宏雪にとって最も落ち着ける場所は学校である。
誰にとっても安らげる場所であるはずの家は、彼にとっては安らげるどころか気を抜く暇さえない場所といっても過言ではない。
それは彼の普段の暮らしに少なからず影響を与えている。
普通の学生であれば朝はあまりやる気が出ないもので、ホームルームが終わって放課後を向かえると急に元気になるものだが、彼はそれとは真逆の反応を示すのである。
登校直後は元気だったかと思うと、放課後にはどこか呆けたようなたそがれた雰囲気に浸っているのである。
まあ、学校こそが唯一の安らぎの場と身に沁みて感じている宏雪にとっては当然の反応といえるだろうが。
「それではこれでホームルームを終わります。今日も寄り道せずに帰るように。」
優しげでどことなく頼りない、ともすれば高校生と間違われてもおかしくないであろう若い顔立ちの担任の、男にしては少し甲高い声を遠くで聞きながら今日もため息をつく宏雪。
そのため息からはどこか憂いの情が伝わってくるようだ。
そんな宏雪を察してか隣席の槻嶋真紀(まさのり)が「大丈夫か?」と声を掛けてきた。
槻嶋は真紀という漢字だけを見ると明らかに女の子と思ってしまうような名前だが、実のところは凛々しい顔貌で見た目は精悍な男であり、男の宏雪から見てもかっこいいと素直に思える人物である。
しかし、いかんせん親しい友人以外には無口で無愛想なところがあり、何よりもシャイなため未だに女の子と付き合ったことがないという。
一方の宏雪はといえば、槻嶋とは異なりどちらかといえばかわいらしい顔立ちで、女子の制服を着ていれば女の子と見間違えてしまいそうな程である。
もちろんと言ってはなんだかそんな宏雪も女の子と付き合ったことはない。
槻嶋は、ぼんやりとしたまま「ああ」とだけ答えた宏雪が少し心配になったのか、宏雪が両肘を付き両手のひらをあごに沿え、焦点の合わない視線を黒板左脇の掲示板に向けている机の正面にしゃがみ込むと、少し心配そうに言った。
「朝はあんなに生き生きしているのに、なんで夕方になると急に落ち込んだようになるかね」
「・・・ん、別に自分としては同じようにしてるんだけど・・・」
相変わらず焦点の定まらない視線を向けながら答える宏雪の様子にさらにどう声を掛けるべきか思案していると後ろの席から不意に声が掛かった。
「同じに見えるかっての。どう見ても今のお前は明らかに大丈夫かと声を掛けてくださいと言わんばかりの雰囲気やないか」
そう声を掛けてきたのは宏雪の後隣の席に陣取る自称プレイボーイ、諏河和志だった。
諏河はサッカー部期待のエースで、エースにふさわしいその爽やかな顔貌と高感度抜群の笑顔がまぶしい男で、女子生徒の人気はかなり高い。
ただ、自称プレイボーイと言ってはいるが、実際は一途でなおかつ恋愛に対して奥手なのである。
実のところは、サッカー部のマネージャーの先輩、神影路絢海のことが好きなのだが、中学の時に出会って早くも五年目が経っているにもかかわらず未だに告白できずにいるのだ。
「男だったらなあ、大変なことや強い決心が必要なことが迫っていてもぐっとこらえてだな。オレだって試合で上手くいかないことが多いから分かるけど、いちいち思い悩んでもしかたねーし。それよりも冷静な分析を・・・・・・って、聞けよっ!」
「・・・・・・いやなあ、神影路先輩に未だに告白さえできないお前には言われたくないなと思ってな」
宏雪が半ば呆れつつも当然といえる事実をあしらうようにボソリと言うと、いつものことながら少し動揺を見せる諏河。
「なっ・・・。ま、また・・・そっその話か・・・。それは今関係ねぇだろ! ・・・・・・ったく、機嫌が悪くなったかと思えばこれだもんな」
いつもは人の気も知らないで好き放題なことを言っている諏河だが、彼女の名前を出すととたんに赤面ししどろもどろになってしまうのだ。
その反応が面白いためことあるごとにいじられてしまうのである。
だが、今日はいつもとは異なり諏河が慌てる様子がない。
「なっはっは、不思議だろう、その話題で俺が慌てないなんて!」
宏雪はいつもとは明らかに落ち着きの違う諏河に思わず我に返って驚いてしまう。
槻嶋もどうしてだろうという顔つきで四方から良く観察するように諏河を見ている。
「ふはは、宏雪よ。実はな、雪那ちゃんがさっきから教室の外で待っているのだ」
「なにぃいいぃぃぃぃーっ!」
余裕の笑みを浮かべ仁王立ちのまま勝ち誇ったように諏河が言うやいなや、目にも止まらぬ速さで荷物をまとめるとダッシュでドアに向かう宏雪。
途中にある机や椅子を見事かつ素早く避けていくその姿は焦りに満ちていた。
なぜならば、彼女を待たせることは宏雪回避ランキング第三位にランクインしているほどの危険事項だからである。
「なぜ早く言わんのだぁああぁぁぁぁぁーっ!」
そう叫びドアを勢い良く開けるとそこには雪那が無表情で腰に両手を当て立っていた。
圧倒的な存在感でたっているその姿には怒りの雰囲気が漂っていた。
宏雪はとりあえず何か言おうとしたが、雪那は問答無用とばかりに右手で宏雪の左耳を掴むときびすを返して歩き出した。
耳に走るあまり痛みに声にならない悲鳴を上げる宏雪を引きずるように廊下を闊歩していく。
その様子は言うことの聞かない子どもにお仕置きをする母親の様に似ていた。
そのままずるずると十メートル二十メートル引きずって行くとやがて曲がり角を曲がり二人は見えなくなってしまった。
宏雪のクラスはもちろん、二人が通った廊下に面したクラスの生徒は皆廊下に身を乗り出してだたただあっ気にとられていた。