「うーん、どうすっかなぁ・・・・・・。でもなぁ・・・・・・、はぁ」
一時限目が終わったばかりの2年3組のクラスで、一人だけ明らかにテンションの沈んだ男子がいた。
いつもならばまだまだ元気に過ごしている時間帯なのだが、今日は登校時からいつになく暗澹としている。
「どうした? 朝っぱらから元気がないなんて珍しいな」
何やら独り言を呟きながらどんよりとした空気を漂わせている宏雪に、
「あぁ・・・・・・今日はちょっと、な」
振り返りつつそう返した宏雪の表情は暗い陰りを帯びていた。
いつも放課後見せているたそがれた雰囲気をより淀ませたようだ。
「どうせまた雪那ちゃんとケンカでもしたんだろ、いつものことじゃんか?」
真紀とは異なり宏雪の様子を全く意に介さない和志は、隠し持っていたサッカー雑誌に目を向けたままでいる。
「それならいいんだけど、何かいつもと違うからどうしたのかと思って」
「コテンパンに言い負かされたんじゃないの? 第一宏雪が勝てる相手じゃないんだから、だろ?」
「・・・まあね」
「何だよ、言い返す元気もないのかよ」
雪那の弟に対する強気な態度をよく知っている真紀だったが、宏雪の普段と違う態度に少し心配の色を見せる。
それに対して和志は、ケンカ翌日はこんなもんだろと言いたげに返すと宏雪に念を押しす。
しかし、いつもなら「別に負けてないっ!」 等と言い返すはずなのに、気の無い生返事を発しただけだった。
「あ、ヒロくんいたっ」
とそこへ雪那のもう一人のパートナーとも言える弓佳がやってきた。
宏雪の姿をその目で確認すると、小柄な体に不釣合いに大きなバストを弾ませながら急ぎ足で歩み寄る。
その顔付きは普段見せる喜色満面の笑みではなく、至極真面目な顔付きで宏雪に視線を向けた。
そこで一旦何やら言い淀むようなそぶりを見せたものの、少しの間の後クッと相好を引き締めると口を開いた。
「あのね、ユキちゃんの様子が朝から変なんだけど、ヒロくん何か知らない―――って聞いてる?」
姉のことを話題を振ると何かしらの反応が必ずあるのだが、机と向き合ったまま表情一つ変わらない。
うんともすんとも反応しないことを訝しく思い、弓佳は宏雪の顔を覗き込む。
そこには、つい今しがた目の当たりにした雪那とほとんど同じ表情があった。
ただ弟の方が症状はいくらか軽いようだ。
双子の姉弟のことだからそうだろうとは思っていた弓佳だったが、さすがに雪那と全く同じ様相の表情を見せ付けられるとは正直想像してもいなかった。
もはやここまで来ると流石は一卵性双生児と言うほかない。
だが、滲み出ている雰囲気はこっちの方が一段と重いものを纏っている。
「あ〜そいつさぁ、昨日ケンカしてコテンパンにやられたらしくってよ、めっちゃヘコんでんだよ」
「えっそうなの!?」
そこへ口を挟んできた和志の言葉に弓佳は驚きを隠せなかった。
大きな瞳をさらに丸く見開いて彼女はしばしの間言葉を失ってしまう。
彼らはことあるごとに一喜一憂する姉弟ではあるけれど、まさか二人して撃沈しているなんて。
二人との付き合いは長いものになるが、こんなことは初めてのことだ。
「ユキちゃんもかなり落ち込んでたから、てっきりヒロくんに負かされたのかと思ってた・・・・・・」
「はぁっ!? 雪那ちゃんが落ち込んでるって?」
「そうなの、変でしょ? それで何があったのか聞きに来たんだけどね・・・・・・」
ここにきてあまり関心を示していなかった和志もさすがに目を丸くして驚いた。
思わぬ展開に手にしていた雑誌を思わず取り落としてしまう。
次の瞬間、椅子や机を弾き飛ばす勢いで立ち上がりそのまま宏雪目がけて詰め寄ると、いきなり組み付いて喧嘩腰に食ってかかった。
「おまッ! 雪那ちゃんに何したんだよっ! 雪那ちゃんが落ち込むなんて相当だぞっ!」
見た目からは軽く見られがちの和志だったが、実は女の子に対してとても真摯であるべきとの考えを持っている。
男たるもの手を上げるなということは言うに及ばず、悲しませるようなことは恥じであるとまで言い切るほどなのだ。
そんな和志も、宏雪が雪那にどれだけ振り回されているのかよく知っている。
同情することもしばしばだったが、それとこれは全く別とばかりに噛み付く。
「お前! 何てことしやがったんだよっ! 言えよほらっ! 何をしたか言えっ!」
しかし、掴んだ襟首を激しく揺り動かすも、宏雪はガクガクと揺さぶられるだけで大した反応がない。
何らかの言葉を吐かせようとさらに激しく揺すろうとしたその時、さすがに真紀と弓佳が止めに入った。
「和志! 落ち着け! とにかく放せって!」
「そ、そうだよっ! とりあえずカズくん落ち着いて!」
「これが落ち着いていられるかぁッ! お前が雪那ちゃんを泣かせるような奴だったなんて・・・・・・お前はそんな奴だったのかよッ!」
二人掛かりで諌めお互いを引き離そうとしたが、気色ばんだ和志はなかなか手を放そうとしない。
無理やり離そうとすると却ってムキになり、余計に放そうとしなくなってしまう。
とそこで姉の『名』と『泣かせる』という言葉を聞いた宏雪が、聞こえるか聞こえないかのかすかな声で何事か口走った。
「何? 何て言ったんだよ! 聞こえねえだろーが! 聞こえるような声で言えよっ!」
掴んだ襟を放すと、今度は両肩を鷲掴んで迫る和志。
すると宏雪は肩を掴んだ手を振り払い、不機嫌そうな面構えを向ける。
「オレだって・・・・・・オレだって、好きであんなことしたんじゃないんだよっっ!」
眼光鋭い目つきで和志を睨み付けると、心の内を吐き出すかのように声を荒らげた。
思わぬ宏雪の切り返しに三人は面食らしてまう。
一瞬フリーズしかけた思考を働かせると和志は再び感情的に切り返す。
「だっだから、何したのかって聞いてんだよ!」
「うるせーってッ! カズには関係ないだろっ! ほっといてくれよっ!」
普段の宏雪からは想像しえない怒声が辺りに響く。
面白がって眺めていたクラスメイトたちも今や固唾を呑んで見守っている。
そのまま宏雪はガタンと大きな音を立てて荒々しく椅子に腰を下ろした。
そのまま頭を抱え込んでまたしても黙り込んでしまうのだった。
「あんまり刺激するなって」
さらに何か言い返そうとする和志の肩に手を掛けると真紀が制する。
まだ言い足りないといった表情で真紀に視線を向けていたが、肩に乗せた手に力を込められるのを感じ取ると、憮然とした仏頂面を見せながら自分の席へと戻った。
二人のやり取りをオロオロとした様子で見ていた弓佳だったが、どうにか収まったことには少しばかり安堵した。
ただ、雪那のことは話しをしておかなければならないという気持ちがあるものの、今の今ではどう声を掛けるべきか分からない。
でも、このまま自分のクラスに戻るのは気が引ける。
ゆっくりと宏雪の傍らに歩み寄ると恐る恐る声を掛けた。
「あっあのね・・・・・・それで、ユキちゃんなんだけどね・・・・・・。えっと、なんかかなり調子悪いみたいで保健室で休んでるんだけど・・・・・・。あぁ、でも今はそれどころじゃないよね・・・・・・」
しかし、反応もほとんどないため聞こえてるのか聞こえてないのか判断がつかず戸惑う弓佳。
この場に居づらい雰囲気を感じ始めていたその時、思い出したように宏雪がガバッと顔を上げた。
「どうしよう・・・・・・、なんてことに・・・・・・」 とか何とか呟きながら両手で頭を押さえると、椅子を弾き飛ばさんばかりの勢で立ち上がった。
色を失い狼狽した表情を見せると弓佳ににじり寄る。
「そ、それって・・・マジなの!? 雪姉が保健室って・・・・・・」
「え・・・ぅ、うん、そうだけど――って」
青褪めた顔で慌てて問い返す宏雪。
それに対する弓佳の返答を聞き終わるやいなや、脱兎のごとく教室を飛び出していった。
パタパタとした慌ただしい足音が次第に小さく遠くなっていく。
「あー・・・・・・どうしたんだろうな、宏雪」
宏雪を中心にしたいつになく激しいやり取りに教室内は静まりきっていた。
一部始終を一人冷静に見ていた真紀が、その沈黙に覆われた空気を薙ぎ払う。
「そ、そうだね、何があったんだろうね・・・・・・」
あっけにとられていた弓佳はただ同じようなことしか返すことができなかった。
雪那のことといい宏雪のことといい、付き合いの長い彼らにも何が何だか分からない。
ただ一つ判明していることは、彼らにすら話せないこと話したくないことがあるということだけだ。
弓佳と真紀はただ取り返しのつかないことにならないことを願うばかりだった。
「知ったことかっ! あいつがほっといてくれって言いやがったんだからほっときゃいいんだよ!」
一方の和志は苛立ちもあらわに吐き捨て荒っぽく腰を下ろすと、やるかたない感情を発散するように不貞寝をし始める始末。
だが「ああ、ムカつく」 とは言いつつも、内心では二人のことが気掛かりなのであった。
ようやく静けさが去り日常の喧騒さを取り戻した教室を余所に、取り残されたように気まずい空気が三人を包んでいた。
保健室を前にして宏雪は二の足を踏んでいた。
勢いのままにここまで来たものの、入ろうかどうか踏ん切りがつかない。
いつまでもドアの前で仁王立ちしたままでいるわけにはいかないので、握り拳を作りノックしようと一歩前に出る。
だが、拳でドアを叩くことができない。
自分のウソが全ての引き金となっているだけに、面と向かってきちんと謝らなければならないと思う。
それは分かっているが、昨日の今日だけに姉に合わせる顔がないというのが正直な気持ちだった。
そもそも雪那が顔を合わせてくれるのかどうかすら怪しい。
それだったらしばらくの間会わない方が良いのではないだろうか。
その方が姉を刺激しない済むだろうし、今の自分を苛んでいる罪悪感も薄れるかもしれない。
「バカッ! オレのバカッ! 雪姉を傷つけてしまったっていうのに、何自分が楽になること考えてるんだよっ!」
慌てて自分本位な考えを振り払うと、握ったまま手持ち無沙汰にしていた拳で何度も何度も自らの頭を殴った。
いちばんつらいのは雪那に違いないのに、自分自身ながら何と情けないことか。
本当に意気地の無い情けない男だと自分でも思う。
今のこの状況だって自分でまいた種なのにそれすら解決できないでいる。
それどころか、気が付けば逃げることばかり考えてしまっている。
「はぁー・・・っ、何でこんなに情けないかなぁ」
保健室入り口横の壁に背を向けもたれ掛かり、沈んだ心を代弁するかのような盛大なため息を漏らし呟いた。
左に目を向けると、そこには最近三か月分の保健室通信が張ってある。
今月号の内容はまさに今の二人は最も必要であろう事柄が書いてあった。
『あなたの心は大丈夫?』と題したその内容は鬱病に関するものだった。
「ふーん、『親の過度の期待・失恋・いじめ等で精神的に病む可能性が』ねぇ・・・・・・。まるで今のオレだな」
さらに読み進めていくと自分がしでかしたことにも当てはまることがいくつも出てきた。
思い当たることを一つ一つ確認する度に、昨夜の出来事が再びありありと蘇ってくる。
雪那のことだから精神的に滅入るなんてことなんてありえないとさえ思っていた。
しかし、普段は強気だからこそ傷付きやすいし、精神的に脆いということは大いにありえる。
知られたくない心の内を隠すためにわざと虚勢を張って強がるというのは、マンガやアニメはもちろん現実にも良くあるパターンでもある。
今さらになって思い出したけれども、雪那は小さい時からいつもそうなのだ。
昔『怖くて入れないんでしょ』と宏雪にけし掛けられたからってお化け屋敷に入ったことがあった。
暗闇とお化けの類が怖くてしかたないくせに、「ヒロが怖がっているから一緒に行ってあげる」などと強がって見せていたが、結局あまりの恐怖に途中で動けなくなり、挙句泣き出してしまったのだった。
絶叫マシーンだって苦手も苦手のくせして、「お化け屋敷の時はたまたま調子が悪かっただけ」なんて言いのけて、何を思ったのかバンジージャンプに挑戦して悲惨なことになっていた。
遂には極度の緊張と恐怖で気を失ってしまう始末。
その後、「全てはあんたのせい」だとなじられ散々酷い目に遭わされた。
そんなことが良くあったことを思えば、自分がしたことは雪那を激しく傷つけたに間違いない。
やはり今すぐにでも謝らなければと思い、今度こそ開けてしまおうとドアに向き合ったまさにその時。
不意にドアが開いた。
そこには保健室を出ようとしていた流美の姿があった。
驚いて思わず突っ立ったままでいた宏雪だったが、それは流美も同じだったようだ。
「あらっ、橘くんじゃない」
一瞬驚いたように目を開いた彼女だったけれども、何事もなかったようにすぐに宏雪に声を掛けた。
雪那の様子からして流美はうすうす感じてはいたが、こちらはこちらで精気のない顔をしている。
これは一筋縄ではいかないだろうことは、彼女にはすぐに直感的に理解できた。
「え――っ? あっ、流美ね――じゃなかった・・・・・・、流美先生・・・・・・」
「そんなところでどうしたの?」
「あっ、いや・・・そのっ」
宏雪はまさか今ここで彼女に遭遇するとは思っていなかった。
大抵火曜のこの時間帯には保健室にはいないはずなのだが、何故か今日に限って在室中だったらしい。
雪那が休んでいてその弟である彼が様子を見に来たとなれば、いろいろ尋ねられるのは当然のことだ。
しかも、その内容が他人には到底言えないことであるためなんとも答えようがない。
しかも、相手が彼ら姉弟を生まれた時から知っている流美となれば、なおさら誤魔化すことは難しい。
だからこそ流美の在室している確率が最も低い時間を狙ってきたのだが、全くもって無意味なことだったようだ。
「もしかしてお姉さんの様子を見に来たのかしら?」
流美はただ思い当たる節を言葉にしただけだったが、今の彼には痛いところを突くものだった。
もはや心臓は今にも飛び出んばかりだ。
彼女の含みを持たせたような言い草に、いつもらしからぬどことなくぎこちない笑み。
宏雪の心を乱し焦燥感を煽るにはそれだけで十分だった。
雪那も宏雪と同じようなものだから、もしかしたら誤魔化せずに彼女の知るところになっていることも考えられる。
流美のいつもの態度と何かが異なることを感じたこともあり、悪い方向へと思いが至ってしまう。
姉同様に自分たちのこととなると短絡的になる彼の思考は、高確率で流美に露見しているとの結論を導き出した。
「そ、そのっ・・・・・・また、ひっ日を改めてからお訪ねしますっ!」
「え・・・っ? あ、待って――って、もういないわ・・・・・・」
見る見るうちに色を失い顔面蒼白になった宏雪は、そう言い残すとあっという間に走り去ってしまった。
普段の流美には使わない言葉遣いからも、そのただならぬ慌てようが見て取れる。
まるで嵐が過ぎ去った後のような静けさだけが残っていた。
「そういえば彼、普段あんなに足速かったかしら?」
引き止める間もなく取り残されてしまった流美は、心配そうな表情を見せながらふとそんな疑問に思案を巡らせるのだった。