翌日、宏雪はまだ夜も明けないうちから目が覚めていた。
いつのまにか眠りに落ちていたらしい。
時刻は午前三時を指し示していた。
普段は夜中に目覚めることなんて滅多にない。
でも、今は普段はどうだとかそういうことを考えても全く意味がない。
何しろ置かれている状況が状況だけに“いつも”が当てはまらないのだ。
「はぁー・・・・・・」
ため息を一つ尽くと、自らを外界から遮断するかのように宏雪は布団を頭から被った。
それでも昨夜のことばかりが頭に浮かんで離れない。
昨日のことが夢であって欲しいと思う。
そう思いたいけれど、鮮明に思い出される出来事が明らかな事実であることを物語っている。
なぜあんな嘘をついてしまったのだろうか?
そして、なぜ姉と交わることになってしまったのだろうか?
思い返せば思い返すほど、『なぜ?』という言葉が頭を隙間なく埋め尽くしていく。
自分は姉のことが大好きだし離れたくなんてない。
少なくとも姉との交わりは求めていたことなのは確かだった。
彼女は、昨日の出来事をどう思っているのだろうか。
いくら思い出しても、昨夜の様子からは全く何も掴みきれない。
だからこそ余計に不安が押し寄せてくる。
姉弟での交わりは社会的にはまさに『過ち』に間違いない。
でも、自分にとっては社会的にどう思われようとどうだっていい。
そんなことは彼にとっては重要ではなかったし、恐れることではなかった。
ただ唯一恐れてきたのは姉に嫌われてしまうことだった。
それが最も避けたいことだったはずなのに、今まさに恐れていた事態を招こうとしている。
いや、下手すればもう嫌われてしまっているかもしれない。
「ああ! 何でだよ、もう!」
そう声を荒らげても何も変わらないことは分かっている。
でも声に出せずにはいられない自分がいた。
再び目が覚めると外は明るくなっており、すでに朝を迎えていた。
目覚ましが鳴らなかったことに気付き、寝過ごしたのかと慌てて時計を見るが何のことはない、まだ午前六時半だった。
いつもより十五分遅いがこのくらいなら特に慌てることはない。
寝起きはいつになく最悪だが、とりあえずのそのそと布団から出る。
眠い目を擦りながら一階のリビングへ降りていくと、いつも先に起きている雪那に声を掛けた。
「おはよ、雪姉・・・」
しかし、返事は無い。
直感的に「ヤバイな」と感じた宏雪は、身構えつつ緊張しながら辺りを見回してみる。
たが、いつもならいるはずの雪那がそこにはいなかった。
(昨日の今日だし、そりゃ顔も見たくないわなぁ・・・・・・)
気分か沈んでしまいそうになるが、朝食は作らなければならないのでキッチンへと向かう。
とりあえずパンをトースターにセットし、その間にフライパンでハムエッグを焼く。
姉のトーストにはイチゴジャムをたっぷりと塗り、自分の分にはマーガリンを満遍なく塗る。
冷蔵庫を開け、昨日たくさん作っておいたサラダの入ったタッパーを取り出し、二人分を器に取り分ける。
それらをダイニングへと運び、テーブルに二人分を並べていく。
最後に牛乳を注いだコップをそれぞれ置くと、箸を揃えて朝食の準備を終えた。
トーストに箸という組み合わせは明らかなミスマッチだが、「日本人ならば箸は当然(雪那談)」とのことらしい。
後は雪那が来るのを待つだけなのだが、いつになっても降りてこない。
珍しくまだ寝ているのかと思い、様子を見に再び階段を上って姉の部屋へと向かう。
「雪姉、朝食冷えちゃうよ?」
コンコンとノックをして声を掛けてみるが返事が無い。
「雪姉? まだ寝てるの?」
もう一度声を掛けてみたが、返事どころか物音一つ聞こえない。
こういうときいつもならば「うるさいわね、今行くわよ!」とか、「すぐ行くんだから黙って待ってなさいよ!」とか何とか言ってくるはずなので、全く反応が無いと逆に不安になる。
「ドア開けるよ? 開けて部屋に入るからね」
今度は念を押すように声を掛けてから宏雪はドアノブに手を掛けた。
女の子ということもあり、雪那の部屋だけはカギが付いている。
弟の宏雪より姉の雪那の方が強いし、なにより上下関係がはっきりとしている。
どう見てもカギが必要には見えないのだが、母親としては心配だったのだろう。
不測の事態に備えて付けられてはいるが、家にいる時の大半は宏雪と一緒に過ごしているので、使っているところを見たことははっきり言ってない。
案の定、今日もカギは掛かってはいなかった。
ゆっくりとドアを開けると、恐る恐る部屋を覗き込む。
しかし、宏雪の予想に反してそこには雪那の姿は無かった。
「あれ、いない・・・・・・?」
まだ本当にいないとは限らないので、足音を立てないようにそーっと部屋へと歩みを進める。
初めて姉の部屋へと足を踏み入れたが、意外なことにかなり女の子らしい部屋だった。
タンスや棚、カーテンなど、置かれているありとあらゆるものがピンクやイエローといったパステルカラーに彩られ、ベッドサイドには大小さまざまなぬいぐるみがところ狭しと置かれていた。
そして何より、整理整頓された綺麗な部屋だった。
しかし、そんなことに気を回している余裕など、今の彼にあるはずもなかった。
室内をグルリと見回してみるが、何も変わった様子は見られない。
ふと姉の机へと視線を移したところで、ついに明らかな異変を発見した。
あろうことか、すでに姉のカバンなどの荷物がなくなっていたのだ。
雪那はいつも机の右脇に荷物を置き、登校直前にもう一度二階へと足を運び荷物を取りに行っている。
今までは必ずそうだったのだが、今日は違う。
この様子だともう家を出て学校に行ったに違いない。
時計を見ると、時間はちょうど六時四十五分を回ったところだった。
朝の課外が始まるのは七時三十分なので、登校に掛かる時間の十分を差し引いても明らかに早すぎる。
「はぁ〜、やっぱり昨日のことが原因だよなぁ・・・・・・」
あの雪那がいつも一緒にいる宏雪から離れて行動する時。
それはほぼ確実に自分が何かやらかしてこの上なく機嫌を損ねた時である。
前にも一度そんなことがあり、その時は九日間も口を利いてくれなかったし、家事も一切手伝ってくれなかった。
さて、今回はどうすべきなのだろうか?
しかめっ面で腕を組み考え込む姿は、一見すると落ち着いているように見える。
だが、内心では非常に焦っていた。
昨日のことを思い返せば、怒らせたり機嫌を損ねたりしたわけではないだろう。
それこそが問題なのだ。
思い切り怒らせて極端に機嫌が悪くなったとしても、それだけなら日が経てばいつも通りに戻ってくれる。
それまで一人で物事を済ませなければならないことはあるけれども。
「ぬあぁッ! どうすればいいんだよぉ!」
どうしようもない状況に思い至った宏雪は、後頭部を掻きながら途方に暮れてしまった。
自分が引き起こしてしまったのだから自分で何とかしなければならないことは分かっている。
しかし、いったいどうしたら良いのか見当すらつかない。
しかも、相手が最も知っている雪那であるからこそ余計に悩めるのだった。
「とりあえず朝ご飯でも食べようかな、後はそれから・・・・・・といってもなあ・・・・・・はぁ」
ため息をつきながら階段を下りて一階に戻ると、二人分の朝食の並んだテーブルに一人座り寂しく朝食を取る宏雪だった。
一方その頃、雪那はといえばまだ自宅前にいた。
我が家の玄関からは死角となる塀に寄り掛かり、右手に持ったケータイを開いたまま画面を見つめている。
昨日の今日ではどんな顔をして面と向かえば良いか分からず、宏雪が起き出す前に家を飛び出してきたのだった。
とはいうものの、こんな朝早くから家を出たところで何も考えなどなかった。
もしかしたら心配した宏雪からメールでもあるかもしれないと思って、さっきからケータイ画面を頻繁に確認しているのだが、案の定何の連絡もない。
「連絡なんてあるわけないわよね」
そう呟いてケータイを閉じると、空を見上げ天を仰いで心のモヤモヤを吐き出すように大きく息を吐き出した。
すぐにでも探しに来てくれないことが不満ではあったが、今のおかれた状況を考えると仕方がないことは分かっている。
とはいえ少なからず期待をしていただけに、落胆の気持ちもまた大きかった。
(あたしだってどう話したらいいのか分からなくて何もできなくているんだから、ヘタレのあいつが連絡なんてするわけないのに・・・・・・何やってんだろ、あたし)
視線を落とし俯くと今度は大きくため息をつき、そのまま腕を組んで考え込む雪那。
しかし、寝不足の頭ではまともなことは何一つとして思いつかない。
昨夜の行為の後、一晩中寝るどころではなかったから無理もない。
その上、いまだに足の付け根に鈍い痛みがあるため、どうしても気がそちらにいってしまう。
昨晩は、宏雪に決別を突きつけられてもなお素直になりきれなかった自分に対する情けなさ、他の女に弟を奪われることへの憤り、そして何よりも自分の気持ちを押し殺してしまったことへの悔しさ、それらの感情が入り混じり激しく乱れた気持ちが爆発したかのように泣き伏していた。
泣きじゃくっては落ち着いて、また思い出したように泣いては落ち着いてを繰り返して、ようやく精神的な安定を取り戻した時には空が白み始めていた有様だった。
「んんぅ、ねむぃ・・・・・・ふぁ・・・ぁ」
再び湧き上がってきた眠気に思わずあくびが出てしまう。
誰かに見られたかもしれないと思い、慌てて手をかざして口元を隠し周りを見回すも、通行人もまばらで誰一人見向きもしていなかった。
ぼんやりとした頭だからなのかそんなことにはすぐに気が回る。
それなのに肝心なことは、考えてもどう行動したら良いのか全く見当もつかない。
眠い目を擦り軽く伸びをすると、時間を確認しようと再びケータイを開く。
ちょうど六時四十五分を過ぎたところだった。
そろそろ家の前から離れなければ宏雪に見つかってしまうかもしれない。
足元に置いていたカバンを手に取りその場を後にした。
泣きすぎて赤く腫れあがり、目の下にうっすらと隈の浮き上がった目元を何度も擦りながら、学校に向けて歩みを進めていくのであった。