚げで、小さく見えた。
「何でも…?」
昴が小首を傾げる。
「はい」
大きく頷くと昴が身体を傾けて抱きしめてきた。
柔らかな温もりに包まれて心臓が跳ね上がる。
目の前で頬に触れる太ももに脳がくらりとしかけたが、必死に理性を総動員させて耐えた。
「じゃあ、友人で居てくれ。卒業するまでいい。その間だけ、友人で居てくれないか」
「…友人ですよ。昴さんが望む限り」
「僕を性的な目で見るなとは言わない。でも、性別関係なく接してくれると約束してくれるか」
「昴さんは昴さんです。男性であっても女性であっても」
「それと…」
そう言って、昴は一際ぎゅうっと身体を密着させてくる。
まるで子供が親に抱きつくように。
「時々は、こうして抱きしめてもいいか。…勝手な事を言ってるとは思うけれど」
「昴さん……」
抱きしめてもいいか、という口調とは逆にその姿はまるで抱擁をねだる幼子のようで。
もしかしたら、と思う。
昴は淋しいのかもしれない。
その孤独さを埋めようとして…好きでもない相手に身を任せているのだろうか。
そんな希望的観測が頭に浮かんだ。
「いいですよ。ぼくでよければ」
「…ありがとう、大河」
昴が軽く身体を離し、優しく髪を撫でてくる。
母親が子供をあやすような仕草に、さきほどは逆だなと思う。
「昴さん」
「なんだい」
「昴さんの望む限り、友人で居ると約束します。でも、一つだけ我侭を言ってもいいですか」
「……言ってご覧」
ごくりと唾を飲み込むと、小さな声で囁く。
「昴さんは、もっと…自分を大切にしてください。……その、見た目はどうであれ、身体は女性なんですから」
「……大河」
「望まない相手と…なんて。もし万が一、こ…子供とか……痛っ」
切れ切れに言葉を紡いでいたら、昴の白魚のような指で額を弾かれる。
どうやらデコピンをされたらしい。
やっぱり余計な事を言ってしまっただろうかと不安になりながら昴を見上げると昴は困ったように笑っていた。
「君が僕に説教するなんて10年早いよ」
「ご、ごめんなさい…偉そうな事を言って。でも、昴さんが心配で…」
「それだったら余計な心配だ」
突き放すように言われて、心が萎む。
だが、俯いた自分を昴は頭を撫でながら抱きしめてくれた。
「…全く、君は素直でお節介で喜怒哀楽の激しい人間だな。何で他人の事にそんなに首を突っ込みたがる」
「すいません……」
「好き、という感情は相手を自分の意のままにしなければ気が済まないのか。そんなに、自分の望む相手で居て欲しいのか」
そう言われて言葉に詰まる。
確かに、自分の望む『昴』を押し付けているのかもしれない。
「でも、それは僕も同じだ」
「昴さん…」
「…らしくもない。僕は、どうしてしまったのだろう……君に、友人で居てくれと懇願するなんてね」
ふふっ、と笑いながら昴の身体が離れる。
そして何事もなかったかのように昴は再び演奏をし出した。
さきほど途切れたところから。
『Je te veux』の甘くて切ないメロディーが心に響く。
床に座り込んだまま目を閉じその音色に聞き惚れているとやがて演奏が終わり、すぐに昴は新たな曲を弾きだす。
まるで夢見るような緩やかな旋律が耳に心地よい。
「昴さん、この曲は?」
「これかい?これはノクターン。意味は…そうだね、夜想曲とでも言うのかな」
「夜想曲…?ああ、夜をイメージした曲なんですね。だから、こんなに穏やかで落ち着くんだ……」
「…大河は、静かな曲の方が好きなのかい」
「わかりません。でも、昴さんのピアノを聞いていると、凄い幸せです」
「ふふ、ありがとう。…そうだな、この曲なら大河も知っているかな」
軽やかな旋律の曲に変わる。
確かに何処かで聞き覚えのある旋律。
「…あれ、この曲。ええと……」
「きらきら星の歌、だよ」
驚いた。
自分が聞いたのはもっと簡単な曲だったのに昴が弾くのはメロディーは一緒でもまるで別物だ。
目をぱちくりさせる自分を見て昴は笑う。
「へぇ……本当はこういう曲だったんですね。知りませんでした」
「まぁ、普通はそんなものだよ。でも、そんなにいちいち反応してくれると僕も弾き甲斐があるな」
「はいっ!もっと聞きたいです」
その後も昴は日が暮れるまで様々な曲を弾いて聞かせてくれた。
昴の奏でるピアノの音色に包まれて、夢のような時間は過ぎていく。
いつの間にかうとうとしていたらしく、昴に
「大河、そろそろ日が暮れる。帰ろう」
と言われて起こされたのは恥ずかしかったが。
けれど、恐縮する自分にも
「弾いていたのは子守唄だからね。寝てしまうのも無理はない」
と昴は微笑みながら答えてくれた。
「昴さん」
帰り道に並んで歩きながらちらりと昴の方を見る。
「なんだい」
昴は思う存分ピアノを弾けた満足感からか足取りも軽く上機嫌だった。
艶やかな髪がなびいてさらさら揺れる。
「また、昴さんのピアノを聴いてもいいですか」
「…構わないよ。何なら、君も弾いてみるかい。僕が教えてあげてもいい」
「え、そんな…無理ですよ。ぼくには」
慌てて首を振ると昴は少し残念そうだった。
「そうか、君なら良さが分かると思ったのに」
「昴さんは、弾くのが本当に好きなんですね」
「ああ、好きだよ。弾いている瞬間は、何もかも忘れて自分が音の世界にとけてしまったような気がするから」
昴が空を仰ぎながらまるで舞でも舞うように両手を広げた。
今にも背に羽が生えて、飛んで行ってしまいそうなほど美しいその姿。
「す、昴さん!」
我知らず、その手を掴んでいたらしい。
「大河、痛い」
昴にそう言われてはっと気付いた。
「す、すいません…」
「どうしたんだい」
小首を傾げられながら尋ねられてもまさか飛んで行ってしまいそうだったとは言えない。
笑われるに決まっている。
「ええと…やっぱり、教えてもらってもいいですか。その…ピアノを」
咄嗟に誤魔化すつもりでそう言ったのだが。
「…やっぱり君も弾いてみたくなったんだね。いいよ、僕が教えてあげる」
昴が嬉しそうに微笑むものだから、やっぱり止めますとは言えなくて。
「よ、よろしくお願いします…」
そう呟くのが精一杯だった。
けれど、嬉しそうな昴を見るのは自分も幸せで。
思わず目を閉じて幸福を噛みしめていたらしい。
「大河、何をぼーっとしているんだ。夕食に遅れる。置いていくぞ」
目を開けると遥か前方から昴が叫んでいた。
「昴さん!待ってください」
急いで追いかけると、寄宿舎の入り口でやっと追いついた自分を見て昴がくすくす笑う。
「全く…そんなに必死になって追いかけてこなくてもいいのに。汗をかいてしまっている」
ハンカチを取り出した昴に額の汗を拭われる。
かすかに甘い匂いがして、心臓が高鳴った。
「じゃあ、着替えて夕食に行こうか」
「は…はい」
自分の先を歩きながら階段を登る昴の後姿を見ながら思う。
昴が言った『友人で居てくれ』という意味はきっとこういうことなのだろうと。
それでも。
昴の傍に居て過ごせるのだと思うとそれだけで幸せだった。
『Je te veux』の甘く切ないメロディーが頭の中を流れる。
…いつか自分もあの曲を弾く事が出来るだろうか。
捧げる相手は、一人しか居ないけれど。
それが叶わぬ願いでも、あの曲を弾いて昴に捧げられたら。
この想いも少しは報われるのだろうか、そんな事を頭の隅で思った。
「大河、もっと背筋を伸ばして。…そう、指に力を入れる必要は無い。最初はゆっくりでいいから」
冗談かと思っていた昴の「教えてあげる」というのは本気だったらしい。
翌日から昴のピアノレッスンが始まった。
見たことのない記号の羅列に目を白黒させる自分に昴は微笑む。
「最初から上手く弾けるわけもないのだからゆっくり慣れればいい。分からない事があったら遠慮なく聞いてくれ」
楽譜の読み方から始まって、昴は本当に基礎の基礎から教えてくれた。
ピアノに触る事のない日々が幾日か続き、数日後にようやく「じゃあ弾いてみるかい?」と
差し出された楽譜は片手用の名も無き練習曲だったが、それすらも弾こうと思っても指が上手く動かない。
そして昴の奏でる優美な音と違い、同じピアノを弾いていても自分の音は美しくない。
ゆっくりでいいから、との言葉に一音一音楽譜を見ながら弾いてみてもすぐにとちる。
「大河」
昴の弾いてくれたお手本とのあまりの違いに首をかしげると、横で見ていた昴がすっと手を重ねた。
「す、昴さん…!」
「そんなに緊張しなくてもいい。最初は誰だって戸惑うものさ。失敗を恐れずに、弾いてご覧」
緊張しているのは別の意味なんですけど…と思いつつ言われたとおりに弾く。
さらりと零れる黒髪が頬を撫で、息遣いを間近に感じる。ちらりと横目で見ると、長い睫毛が見えた。
昴は全く気にしていないようだが、こっちは心臓に悪い。
こんなに近づかれたら意識するなというのが無理だ。
「……あ」
ちらりと昴の顔を盗み見た拍子に音を間違え、思わず指が止まる。
「す、すいません…」
「いや、最初は失敗して当たり前だよ。でも、こんなに身体中に力を入れなくてもいいのに。今日はこの辺にしようか」
昴はそう言って笑う。
もしかして、出来の悪い生徒だと思われてしまっただろうか、と不安になる。
「は、はい…ありがとうございました」
すごすごとピアノの蓋を閉めようとすると、昴が俯く自分の顔を覗き込んできた。
「大河」
「わひゃあ!?」
いきなり昴の顔が目の前に現れて、間抜けな声が出る。
当然の事ながら、昴は怪訝な顔をして眉を顰めた。
「…もしかして、君には楽しくないかい?もしそうなら、やめるけど。何だか、元気が無いし」
「ち…違います!そうじゃなくて、むしろ…昴さんに迷惑じゃないかなぁって」
「僕が?」
きょとんとした表情を浮かべた昴はすぐに笑い出した。
「僕はむしろ楽しんでいるよ。いい退屈しのぎになるし」
退屈しのぎ…。
わかってはいても、昴にとっては所詮その程度の事なのだ。
がっかりした気分が顔に出たらしい。
「もしかして、僕の教え方が悪いのかな。僕も、他人に教えるなんて初めてだから…今まで教えたいと思ったこともないし」
「昴さん……」
「君が興味を持ってくれたのが嬉しくて、つい無理をさせてしまったのかもしれない。どうする?やめるかい?」
教えて貰っているのは自分なのに、教え方が悪いのではとむしろ気遣う昴に驚く。
少し淋しそうに顔を曇らせた昴もやっぱり綺麗で、見惚れてしまいそうだったが。
「い、いいえ!昴さんの迷惑じゃなかったらこれからも教えて欲しいです」
そう言うと、昴の顔が花がほころぶように破顔した。
いつものように魔性を湛えた笑みではなく、純粋に嬉しそうにはにかむ笑顔なんて初めて見たかもしれない。
「ありがとう、大河。じゃあ、また明日」
高鳴る鼓動を悟られまいと音楽室を出て行く昴を見送ってから、止めていた息を吐き出すとピアノに突っ伏す。
日ごとに、一秒ごとに昴を好きになっていく。昴のどんな仕草もどんな言葉も自分を捕らえて離さない。
好き、という気持ちに上限はあるのだろうか。この想いに終わりなんてあるとも思えないけれど。
想いが叶うはずなどないとわかっていても、可能な限り昴と一緒に居たい。それだけが今の望みだった。