朝の課外授業が終わったばかりの2−7の教室に、一人机に突っ伏している女子が一人。
今日の授業はまだ始まったばかりだとというのに、明らかに疲れ切った後姿をしている。
そして、どことなく悲しげな雰囲気すら漂っていた。
「ちょっとユナちゃん、大丈夫?」
そこへ友人の一人である楢山弓佳が声を掛けてきた。
彼女は、栗色の髪に長い睫毛、パッチリとした大きな瞳の可愛らしい美少女だ。
少しきつめの印象のある雪那と比較すると、愛らしい顔立ちをしている。
その可愛らしさに加えて、身長も150センチ半ばほどしかないため、雪那との身長差もあいまって妹キャラ的位置づけをされている。
彼女自身は二つ下の弟のいる姉なのだが、何故かそのように見られているのだった。
しかしながら、その体に似合わぬほどの大きなバストを持っており、噂によるとその大きさは雪那をも凌ぐ推定Hカップなのだという。
弓佳もいわゆる『学園三大美少女』の一人に数えられ、雪那に負けず劣らずの人気を誇っていのる。
小学生以来の付き合いになる二人だったが、今朝の雪那の様子に彼女は驚きを隠せない。
雪那との付き合いの長い弓佳にとっても、そんな姿を見るのは初めてのことだった。
しかも、朝課外の前よりも明らかにつらそうに見える。
「ん・・・だいじょうぶ、だよー」
そうは答えるているものの、机に伏したままの雪那の声はいつになく力なく弱々しい。
「そんなこと言って、どう見ても大丈夫には見えないよ」
「ちょっとね・・・・・・疲れがたまってるだけだから、大したことないってばー」
弓佳が心配するのは無理もない。
話し方もいつものハキハキしたものではなく少し間延びしたものだし、何よりもその表情や顔色にまるっきり生気がないのだ。
「顔色は悪いし、かなり疲れてるみたいだし・・・・・・ほらっ、少し熱もあるよ」
「んぅう、そぉ? 別になーんともな、い・・・って」
「ほらぁ、きついんでしょっ? ちょっと保健室で休んできたら?」
相変わらず机に身を預けたまま顔だけ上げ、弱々しいながらも受け答えしてはいるものの、どこか上の空のような様子が気に掛かる。
額に手を当ててみると微熱もあるようで、とても大丈夫そうには見えない。
「いいよぉー・・・・・・行くのだるいし、このまま寝てるー」
再び机に乗せた腕に顔を埋めると、ため息を一つついたっきり黙りこくってしまった。
「じゃあ、無理やりにでも連れて行きますからね」
そう言うと弓佳は雪那の右腕を取り、机から引き離すべく力をこめて引っ張り始めた。
「動かないなら引きずってでもぉッ・・・連れて行くんだっから・・・・・・ねッ」
とは息巻いてみたものの、彼女の力ではなかなか動かすことができない。
そもそも雪那自身が動こうとすらしないので、彼女の力ではビクともしないのだ。
「むぅ・・・強情だなぁ。それならこっちにだって考えがありますよ」
それならばと引っ張るのを一旦やめて手を離すと、今度は押して動かしに掛かる。
そのまま左側に回りこみ雪那の左肩に手を置くと、一気に力を込めた。
「引いて駄目なら・・・・・・押しちゃうよッ」
すると思ったとおりズズッと右へとずれ始めた。
ここぞとばかりに弓佳は体重を掛けていく。
さすがの雪那も、弱っていてはあまり踏みとどまることもできない。
それに気付かない弓佳は力任せに押し続けたため、思わず机と椅子から突き落としそうになってしまう。
慌てて腕を引っ張るも、逆に自分の方が引きずられていく。
この期に及んで、ようやく雪那が身体を動かした。
ゆっくり上体を起こすと、閉じそうになる目蓋をさすりながら気だるそうに声を上げる。
「んもぉ、弓佳は強引なんだから・・・・・・はぁー」
「それはユキちゃんが動きたがらないからでしょ?」
「だって、面倒くさいじゃん」
「もう、いいから保健室へ行くよ! ほらほらッ!」
再び雪那の右腕を掴むと、弓佳はグイグイと引っ張っていく。
「うぅ・・・わかった、わかったからひっぱるなぁ〜」
ついに観念した雪那は、友人に身を預けるようにしよろよろと立ち上がった。
「ならば、妾を責任持って保健室へと連れて行くのじゃー」
「はいはい、ちゃんと連れて行きますよ・・・って、ユキちゃんしっかり歩いてよッ」
雪那がわざと尊大な物言いをすると、一方の弓佳は息の合った相棒よろしく軽く応じる。
そのまま肩にかぶさるように寄り掛かりながら歩こうとする雪那に、思わずぐらついてしまった弓佳は即座につっこみをいれる。
「なによぉ、ちゃんと連れて行ってくれるって言ったじゃん」
「言ったけどさ、歩くことくらいはできるでしょ」
冗談を言う余裕はあるのか、そんなことを言いながら渡り廊下を渡り、隣接する校舎へと歩いていく。
自分の足で歩いていく雪那ではあったが、しかしながらその足取りはゆっくりとしたものだった。
「ユキちゃんさあ」
「なーに?」
「昨日何かあったの?」
「え? なんで?」
さっきから気になっていたことをそれとなく聞いてみる弓佳。
明らかにいつもと様子がおかしい時、それは100%自宅で何かがあった時なのを彼女は知っていた。
そしてその何かの原因が弟の宏雪にあるということも。
ただ、これまでの異変とは随分と趣が異なっていることが気に掛かったのだった。
「いや、ヒロくんと何かあったのかなって思って」
そう尋ねたその刹那、雪那の顔が一変した。
顔を強張らせ、固まってしまったかと思うとそのまま俯いてしまった。
マズいことを聞いてしまったと咄嗟に感じた弓佳は、大急ぎで繕いの言葉を続ける。
「あっ・・・別に、話したくないなら無理には聞かないよ」
「うん、たいしたことないんだけど・・・・・・またケンカしただけで」
「そう?」
「ま、まあね・・・いつもよりも感情的になっちゃって・・・それで眠れなくてね」
雪那は慌てて作り笑顔を向けると、とりあえずいつもと同じ理由を聞かせた。
だが、それが真実ではないことは弓佳にはすぐに理解できた。
本当にケンカしたのであったら、その翌日にはかなり感情的になっているはずなのだ。
ところがどういうことか、今の彼女には全くその兆候が見られない。
むしろ、精神的にかなり疲労しているように見える。
だからこそ心配になり、保健室で休むように声を掛けたのだった。
「もう、どんなケンカをしたのか知らないけど、ちゃんと睡眠は取らなきゃダメだよ」
できるだけ努めて明るく返した弓佳だったが、雪那は「そうだね」と呟くと、ただ力なく笑うだけだった。
保健室に入ると、いつものことながらたくさんの生徒たちが入り浸っていた。
人数は男女比でいえば男子の方がかなり多くいる。
養護教諭の槻嶋流美目当てでやって来ているのは明らかだった。
男子のほとんどはどう見ても体調が悪いようには見えないし、先生と楽しそうにおしゃべりなんかしている。
「せんせーい、体調の悪そうな人を連れてきましたー」
そう言った弓佳の声に反応した生徒たちの視線が入り口へと向けられる。
そこに立っている二人が誰かを確認した途端、彼らは俄に色めき立ちはじめた。
『学園三大美少女』のうちの二人が現れたのだから無理もない。
「おい、すげーぞ! 流美先生だけじゃなくて橘と楢山にまで会えるなんてよ!」
「それにしてもスゲー胸してんな!」
「橘も楢山も先生に負けない爆乳だな、ホントにスゲー迫力」
男子等は口々にそんなことを発し、その視線は三人のバストへとくぎ付けになっていた。
雪那も弓佳もそんな不仕付けな視線には慣れていたが、面と向かって直接無神経な物言いをされるのは気に障る。
「はーい、皆さんは教室に戻ってくださーい。でないと体調悪い人が休めませーん」
調子の悪そうな雪那を見ると、流美はその場にいた男たちに戻るように促す。
「えーっ! まだいいじゃん、授業まだ始まんないしさ」
「そうだよ流美ちゃん、あと五分したら行くからもう少しいさせてよ」
「だめでーす。体調の悪い生徒が来たらっ、それ以外の生徒さんは立ち入り禁止ですよー」
「あぁ、なんか突然寒気がぁ・・・」
「う、俺も少し熱ぽっいような・・・」
だが、なんだかんだ取って付けたような口実を垂れ、彼らはなかなか出ていこうとはしない。
いつものことながら教室に戻る気はないらしい。
すると手を止めて作業をやめ、机から体を離し彼らに正対する流美。
「あら、それはこまりますね。それなら、そこでよくサボっていることを担任の先生に報告しちゃいますよ?」
死角になっている外に視線をむけながら、流美は不意にそんなことを言い出した。
彼らは一瞬固まってしまったかと思うとそのままテーブルに突っ伏してしまう。
「うぐ、それ言われると痛いなぁ」
と、そのうちの一人がふと気付いた。
「ていうかさ、サボってることなんで知られてるわけ」
「あ・・・そういえば、誰にも見つかってないはずなのに・・・」
彼らが疑問に思うのも無理はない。
彼らがサボるために使っている場所は、保健室からはもちろん学園のどこからも死角になっている。
今まで誰にもその場を見つかったことはない。
だが、彼女の如何にもそれを見ていたかのような口ぶりに、なによりも視線の先がちょうどその場所だったのだ。
「知ってるものは知ってるんですよ。それで、戻るんですかどうするんですか?」
「あぁ・・・も少しだけここにいさせて・・・」
「バカッ、それ以上言ったらヤバイって」
笑顔でニコニコしていた流美の表情が少しずつ引きつったものにへと変わっていく。
息を吐き出して再び吸い込み、冷たい無表情に変貌するや否や睨み付けるような鋭い視線を飛ばし一喝した。
「お前等、邪魔だって言ってるんだよッ! さっさと出ていきなッ!」
さっきまでののんびりとした声から一転、凄みの利いた声が響き渡る。
その瞬間、場の雰囲気が一挙に凍て付いた。
静寂に包まれた室内は、物音を立てることすらもはばかられるほどだった。
そんな空気を払ったのは雪那の一言であった。
「あのっ・・・休みたいんですけど・・・」
すると何事もなかったように流美は元の温和な表情に戻った。
「そうでしたっ」と言いながら手を合わせると、立ち上がりベッドサイドのカーテンを開けた。
何やら鼻歌を歌いつつ、シーツの皺を伸ばし布団を綺麗に整える。
「はーい、おまたせしてごめんね」
手招きして雪那を招き寄せると、そこに横になるようにベッドをポンポンと叩いて促す。
雪那は、その近くまで歩み寄ると倒れ込むようにベッドの上に身を横たえた。
「では流美先生、あとはよろしくお願いしまーす」
「はいはーい」
弓佳は明るい声でそう言うと流美も軽やかに返した。
二人ともまるで何も無かったかのようだ。
「すごい変わり身・・・いつ見ても」
「そうかな? わたし保健委員だから結構見るけど慣れたらそうでもないよ?」
「いや、あたしは何度見てもすごいと思うよ」
「まあ変わり身だなんて、私はいつも変わりませんよ? うふふ」
三人が話しをしているうちに立ち去るべく、男子等は気付かれない間にそーっと立ち上がると開かれたままのドアに向かう。
しかし、同じ室内での人の動きに全く察しがつかないはずがない。
眼光鋭く見やると流美は口調柔らかくこっそり立ち去ろうとする彼らに一声掛けた。
「あなたたちはセクハラ発言をしちゃいましたから、十日間保健室の出入りを禁じますからね」
「「は、はいぃっ」」
口元以外は笑っていない彼女の表情を見る勇気もなく、彼らは一目散に退散していくのだった。
笑いをこらえながらその様子を見ていた弓佳だったが、そういえばと思い出したように時計を見やる。
間もなく一時限目の授業が始まることを確認すると小走りに廊下へと向かう。
「それじゃ、わたしも教室に戻るね」
「ん〜、じゃあまた後で」
雪那はドアの前で振り返った弓佳にひらひらと手を振る。
「ユキちゃんしっかり休むんだよ?」
「わーかってるから」
「流美先生に迷惑掛けちゃダメだかんね、おとなしくだよ?」
「もうっ、わかってるてば」
言い返す元気が残っていることを確認すると、ニコッと笑い掛けて再び小走りで駆けていった。
「ふふっ、まるで妹の面倒を見るお姉さんみたいね」
「弓佳は世話を焼きたがるだけですって」
先ほどまでとは一転して陽だまりのような笑顔を振り向ける流美。
対して雪那は彼女の言うことにため息をつくように言葉を発する。
「でも二人ともいいコンビね。まっあなたとヒロくんほどの名コンビはいないけどね!?」
そう話しを続けようとしたが、その直後雪那の顔に陰りが見えたのを流美はしっかりと見てしまった。
今までにない表情に一瞬息を呑んでしまい、彼女は続けるべき言葉を見つけられない。
「えっと、少し寝ます・・・・・・なんだか眠いので・・・・・・」
「そ、そうね・・・とりあえず寝た方がいいわ」
と雪那がそれを察したのかそう言うと、それ以上何も聞かないでと言わんばかりに布団を頭から被った。
流美はただそれに同意するしかできず、乱れた布団の裾を綺麗に直すとカーテンを閉めた。
彼女がその場を離れようとしたその時、ぽつりと呟き声が耳に届いた。
「その・・・もし、弟が来ても・・・・・・中には入れないで、ください」
「え・・・? ええ、わかったわ」
そうやり取りしてから間もなく、静かな寝息が聞こえ始める。
そっとカーテンの隙間から覗き見ると頭にまで布団に包まれたまま寝ていた。
起こさないよう気を付けながら顔が出るように静かに掛け布団を折り曲げ整える。
穏やかな寝顔を目にして少し安心したものの、流美には彼女の見せた暗い表情がとても気になった。
ほんの一刻のことではあったが、一度たりとも見たことのない彼女の顔はとても気に掛かるものだった。