「昴、たまにはビレッジのカフェで昼食でもどうだい?キミは確かあそこのパスタが好きだっただろう」
彼女とデビュー作となった公演も終わり、久しぶりの休日。
屋敷でゆっくり過ごすのも良いが、たまには彼女と外を歩くのも良いか、という気分になった。
…一緒に出かけるのを見つかれば、また煩わしい事になるかもしれないが適当にあしらえばいい。
「確かに…あそこのパスタは好きだけど…いいのかい?僕と一緒に出かけても」
昴が躊躇いがちに呟く。
「キミがイヤじゃなければね」
「嫌じゃないよ。じゃあ…用意してくる。ちょっと待っていてくれ」
黒髪をなびかせて、彼女が嬉しそうに駆けていく。
「お待たせ」
しばらく経って現れた彼女は初めてこの家に来たときの薄紫色のワンピースに身を包んでいた。
男物も、女物も、服はいくらでも与えたがこれが気に入っているらしい。よく着ている。
「じゃあ行こうか、昴」
体格的に腕を組むのは難しいので、彼女の手を握り歩き出す。
ちょっとしたデート、それくらいのつもりだった。
……それが、あんなことになるとは、思いもしなかった。
「…ふぅ、ご馳走様。相変わらずここのパスタは美味しいね」
食後のコーヒーを飲みながら昴が満足げに囁く。
「そうだね、ボクも好きだよ。さて、この後はどうしようか」
「サニーサイドが行きたいところがあるのならば、僕は何処にでもついていくけれど」
「…そうだな。五番街で買い物とかもいいかもしれないけれど、たまにはベイエリアの臨海公園にでも行くかい?」
今日はいい天気だし、と言うと昴はくすりと笑う。
「臨海公園…?何だか君には似合わないな。でも、たまにはいいかもしれないね」
「じゃあ決まりだ。行こうか、昴」
会計を済ませ、再び手を繋ぐとベイエリアに向かって歩き出す。
車を使ってもいいが、何となく歩いていきたい気分だった。
ボクと昴を見て、道行く人間が何人か振り返るのがわかるがボクも昴も気にしない。
体格も、外見も、知名度からも目立つのは当たり前。
いちいち気にしていたら外など歩けはしない。
「海を見るのは久しぶりだな…」
「海は好きかい?」
「……あまり」
昴は足を止め、少しうつむく。
「あ…すまない。嫌いなわけじゃないよ。ただ、海の向こうを思い出すから…」
「昴さん!!」
慌ててボクの顔を見上げた昴の背に彼女を呼ぶ声が投げかけられる。
日本語で。
「昴さん!昴さん!」
その声に、彼女の瞳がみるみる見開かれるのがわかった。
身体が硬直したかのように、固まっている。
ちらりと声の主を見ると、若い日本人の男性だった。
彼女のファンだろうか、しかしそれにしては昴の様子がおかしい。
「昴……?」
ボクが問いかけても返事もしない。
その間にも声の主は走ってこちらに近づいてくる。
「昴さん!やっぱり昴さんだ……ぼくです、大河新次郎です」
若い日本人男性はそう言うと昴の腕を掴む。
彼女の身体が、びくっと震えた。
「九条の家の人から…昴さんが海の向こうにお嫁に言ったと聞いて…その人が、昴さんの旦那様ですか」
彼は恨めしそうな目でボクを見る。
日本語は日常会話くらいは元々出来たし、昴と日本語で会話することもあるので彼の言葉自体は理解できるが。
話が見えない。
どういうことだ。
「…そうだよ」
昴は彼の顔を見ようとせずに、呟くと彼の腕を振りほどく。
そしてちらりとボクの顔を見てから彼を振り返って自嘲気味にこう言った。
「僕のご主人様だ」
その言葉に、彼…大河新次郎の顔がきっと荒くなり、ボクを睨みつける。
と、思ったらいきなり殴りかかってきた。
「新次郎!」
…隙が大きい。
かわそうと思えば出来たが、昴が彼を止めようとボクと彼の間に割って入ったので動きが鈍った。
直撃ではなかったが、彼のパンチを食らって後ずさる。
「……貴方が、昴さんを金で買ってアメリカに連れてきたんですね!恥ずかしくないんですか!?こんな事をして…」
「新次郎!やめろ!」
…昴を金で買ったのは事実だが、アメリカに連れてきたのはボクじゃない。
さりとて、ここでそれを言うと余計に話がややこしくなりそうだ。
今のいざこざと叫ぶ彼を見て、道行く人間が集まりだした。
心の中で舌打ちをする。
面倒に巻き込まれるのはご免だ。
スーツの内ポケットから手帳を取り出すとペンで住所を書き、彼のポケットに突っ込む。
「道の真ん中で話すのは迷惑だから話があるのならば今日の夜9時にそこに来ればいい。ボクも昴もそこに住んでいるから」
じゃあ失礼、と昴の手を引きさっさとタクシーを止めて乗り込む。
昴の顔を見ると、彼女は真っ青な顔をして唇を噛んでいた。
「……痛くないかい?」
昴が彼に殴られたボクの頬に濡れタオルを当てながら言う。
「まぁ、直撃は避けたしね。気にしなくていいよ」
笑い飛ばしながら言っても、彼女の表情は晴れない。
黒い瞳を見ると、そこには戸惑いと動揺が浮かんだたままだった。
「すまない…まさか、新次郎が紐育に居るとは思わなかった…」
「知り合いかい?」
「……そうだよ」
それきり、昴は黙ってしまう。
気まずい沈黙。
「まぁ…知り合いなら積もる話もあるだろう。夜に話すときはボクは席を外すよ。また殴られるのはご免だしね」
沈黙に耐え切れず、そう言って立ち上がろうとすると彼女がボクの腕を掴んだ。
縋るような瞳。
「………君に聞いて欲しい話があるんだ。ちょっと、長くなるけど」
「構わないよ」
彼女の手を自分の手で包み込み、再びソファに腰を下ろす。
知れば『知らなかった』では済まされなくなる。
そんな考えが頭に浮かぶ。
…もう遅い。
「何処から話せばいいのかわからないから…僕の生い立ちから話すよ。僕は日本にある九条家に生まれた。
九条の家は代々神に奉納する舞い手の家系で、今でも儀式などでは舞を披露する…元を辿れば公家に連なる家柄だ」
公家。それが欧州における貴族のようなものなのはなんとなく理解できる。
なるほど、昴の立ち居振る舞いが卑しからぬのも無理はない。
「だが、公家に連なると言ってもだからと言って生活が豊かとは限らない。今の日本は軍人が台頭する時代だ…
九条家は見た目の優雅さとは裏腹に、さほど裕福でもなかった」
昴は目を閉じる。
「…九条家に生まれれば男でも女でも一通りの舞は叩き込まれる。だが、跡取りとなるのは男だ。
女は…年頃になれば、嫁に出される。…腐っても家系は由緒あるからね。そういう『血筋』が欲しい金持ちの所へ」
皮肉を込めて昴はふっと笑う。
具体的に言わなくても意味は分かる。
血統の良い女をいくら出しても買いたいという男など、どこの国でもいるのだから。
「僕も普通に成長していればそうなっていたはずさ。だが、僕は普通じゃなかった。
…13歳の時かな、第二次性徴の前に、成長が突然遅くなった。成長障害という病気を知っているかい?僕は…それだよ」
名前くらいは聞いたことがある、が。
実際に目にしたことはなかった。
昴を見る。彼女は…一体いくつだと言うのだ。
「…理由はわからない。一族に他に同じ病気の人間は居ないから心理的要因じゃないかと医師は言った。
九条の家は焦って病気を治そうとしたよ。だが、色々な治療法を試しても、一向に効果はなかった」
そこまで言って、昴の瞳が怒りに震えた。
「…僕の病気が治らないと知ると、僕の生活は一変した。由緒ある一族において、僕のような存在は許されないのだから」
昴が痛いほど力を込めてボクの手を握る。
…ボクは何も言わずに昴の話を聞いていた。
何を言えば、いいのだろう。
「まずは一室に閉じ込められて、そこから出るのを許されなかった。一族の恥を誰にも見せたくなかったんだろう。
その次に…もっと壮絶な苦痛が待っていた。……一族の男の、相手をさせられた」
語尾が震えている。
「昴……もういい」
「いや、言わせてくれ。君には…聞いて欲しい。今考えれば、いずれは僕を遠くへ売りつける気だったんだろう。
僕の部屋へかわるがわる男が現れては僕を弄んでいった。『お前みたいな人間でも可愛がられるように仕込んでやる』
そう言われたよ。…それまでは、決して仲の悪くなかった人間も、みんな変わってしまった」
昴はふーっと息を吐き、再び目を閉じた。
「どれくらいそんな生活が続いたのかは覚えていない。ある日外に出されたと思ったら待っていたのはアメリカ人の老人だった。
そして彼に連れられてアメリカに渡った。…つまりは、彼に売られたのだろう、僕は」
昴がアメリカに渡ったのはそういう理由だったのか、と納得する。
大河…彼が言った昴を金で買ってアメリカに連れてきたのはその老人だったのだろう、彼は勘違いしているようだが。
「…そこまでされて何故僕がバージンか気になるだろう?一族の男はどうやら犯す事だけは禁じられていたようだし
老人は不能でね。…まぁ、その代わり全身舐めまわされたり鬱陶しかったけど」
自嘲的な笑みを浮かべて、昴は笑う。
「しばらくして、老人が死んだ。遺族は僕の存在を知っていたが興味などなかったらしい。ただ一人、息子を除いて。
…その息子があの競売場のオーナーだよ。僕があそこに出されたのは、そういう理由さ」
父親が好色で連れ帰った日本人の少女。彼は自分の経営する競売場の『商品』としての価値を見出したのだろう。
…胸糞の悪い話だが、そうしてもらえなければ昴とは会えなかった事を考えると複雑な心境だった。
「これが君に会うまでの僕だよ。そして…大河新次郎。彼とは幼馴染でね、年が近いのもあって小さい頃から仲が良かった」
今まで怒りと屈辱に震えていた瞳がふと和らぐ。
「彼の家は軍人の家系だけれど、僕の家とはそれなりに交流があって…彼の両親はいずれ僕を彼の妻に、と言っていたよ。
ふふ…無理なのにさ。でも、本当にそうなれたらどんなにいいだろう、と心のどこかで思っていた。結果はこうだけれど」
「…彼を好きだったのかい?」
ボクの問いに、昴は空を仰ぎ、遠い目をしてこう言った。
「……昔の話だよ」
「まさか、今頃になって新次郎に会うとは思わなかった。彼は海軍の士官学校に行ってるはずだから。
…でも、誤解しているのならば丁度いい。夜に会ったときに話すよ。適当に」
そう言うと昴はボクに体を預ける。
「これで僕の話は終わりだ。くだらない話を長々と聞かせて悪かったね。何か聞きたいことはあるかい?」
昴がどのような素性だろうが関係ない。
それくらいで、彼女への想いが変わるつもりもなかった。
だが、一つだけ聞いておかねばならないことがある。
「一つだけ聞いてもいいかな。昴…キミはいくつなんだい?」
ボクの言葉に、昴がもたれかかったまま瞳だけを向ける。
「ああ…そういえばその事を話していなかったね」
昴はすらすらと自分の生年月日を述べた。
その年数に自分の耳を疑い、昴を見る。
「…次の5月になれば僕は20歳だ」
穴の開くほどまじまじと昴を見ると、彼女はふっと笑った。
少女にしか見えない昴。
最初に感じた、身体と精神のアンバランスさは間違いではなかったのだ。
「……彼と共に、日本に帰りたいかい?昴」
考えるより先に、言葉が出た。
昴は静かに首を横に振る。
「日本に帰ったところで、九条家に見つかれば連れ戻されるだけだ。今度こそ、死ぬまで幽閉されるだろう」
「じゃあ彼とアメリカで暮らせばいい」
何故、自分はこんな事を言っているのかわからなかった。
心にもないことを。
もう一度、昴は首を振る。
「彼に家を捨てるなんて出来ないよ。一人っ子だしね。それに、僕と違い彼が姿を消せば彼の家族は死に物狂いで探す」
そうだろうか。
彼の怒りに燃えた瞳を思い出す。
ボクに殴りかかるほどの彼ならば、昴が一緒に逃げてくれと言えば、そうするのではないだろうか。
「キミの意思はどうなんだ、昴。彼の元に、行きたいかい?」
「………」
昴は答えない。
だが無言は普通、肯定を意味する。
再び気まずい沈黙が支配する。
それを破ったのは昴だった。
「僕は君に買われた身だ。君が飽きるまで…君の傍に居るよ」
もっともな台詞だ。
だが、昴は否定しなかった。そのことに、激しく苛立ちを感じた。
何故かはわからない。
「…心配しなくても、ボクは君を手離す気はないよ、昴」
手首を掴んで、昴をソファに押し倒す。
「サニーサイド……」
「キミはボクのものだ。誰にも渡さない」
スカートの中に手を差し入れると昴の身体が強張る。
それを無視して下着を剥ぎ取ると、慣らしもせずに彼女の中に挿入した。
「…うっ!……ぁ…ぅ…」
彼女の顔が苦痛に歪み、喉から嗚咽にも似た声が漏れる。
当たり前だ、無理やり挿入したのだから。悲鳴を上げなかっただけでもたいしたものだ。
「っ……あぁ…んっ…」
苦痛を与えるだけのセックス。
そういうのは好きじゃなかった。
セックスは楽しむものだ、こんなやり方で抱いても相手どころか自分も楽しくない。
だが、自分は今こんなことをしている。
楽しくなどない、けれど、自分の中の黒い欲望がほんの少しだけ満たされるような気がした。
そのまま、昴とは夕食の間も口を聞かなかった。
お互いに目を伏せたまま時間は過ぎ、やがて彼が約束どおりやってきた。
時間までぴったりとは本当に日本人は律儀なものだと苦笑しつつ立ち上がろうとした昴を制し、自分で彼を迎えに行く。
「…失礼します」
口調こそ丁寧だったが顔は相変わらずボクに噛み付かんばかりだ。
…まぁ、素直さゆえか。
応接室に彼を案内する。
「昴、大河君が来たよ」
昴はソファから立ち上がりこちらに近づいてくる。
その瞳には動揺も戸惑いも感じられず、ただ諦めのようなものが浮かんでいた。
「…じゃあ積もる話もあるだろうから、ボクは席を外すよ。ごゆっくり」
そう言って部屋から出ようとすると、昴がボクの腕を掴んだ。
「……サニーサイドが出て行く必要は無い。君は僕の夫だろう?妻が他の男と二人きりで平気なのか?」
夫、妻という言葉に眉を顰めかけたがすぐに昴の意図を察して素直に部屋に留まる。
なるほど、昴は『そういうシナリオ』を演じるのをボクにも手伝えというのか。
ふと彼の方を見ると、彼はその言葉に動揺しつつも冷静さを保とうとしていた。
…やれやれ、自分の家でありがちなドラマのような役割を演じる羽目になるとは。
「新次郎…まずは何故君が紐育に居るのか聞いてもいいか。君は海軍の士官学校に居るはずだろう」
昴とボクは隣り合って座り、その向かいに彼が座った。
「…士官学校は卒業しました。今は少尉です。そして、紐育に来た理由は…アメリカ出身の友人にブロードウェイに
黒髪の日本人がデビューしたとの噂を聞いて…何気なく聞いてみたら特徴が昴さんと似ていたので…もしかしてと思って…」
そこまで言って、彼は喉を詰まらせる。
「居ても経ってもいられなくて、父に無理やり頼んで短期留学という形でちょっと前に紐育にやってきました。
満員でシアターの公演は見れませんでしたが、新聞や雑誌で昴さんであることを知って…どうやれば会えるか考えているときに」
あなたと偶然会いました、と彼は言う。
「僕に会いに来てどうするつもりだったんだ」
昴は容赦なく言葉を浴びせる。
「それは…!もちろん、あなたを日本に連れて帰るためです、昴さん」
昴の眉が、ぴくりと動いた。
不愉快そうに。
「何故そんなことを…僕はそんなことを頼んだ覚えもない」
「昴さんは無理やりこの国に連れてこられたんでしょう!?そこの人に…お金で買われて!!」
彼の瞳がきっとボクを睨みつける。
「…九条の家がなんと言ったのかは知らないが、それは誤解だ新次郎。僕はサニーサイドに買われてなどいない」
昴はしれっと言う。
心の中で笑いそうになったが、あくまで表面上はポーカーフェイスのままボクは黙って二人の話の聞き手に徹する。
「いいえ!ぼくが士官学校を卒業してあなたに会いに行ったら、親戚の人にそっけなく『昴は嫁に行った』と言われて
何処にいったのかいつ行ったのか聞いても頑として教えてくれなかったから…お手伝いさんに頼んで聞き出したんです」
「……口さがない女中の戯言を本気にしたのか?…なんといったかは知らないが」
彼は気付かなかったかもしれないが、昴の指がびくっと震えた。
「彼女はこう言いました。『お嬢様は長いこと一室に閉じ込められた上に、なんでもアメリカ…という所から来た外人に
お金で買われて海の向こうに行ってしまったそうです…おいたわしい』と」
彼女が膝の上で痛いほど拳を握りしめるのがわかる。
…まぁ、隠そうと思ったところで隠しきれるものではないだろう、ましてそういう名家の場合は。
「…驚いたな。そんなことを言われているとは思いもしなかったよ」
自らを落ち着かせるかのように、昴は長く息を吐く。
「それは誤解だ。僕とサニーサイドは愛し合っている。そんなのはでまかせだ」
少々、路線を変更する気らしい。
殊更に身体を密着させてボクに手を重ねながら昴が呟く。
「嘘です!お手伝いさんだけではなく昴さんの親類にも白状させました。…何故、そんな人を庇うんですか…!」
「庇ってなどいないよ」
「じゃあ、あなたとサニーサイドさんは何処で出会ったんですか。何故、アメリカ人である彼と日本人のあなたが」
思ったより頭は悪くないらしい。
良い疑問だ。
「…やれやれ。そんな事まで言わないといけないのかい?サニーサイドとの出会いは…彼が親善交流で日本に来たときに
僕の家に訪れた彼を歓迎するために舞を披露することになってね。それを披露したのが僕なのがきっかけさ」
よくもまぁ、ここまでスラスラと嘘が出てくるものだと感心する。
おそらく、彼がやってくるまでに考えていたのだろう。
口調にも淀みがなければ、内容も非常によく出来ている。
思わず拍手を送りたくなるほど。
「その席で僕とサニーサイドは恋に落ちた。アメリカ人である彼との結婚を家は快く思わなかったのだろう。
だから、口さがない噂を立てられたのさ。由緒ある家の人間が異人と結婚だなんて、恥以外の何者でもないだろうしね」
婉然と微笑む昴を見ていると、本当にそんな気さえしてくる。
…本当にそうだったなら、どんなに良かっただろう。
一目見て、恋に落ち。
反対を振り切って彼女をアメリカに連れてきたのだとしたら。
ボクが瞼の裏でしばしそんな空想に耽っていた間にも昴の言葉は続く。
「サニーサイドはシアターのオーナーだから、親善交流で訪れた日本で舞を見に僕の家に来るのはおかしくないだろう?
僕の舞を大層気に入ってくれてね。僕も今ではシアターでダンサーとして働いているよ」
彼女の演技力以上に想像力に脱帽だ。
もしかしたら脚本家にもなれるかもしれない。
「……これで納得したかい」
まくしたてるかのように話し終えて昴はふぅとため息をつく。
「昴さんの話は良く分かりました。確かにそう考えるとおかしくないですね」
「やっと納得してくれたか…」
「いいえ」
彼は首を横に振る。
「何だって…」
「それは本当の事かもしれません。でも、二つだけ気になることがあります」
さっきまで語気を荒げていた彼がむしろ今は昴よりも冷静そうに見えるのが気にかかった。
「何故、あなたの姿は6年前と変わらないのですか。そして、ぼくがあげたワンピースを着ているんですか」
その言葉に昴も息を呑んだようだが、ボクも驚いた。
ぼくがあげた…ワンピース…?
隣に座る彼女を見下ろす。
彼女のお気に入りの薄紫色のワンピース。
出会ったときにも着ていた。
…それを贈ったのは、彼だったというのか。
「……君には関係ないだろう」
長い間沈黙していた昴がやっとの思いで言葉を紡ぐ。
「いいえ、あります!…あなただって、忘れたわけではないでしょう。ぼくとの約束を。…6年前、約束したじゃないですか」
彼が悲しそうに囁く。
「昴さんがそのワンピースが似合う年になったら迎えに行く、と」
「知らない!そんなことはもう忘れた!」
昴が、聞きたくないと言わんばかりに耳を塞ぎ首を振る。
「昴さんと会ったときには驚きました。まさか、着てくれているとは思わなかった…」
彼が昴に向かってすっと手を差し伸べた。
「ぼくをずっと待っていてくれたんでしょう?昴さん。一緒に帰りましょう」
昴の身体がびくっと震える。
ボクの立場などあったものじゃないな、と思いながらそろそろこのドラマにも飽きがきていた。
「昴。もういいだろう、嘘をつくのも」
「サニーサイド…」
昴が驚いてボクを見る。
「キミのシナリオはよく出来ていたけど、そういう裏話があるとは知らなかったな。…夫としてはちょっと妬けるよ?」
「……」
ボクの言葉に、怒られた子供のように昴は俯いてしまう。
そんな昴から目の前の彼に視線を移し、呟く。
「話すと長くなるから、簡潔に言うよ。昴の話はほとんどデタラメだ。…アメリカに連れてきたのはボクじゃないが
その人間の縁者から彼女を金で買ったのは真実だ。……目的は言わなくてもわかるだろう?」
「サニーサイド!」
「……!!」
昴が悲鳴のような声を上げ、彼は黙ったままボクを睨みつけていた。
「だが、それが何だって言うんだ」
吐き捨てるように言う。
「理由がどうであれ、きっかけがどうであれ、ボクは彼女の才能に惚れこんで自分のシアターの女優として世に出した。
…それについて、君にとやかく言われる筋合いなどない。第一、そんなに大事ならなんで今頃になって迎えに来た」
逆に彼を睨みつける。
「本当に彼女が大事ならこんな事になる前にキミはどうにかできただろう?士官学校にいた?そんなもの理由にもならない。
いいか、知れば『知らなかった』では済まされなくなる。それでもキミは彼女がどんな人生を送ってきたか知りたいかい?」
「サニーサイド!もういい!」
昴が必死になってボクのスーツを掴む。
「……教えてください」
彼は静かに言う。
「彼女の姿が変わってないのは成長障害という成長が極端に遅くなる病気だ。そして、その病気ゆえに彼女は九条家に幽閉され
金持ちの変態に売りつけられるために男を悦ばせる術を身につけさせられたのさ」
「サニー!」
「その後は親戚や女中の言ったとおり…彼女はアメリカ人の金持ちに売られた。そしてその人間が死んだ後に
紐育にある闇の競売に出されてそこでボクが彼女を買った。……キミの知りたかった真実はこうだよ」
震える昴を優しく抱きしめる。そしてにやりと笑い、呆然としたままの彼に向かって言い放つ。
「なんなら…一晩、昴を貸してあげようか?彼女を抱いてみればその良さがわかるよ」
「!!」
昴は弾かれたように肩を震わせ、彼は怒りに燃える瞳を向けたまま立ち上がった。
「…もういいです。やっぱり昴さんを貴方の元へは置いておけません。ぼくが、連れて帰ります」
「彼女は帰りたくないと言っている。それに日本に連れ帰ってどうするつもりだい?九条家にばれたら彼女は連れ戻されるよ」
「ぼくがどんな事をしても昴さんを守ります!絶対に…」
ぼくが守る。
言うは容易いがその覚悟が本当に彼にあるのか。
「……そうだね、昴を返して欲しいなら返してもいいよ。一つ条件があるけど」
「なんですか」
スラスラとある金額を述べる。
昴はそれが何であるか気付いたらしい。
「サニーサイド…それは…」
「ボクが昴を買った金額だよ。キミにその金が払えるかい?払えるなら、返してあげてもいいよ」
「……一生かかってでも払います。それで、昴さんを返してくれるなら」
淀みなく、彼は答える。いい目だ。
「だってさ。昴、キミはどうする?彼と行きたいかい?」
「僕は……」
昴が交互にボクと彼を見る。
黒い瞳が今までにないほど悲しげに揺れていた。
「昴さん」
もう一度、彼が昴に手を差し伸べる。
「……」
彼女が立ち上がり、その手を取った。
心は痛まなかった。予想通りの展開に過ぎない。
「…昴さんは連れて行きます」
「仕方ないね。約束は守ってくれよ」
彼女と彼が去っていくのをぼんやりと眺める。
ぱたん、と部屋のドアが閉じたのを確認して息を吐く。
いずれはこうなるんじゃないかという考えはいつも心のどこかにあった。
思ったより早かっただけだ、と自分に言い聞かせる。
15歳も年下の少女に入れ込んだ挙句、昔の男に取られるとは無様だなと自分で自分を嘲笑する。
今夜は眠れそうにない。
酒にでも溺れれば少しは忘れられるだろうか、とキャビネットからウィスキーのボトルを取り出す。
グラスに氷とウィスキーを注ぎ呷ると喉が焼け付くようだった。
「…自棄酒かい?飲みすぎは身体に悪いよ」
どれくらい飲んでいたのかは覚えていない。
聞き覚えのある声が背後から聞こえてきて、思わず振り返る。
昴が、微笑みながら立っていた。
「昴……!何故…」
「新次郎とは話をしてきたよ。別に彼と一緒に帰ろうとは思ってなかったけど、少し二人で話をしたかった」
昴はそう言ってボクに近づき、隣に腰掛ける。
いつもと全く変わらない様子で。
「何で帰ってきたんだ…」
「迷惑だったかな?捨てられたかと思ったかい?」
昴が悪戯な笑みを浮かべてボクを見る。
「…キミは彼をずっと待っていたんじゃなかったのか」
彼女の服に視線を落とすと彼女は困ったように微笑んだ。
「違うよ。…昔はそんな時期もあった。けど、ずっと彼を待って着ていたわけじゃない。本当に気に入っているんだよ、これ」
でも、と彼女は呟く。
「サニーサイドが気にするのならもう着ないよ。あらぬ誤解をされるのはごめんだからね」
「昴…」
「…さっきの話は実は続きがあるんだよ、サニーサイド。君と出会ってからの僕の話だ。聞いてくれるかい?」
答えの代わりに彼女の手に自分の手を重ねる。
夜風に晒されてか、昴の手は少し冷たかった。
「老人が死んで、自分が競売に出されるのを知ったけど、別に僕は自分を儚んでいたわけじゃない。むしろチャンスだと思った。
僕を買うのは金持ちだ、むしろその男を利用して今の生活を抜け出してやろうと決めた」
昴の髪が、さらりと揺れる。
「なるべくなら若くてまともそうなのがいいと思って舞台に立って会場を一望したときに、目に入ったのが君だった。
君に選んで欲しくて微笑みかけてみたら君は本当に僕を買ってくれた。内心、嬉しかったよ。賭けに近かったからね」
やはり、あの時…昴がボクを見て微笑んだのは本当だったのかと思う。
…彼女がそんな事を考えていたとは知らなかったが。
「君をたらしこむ自信はあった。僕にとっては忌まわしい記憶でしかない男を悦ばせる術を使えばなんとかなると思ったし。
一夜を共にした後に、ここに居てくれるのかと言われたときには少々焦ったけどね」
そんなこともあったな、と思い出す。それはさぞ焦ったことだろう。自分の計画が狂うのだから。
「…僕の計画は順調に進んだ。君は僕を気に入って屋敷に留めると言ってくれたし僕の身体に夢中になっていくのもわかった」
だけど、と昴は顔を曇らせる。
「君が僕を一人の人間として扱ってくれることに関しては驚いた。金で買った人間相手にそんな態度をとる人間がいるのかと。
戸惑ったよ、何で君は僕にこんなに優しいのかと、何故一人前の人間として僕を扱ってくれるのかと」
今まではロクな男が居なかったからね、と昴は言う。
…理由なんか簡単だ、昴にそうさせたい雰囲気が合ったのと『そうする自分』に酔っていただけだ。
「君がシアターで舞台に立たないか、と言ってくれたときには嬉しかったよ。踊りを誉められたとき以上に。
ようやく目的を達した。薄暗い世界から、光の当たる世界へと…僕は這い上がることが出来たのだから」
少し興奮気味にそこまで言った昴が、ふとため息をつく。
「なのに、心は晴れなかった。…君が僕にホテルかアパートを用意しようと言ったときの僕の返答を覚えているかい?」
もちろん覚えているので頷く。『君が迷惑でなかったら僕はここに居たい』彼女はそう言った。
「…何故そんなことを呟いたのか、自分でもわからなかった…。気がついたら、口が勝手にそう呟いていた…」
「昴…」
「何故なのか考えて、考えて、思い浮かんだ答えに怖くなった。僕は君をたぶらかし続けなければいけない。
シアターのダンサーになったのはゴールじゃない、スタート地点にしか過ぎない。僕は君に好かれ続けなければいけない…」
昴の瞳が、ボクを見上げる。
「君は嫌いじゃない、でも好きになってはいけない…そんなことは、許されない。
君を利用するために近づいたのに、僕が君を好きになったら…全てが台無しになってしまう」
「昴……それは」
「笑っていいよ、むしろ僕を罵ってくれ。利用するために近づいた男に、いつの間にか惹かれていた僕を。
運命に抗うつもりで挑んだはずが、いつの間にか運命の悪戯に弄ばれて僕は身動きが取れなくなってしまった…」
そう言って寄りかかる昴の肩はいつも以上に小さく見えた。
小さな身体で過酷な運命を切り開いてきた昴の肩を、そっと抱きしめる。
「…そんなことはしないさ、ボクだって15も年の違う、金で買った少女に年甲斐もなくこんなにも入れ込んでしまったのだから」
「サニーサイド…」
「ボクの傍にいてくれるかい?昴。出会いも何も関係ない、ボクはキミに傍に居てほしい」
「……当たり前だろう。たとえそこが何処でも、君の隣が僕の居場所だよ…僕にとってはここがパラダイスだ…」
彼女に口付ける。ここに来た日と同じように、閉じられた瞼がかすかに震えていた。
一年が経った。
ボクも昴も相変わらず忙しい生活が続いている。
彼女の病気は治らず、外見は変わらぬままだったがそんなことはどうでも良かった。
二人で見ている活動写真が、クライマックスを迎える。
ヒロインに向かって愛していると呟くヒーロー。
そういえば、昴に向かってそんなことを言ったことはなかったな、と腕の中の彼女を見る。
「……何?」
ボクを視線に気付き、昴が上目遣いでボクを見上げた。
「愛してるよ、昴」
「…活動写真に感化されたのかい?まぁいい。僕もだよ、サニーサイド」
顔を見合わせて笑うと、軽く口付ける。
…このまま彼女の姿が変わらなければいずれ彼女の病気について口さがない噂も立つだろう。
だが、その時は自分が彼女を守ればいい。
人生はエンターテイメント。
彼女と共に、最期の瞬間まで人生を楽しむことが、ボクのエンターテイメントなのだから。
END