いさぶろう・しんぺい

車内

キハ47

キハ140

主要走行線区

いさぶろう・しんぺい


肥薩線人吉−吉松を走る観光列車です。 俗に言う”矢岳越え”をし、標高536.9mの矢岳駅をサミットとして 標高213mの吉松駅と、35キロ離れた標高106mの人吉駅を結びます。このルートは 日本唯一のループ線+スイッチバックの組み合わせである大畑駅をはじめとし、 日本三大車窓の一つに数えられる矢岳からの加久藤盆地の眺望、スイッチバックの真幸駅など 数多くの特色をもち、風光明媚な区間として知られています。明治41年11月21日に この区間は開業しましたが、当然、当時の鹿児島本線としては最後の開業となり、 ここに門司港−鹿児島が、現在の肥薩線経由で鹿児島本線の名称で 完成しました。この区間を山線経由となった経緯の一つに日露戦争があります。 八代までは内海ですが、八代から東シナ海に面する阿久根、川内を経由して線路を通すと ヨーロッパから回航されてきたロシア艦艇に砲撃を受ける恐れがあり、これを避けるために 山側を通すことにしたものです。また、北九州から宮崎・鹿児島の両都市を結べる、ということも 理由の一つだったといわれ、これは現在の九州自動車道とまったく同じ理屈となります。

当時の日本における鉄道トンネルの歴史はわずか25年程度であり、 (初の山岳トンネルである逢坂山トンネルの開通が明治12年)長大トンネルの掘削は まだまだ心許ない部分がありました。そのため、なるべくトンネルを掘らないようにするかわりに ループとスイッチバックを組み合わせて勾配を30パーミルに緩和しながら 峠を越えることになりました。それでもトンネル数は21にも達しており、日本初の半径300mのループと スイッチバックで峠を越えています。

なお、土質は火山性であり、付近を通る加久藤隧道の資料によれば、通水性のよい 安山岩と軟弱な凝灰角礫岩からなっているとのことです。とくに軟弱な凝灰礫岩は圧力がかかった 状態から掘削によって解放されるため、膨張することがあります(土質は違いますが、 北越急行線の鍋立山トンネルと同じ現象が発生したと思われます)。異常出水のために排水ポンプを 稼動させるための発電所まで建設したといわれている矢岳トンネルの地質も加久藤隧道と 同一であったと考えられます。そのため、出来るだけトンネルを短くする、ということで 選ばれたこのルートですら 建設には非常に難儀したとのことです。

肥薩線で一番長い延長2096mの矢岳第一トンネルには人吉側に 逓信大臣・山県伊三郎によって”天険若夷(てんけんじゃくい)” さらに、吉松側には開通当時の鉄道院総裁・後藤新平の石額”引重到遠(いんじゅうちえん)”の 文字が刻まれています。これは険しい山を平地のようにすることで重いものを引いて 遠くに行ける様になった、という意味です。 いさぶろう・しんぺいの名前はこの二人から取られています。

その後、日清・日露戦争に勝利したことで西海岸側からの脅威が無くなったことから 海岸ルートの建設が進められ、昭和2年にそれまで肥薩線とよばれていた路線と川内線とよばれていた路線が 1本のレールで結ばれることで、こちらが鹿児島本線となり、肥薩線の名称と交換となりました。 昭和7年には日豊本線の霧島ルートが完成し、現在の吉都線経由で吉松に達していた日豊本線も 霧島南部をまわって鹿児島に至るようになりました。

戦後まで急行やたけ、えびのが通過し、一時期は特急おおよどがにちりんの間合いで設定されるなど 賑わった矢岳越えですが、その面影はありません。2000年春には急行えびのが廃止となり、 普通列車のみが行き来する区間となりました。

観光列車の構想は90年代前半に遡り、一時はアクアエクスプレスの転用計画もあったようです。 94年からはトロッコ列車が運転されるようになり、キハ40にトラが挟まれて走っていました。 これはアドベンチャー号などで 活躍し、現在はTORO-Qとなっている車両です。 95年2月からきじ馬列車が用意され、そちらがメインで運転されますが、 きじ馬列車は97年には消滅してしまいます。 いさぶろう・しんぺいの名称は96年3月16日改正より登場しておりますが、 特別に車両が用意されているわけではなく、 キハ40やキハ31が投入されました。のちにキハ31は座席間に畳を敷いたものに簡易改造され、 お座敷気分で乗車することも可能になりました。

その後2004年3月の九州新幹線開業とともにキハ140‐2125が改造され、兄弟車両である はやとの風が鹿児島の”よかもん”をイメージした黒に彩られたのに対し、熊本の 火の国をイメージした古代漆色に塗られて登場しました。車内は はやとの風と同様に展望席を設けています。車体構造は特急はやとの風と 同様ですが、座席がリクライニングシートとボックス座席との違いがあります。 また、フリースペースを除いて全席指定なのも特徴です。定員はキハ140が40名、 キハ47が48名となっています(他に自由席7名)。車内の運転室背面には液晶モニターが取り付けられ 運転室からの展望が楽しめます。そして、トンネル内もはっきりと映し出せるように 前面腰部にライトが左右に追加装備されています。所属は熊本運輸センター。 これは人吉鉄道事業部人吉運輸センターを統合して出来たもので、 予備車両を共通化して車両を捻出したり、 キハ185を延長して九州横断特急を新設したり、と車両の効率運用を図るために行われました。

当初はキハ140の1両編成でしたが、人気列車のため常時キハ31が増結され自由席車と なっている状態が続きました。そのため、10月09日よりキハ47−9082が改装の上 投入されて2両編成となっています。こちらは座席定員を増やすために展望席は設けず、 全て指定席となり、指定席定員は2両で88名とはやとの風よりも多くなっています。 外見上は塗装や冷房装置の変更のほか、キハ140では展望席にあたる部分の窓に 手すりが追加されているのが特徴となっています。そのためキハ140とちがって 大窓は設けられず、車体構造の変化は小さなものになっています。なお、内装は キハ140にはなかったスタンションポールが追加され、立ち客の安全を図るために座席の肩部に握りを 備えるなど、小改良が施され利用者の多い状況に即した内容になっています。 2005年3月改正よりいさぶろう・しんぺい101、102号が 定期化されることが決定しています。

平行道路の歴史
おまけとして触れておきましょう。鉄道の”矢岳越え”に相当する区間は、峠として 加久藤(かくとう)峠がありますので加久藤越えというのが一般的な名称となります。 ふるくは”えびの駅”が加久藤という駅名でしたので馴染みのある方もおられるでしょう (飯野・加久藤・真幸3町が合併し、S41年えびの町、S45年えびの市となって改称)。 道路では 現在の国道221号線と九州縦貫自動車道人吉IC-えびのJCTの区間となります。 位置としては鉄道の東側となり、人吉市内の大畑駅は国道221号より県道189号線 (人吉梅園の標識を目印に走行)で比較的短距離で、また真幸駅は付近に国道447号線があるので アクセスできますが、 矢岳駅は林道経由となり離れています。

こちらの区間も歴史は明治初期まで遡ることが出来ます。ただし、一般道路として、です。 明治18年に定められた国道は中央集権国家を 目指す明治政府らしく、東京日本橋を起点に各地へのびるものでした。鹿児島への道路は 37号線が東京日本橋より鹿児島へ いたる路線として川内経由で、また別線として38号線が都城経由で指定されましたが、それらとは 対照的にリストからは外れました。そのため、たとえば37号線、のちの国道3号線にある 熊本・鹿児島の三太郎峠(赤松太郎 ・津奈木太郎・佐敷太郎)において明治中後期に穿たれ現存するトンネルとは対照的に、 山伝いに上がって下りて、を強いられることになります。 それまでも肥後・日向・薩摩の国境が入り組んだ場所として要衝であり、道路まであったかは 定かではありませんが、えびの側では関所も設けられていました(旧道沿いに跡があります)。

明治初期に馬車道として 整備され、未舗装道路として越えていました。道幅は1車線程度でした。ほぼそのままで 100年近くが経過し、当然バス・大型車の 通行は禁止され、当時県境付近では普通に見られた”酷道”の名称を地でいくひどいものでした(人吉−八代のR219は現道から球磨川を挟んで対岸が旧道になるんだそうな)。 昭和40年に国道として指定され(区間としては、また国道番号としても 昭和28年指定の2級国道のはずですが...、延長されたのかなんとも....。28年の政令によれば 人吉小林線となっています。)整備が始まり、昭和47年に延長1.8キロの加久藤トンネルが開通。 昭和51年までに人吉側のループ橋(開運橋、昇運橋、天馬橋)が 、さらに遅れて54年にはえびの側のループ橋(えびのループ橋+雲海トンネル +霧の大橋)が完成し、国道としての整備は完了しました。やはり鉄道が当時の技術の 粋の限りを尽くしたのと同じく、ループ橋も東洋随一を誇る壮大なもので、肥薩線の車窓からも 目にすることが出来ます。

その頃から九州にも高速道路の整備が行われ、 平成7年7月に6255mの長さを持つ加久藤隧道が貫通することで九州縦貫自動車道の 最後の区間 人吉IC−えびのJCT約23キロが開通しました。当時は上り車線側のトンネルの対面通行でしたが、 平成16年8月に下り車線のトンネル6265mが開通。引き続き整備が行われ、平成16年12月11日に 4車線化が完了。130年近い歳月を経て道路の整備が完了しました。

なお、国道221号の旧道の方ですが 現在も朽ち果てた道路標識以外はほぼ当時のままで残され、自衛隊のえびの送信所、九州電力の 鉄塔の維持整備や林業として細い道が支線のように張り巡らされています。 で、どちらかというと、今でも用がある林道や保守用道路の方が未舗装ながらきれいに維持され、 逆に用無しになった旧国道は一部に残ったアスファルトなども崩壊し、ひどい状況になっています (特に人吉側。すみません、アスファルトの崩壊があるのは間違って迷い込んだ大谷林道の方でして R221旧道はほぼ未舗装ですが、時々手入れされているようです。2005年3月2日追記)。 自転車やオフロードバイクを自動車に積み、峠越えは それらで行うのが無難です(えびの側から峠を越えてちょっと先の下の写真にある標識群までは 比較的道幅があり、そこで引き返すのであれば軽どころか5ナンバーの普通自動車でもいけそうな感じです。ただ、そこから 人吉側は幅が狭く、ところどころ崩れていますので軽より小さい乗り物で行くのが良いと思います)。 あと、周囲の林道も含めて ガードレールなんて気の利いたものはほとんどないので落ちないように注意して走行しましょう。 長期休暇の取れる時期は酷道や林道ファンが入り込んでいますので、対向車にも 十分注意してください(だいたい、えびの側で林道の分岐など広くなったところにクルマを置いて 往復される方が多いので、見かけたら対向車があるものだと思ってください。歩いている人も 見かけました。)(旧道初走行日:2005年1月1日、走破:2005年2月23日)


写真1

加久藤峠を人吉方に数百メートル下った地点にある道路標識群周辺です。 ごらんのとおりダートですが、えびの側からこの辺までは、 軽自動車同士なら離合できる程度の道幅はあります。特にこの 部分は道幅が広がっていました。


写真2

写真1の左側に 木の板が縦に組み合わさったような人工物が見えますが、そこが 標識群です。これに近寄って撮ったものです。昭和40年代に作られたらしく、現在と違って大型車・バス通行禁止の 標識に赤斜線がひかれていません。


写真3

南九州の林道・酷道ファンにはけっこう有名な道路標識です。 加久藤峠で検索するとよく見かけることが出来ます。立てられたのが 昭和45年以前なのは確実です。これは写真2の奥によく見ると分かる”人吉市”の裏側に ”宮崎県えびの市”の標識があるのですが、これが元々”えびの町”の 上からシールを貼って市にしたところからも読み取れます。 周囲は木立に囲まれて眺望はありませんが逆に日陰になることで 朽ちる速度が遅くなり、現在も当時のままの姿が見られるのだと思います。ちなみによぉく見ると”八代”のローマ字綴りが間違っていますね(”しろ”の部分がSHROになっている)。


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