雪那はうなされていた。
怖い夢を見ているわけでもなければ、嫌な夢を見ているわけでもない。
見ていたのは宏雪が自分を置いて離れていってしまう夢。
「ごめん。オレ、もう雪姉とは一緒にはいられないよ」
「ヒロ、ちょっと! 待ちなさいよっ! どこに行く気!」
自分に背を向けて去っていこうとする宏雪を引き止めようと雪那は腕を掴んだ。
確かに掴んだはずだった。
だがどういうわけか掴んだはずの腕をすり抜けてしまう。
「ちょ・・・ッ、何で掴めないのよ!」
何度も何度も手を伸ばすのに腕がただ空を切るだけで、その手で触れることすら叶わない。
その間に肝心の宏雪は次第に遠くへと離れていく。
慌てて走って追いかければ追い付くことはできる。
だが、彼には触ることだけはどうしてもできなかった。
「なによっ! 逃げる気なの!? あたしから逃げるなんて許さないんだからっ!」
そう言って後ろからしがみ付こうとしたものの、その場で前のめりに倒れ込んでしまうだけだった。
そのうちに宏雪との距離はどんどんと広がっていく。
「何で!? どうしてよっ! どうして行っちゃうのよぉッ!」
募る不満と悔しさをぶつけんばかりに叫ぶと、不意に宏雪が振り返った。
姉である雪那を置いていこうとしているからなのか、今までにないくらいその笑顔は晴れがましい。
まるで呪縛から解放されたことを心から喜ぶかのように。
振り返った彼が見せた表情が雪那の心をキリキリと締め付ける。
「あたしから逃げられるのが、そんなに・・・・・・そんなに嬉しいの!? だったら、だったら勝手に行けばいいじゃないのっ! 後で泣き付いてきたって絶対許さないんだからッ!」
痛む胸の内とはまるで正反対の言葉を発せずにはいられない。
そうでないとすぐにでも正気を保ってすらいられそうになかったから。
しかし、次の瞬間宏雪のその笑顔が一変した。
彼女の強気な言葉とは裏腹の感情を見透かしたかのごとき嘲笑の笑みを見せたのだ。
それを目の当たりにした雪那は崩れ落ちるようにその場にへたり込んでしまった。
虚勢によって支えられていた彼女の心はこの瞬間打ち砕かれたのだった。
力が抜け座り込んでしまった彼女の顔貌には、いつもの弟に見せていた強気の姿はもはやない。
そこには普段の傲岸不遜で勝気な姉ではなく、ただか弱い女の子としての彼女がそこにいるだけだった。
そんな姉の姿を見るや、宏雪は勝ち誇ったかのごとき笑みを向ける。
「や、やめて・・・・・・イヤ・・・ぁ、そんな顔・・・・・・見せないで・・・・・・」
雪那の目には見る見る涙が浮かび始め、あっという間に溢れんばかりになっていた。
さらに追い討ちをかけるような光景が彼女に突きつけられる。
なんと、彼の横には同じ学園の制服を着た女生徒が寄り添うように立っていたのだ。
「イヤよ、そんなの・・・・・・だめッ――だめぇッ! 行かないでぇッ!」
寄り添う女性徒の顔は見えない。
でも、雪那には分かる。
その彼女も勝ち誇った顔付きでせせら笑っているのだろう。
それが悔しくて切なくて悲しくて大粒の涙が零れ落ちる。
「どうしてよぉ・・・・・・どうしなのよぉ、ひっく――どうしてあたしじゃないのよ・・・ぉ、ぐすっ・・・ん」
もう雪那の怒りの熾はすでに消し炭と化していた。
残っていたのは宏雪を永遠に失ってしまうことへの恐怖感と強い寂寥感、そして深い後悔の念だった。
宏雪を失いたくない。
ずっと傍にいて自分だけを見ていて欲しい。
でも自分の我が儘のせいで全てを失うことになってしまった。
今にも胸が張り裂けんばかりの感情に身体中を刺し貫かれるかのようなつらい痛みが雪那を苛む。
遂にはその辛苦に堪えきれなくなり、全てを曝け出した本心からの悲痛な叫びを上げた。
「今までのこと謝るから・・・・・・反省するから・・・ぁ・・・。だから、うぅ・・・・・許してぇ――ッ、ひぐッ・・・・・・ぅ、おねがっ・・・ぁい、行かないで――ぇッ!」
姉の叫びがまるで聞こえないのか、再び背を向けた二人は光の彼方へと遠ざかっていく。
「イヤっ、イヤよイヤッ! ヒロがいなくなったらあたし・・・・・・どうすればいいの? うっうぅ・・・・・・離れたくない、ずっと一緒にいてよぉッ! ヒロなしじゃイヤなんだからぁッ!」
雪那の叫びがもはや届くことはなく、ただむなしく響くのみ。
たった一人暗闇に取り残された彼女は、我を忘れてただただ号泣するしかなかった。
しゃくり上げ激しく泣じゃくる姿は、心を苛む痛みそのものだった。
「行かないで・・・ぇ・・・、あたしを・・・・・・置いてかないでぇッ! あたしを・・・・・・あたしを、一人にしないでぇ――ッッ!」
突然の聞こえてきた雪那の振り絞った叫び声に流美は耳を疑った。
彼女がそんな声を発するなどということは一度たりともなかったし、ましてや考えようもないことだ。
悪い夢にでもうなされているのだろうか?
様子を見ようとカーテン越しに近づいたその時、再び声が上がった。
何かに縋り付くような声色がはっきりと耳に届いく。
だが、頭ではすぐには理解できない。
それはもはや懇願というレベルではなく、哀願と言っても過言ではないほど痛々しいものだった。
その上、時折嗚咽を漏らしてはしゃくり上げている。
慌ててカーテンを開け放つと、そこには泣きじゃくる雪那の姿があった。
しかしまだ夢の中にいるのだろう。
天井に右手を伸ばしたまま、「行かないで」 と何度も声に出しては涙している。
「雪那ちゃん! 雪那ちゃん! 大丈夫!? しっかりしてっ!」
驚いた流美は、慌てて声を掛けると雪那の肩を揺する。
どんな夢を見ているのかは分からない。
だが、まるで乱心したかのような激しい乱れようは、すぐにでも正気に戻さないと壊れてしまうのではと思うほどだった。
何度も何度も耳元で名前を呼びながら揺さぶっていると、それに気が付いたのかハッと目を開いた。
「雪那ちゃん! やっと気が付いたわね!」
心底ホッとしたとばかりに微笑み掛けた流美だったが、一方の雪那は目は覚めたもののまだ朦朧としている。
ようやく意識がはっきりとしたところで、すぐ側に流美がいたことに気付いた。
「流美・・・・・・先生・・・・・・?」
「よかったぁ・・・・・・。もう、心配させて」
雪那にはその言葉の意味がすぐには分からなかった。
ただ無性に頭が重くて、身体を起こすことさえひどく気だるく感じる。
ものすごく精神的に堪え難い何かがあった気がするが、はっきりとは思い出すことができない。
「・・・・・・そういえば夢で、何か――?」
額に手を当て、その何かを思い出そうとしたところで雪那は固まってしまう。
なぜなら、不意に流美によって優しく抱きすくめられたからであった。
流美にはそれ以上掛ける言葉が思い当たらず、ただそうするしか思い至らなかった。
何しろいまだに信じられないために頭がついていかないのだ。
暫く抱き締めていた身体を離すと、流美は何も言わずにハンカチを手渡す。
手渡されたハンカチを手にした雪那は、初めて自分が夢の中で大泣きしていたことに気付いた。
次第に霧が晴れていくように夢に見たことが思い出されていき、その情景が鮮明に脳裏に蘇るにつれて、再び心に暗雲が立ち込める。
夢であったはずなのに全てがまるで現実であったかのような気がしてならない。
呼び覚まされた悲しみと痛みの攪拌された感情が胸に込み上げてくる。
夢に見たものがフラッシュバックすることも相俟って、涙腺が緩み再び涙が溢れ出る。
「うっ、うっ・・・・・・ひぐっ・・・うっ・・・・・・ぅう」
ハンカチを目にギュッと押し当てて声を殺してただひたすら嗚咽を漏らす。
流美はそんな彼女を慰めるようにもう一度優しく胸に抱き締めた。
背に回した左手で背中をさすり、右手でそっと頭を撫でる。
柔らく温かい胸に包まれた雪那はもはや自分を抑えることができなかった。
「ひうぅっ・・・・・・あああぁ・・・ッ、あああああッッ!」
流美にしがみ付きその胸に顔を埋め声を上げて号泣する雪那。
感情の全てを吐き出すようにただただ泣きじゃくっていた。
流美の胸で一しきり泣き明かした雪那はようやく落ち着きを取り戻していた。
目は赤く充血し時折鼻を啜ってはいたものの、既に泣き止んだ彼女はベッドの端にちょこんと腰掛けている。
その隣には流美が並んで座り、雪那に何があったのかを訊いているところだった。
「ユキちゃん、何か大変なことがあったんでしょう? 私で良かったら聞いてあげるわよ?」
「あっ、でも・・・・・・流美ちゃ・・・先生、忙しそうだし・・・・・・」
「う〜ん・・・・・・私じゃだめかな・・・・・・?」
「そ、そんなことないですけど・・・・・・」
橘家と槻嶋家がお向かいさんであり、流美が雪那と宏雪が物心ついた頃からの良きお姉さんだといっても、流石に躊躇無く話せる内容ではなかった。
何が躊躇させるのかというと、昨夜の出来事と弟に対する気持ちの全てを話してしまったら流美に嫌われてしまうのではないかということにほかならない。
いくらなんでも実の弟を異性として愛していることなどとはそうおいそれとは話すことはできない。
「保健医の槻嶋先生じゃなくて、幼馴染のお姉ちゃんとしてでも・・・・・・話せない?」
じっと目を見てそう訊く流美の顔を流美は直視することができなかった。
「その・・・・・・話しにくいことなんです」
視線を逸らして俯くと一つ深呼吸をして言葉を濁す。
気心の知れた間柄でも、いやそうだからこそ軽蔑されるに違いない。
宏雪が離れていくことだけでもつらいのに、これ以上親しい人に離れられたらと思うだけで身も凍る思いがする。
「そう・・・・・・でもね、何となく分かるのよね、私には」
雪那から視線を外して前を向くと流美はふっと溜め息を漏らす。
そして僅かに仰向き話しを続けるために再び口を開いた。
「雪那ちゃん、ヒロくんと何かあったんでしょう?」
流美の一言に雪那はビクッと身体を震わす。
いきなり核心に迫る問いが向けられたことに動揺を隠せずにはいられなかった。
何かを言わんとするものの唇が震えるだけで声にならない。
誰かに今にも張り裂けんばかりの胸の内を話してしまいたい。
自分のこの気持ちを聞いて欲しい、聞いて分かって欲しい。
でも、実の弟を、それも遺伝子的にも同じ弟を愛している気持ちを言葉で紡ぎだすのは怖い。
それは全てを認めてしまうことになるから。
自分の気持ちと現実とのあまりのギャップの大きさに心が持ち堪えられるのか分からないから。
「駄目よ! 何があったのか分からないけど今の雪那ちゃんは逃げようとしているわ!」
雪那から漂う雰囲気から察したのか流美は唐突にそう言葉を発した。
殊の外大きな声が出ていたことに自分でも驚いたのか、流美は一度話を切りコホンと咳払いをして誤魔化す。
「大きな声を出してごめんね。でもね、雪那ちゃんが自分の気持ちを必死に隠して自分に嘘をつこうとしてるように見えたから」
この人には全てお見通しなのだろうか?
彼女に対しては幼い時から一つとして嘘をつき通せたことがない。
普段からそうだったのだから今さら誤魔化せるものではないだろう。
この期に及んでようやく雪那の心は決まった。
「あの、あたしヒロのことが好きなんです・・・・・・こんなこと言ったら軽蔑されるかもしれないけど」
思い切って打ち明けたものの内心は気が気でなかった。
ちらっと流美の表情を伺い見ると目と目が合ってしまい反射的に顔を背けてしまう。
どう思われているのだろうかと考えるだけで冷や汗が次々と流れ落ちてくる。
一瞬の沈黙が異様に長く感じられ、静けさに押し潰されそうな感覚さえする。
自分からはそれ以上何も言い出せずにいると、ため息を一つついて流美が口を開いた。
「そうだったのね」
ただそれだけを口にすると「ふう〜」と息を吐いた。
「確かに他人には理解しがたいいことね」
「やっぱりそうですよね、こんなことおかしいに決まってるて分かってるんです・・・・・・でも、どうしようもなくて」
それ以上はもう何も言えなかった。
「他人には理解しがたい」と言われた以上、何を言っても余計に墓穴を掘るだけ。
やはり告白すべきではなかったと後悔の念を覚え始めたその時、流美の口から予期していない言葉が発せられた。
「他人にはおかしいと思われるだろうけどその気持ち、私には分かるわよ?」
雪那には彼女が何を言わんとしているのか合点がいかなかった。
血の繋がった弟に恋愛感情を抱いていることが分かるとはどういうことだろうか?
「弟が好きで好きでたまらないんです! 弟以外の男の人なんて目に入らないんです! 弟でオナニーをするような姉なんですです! それでもあたしの気持ちが分かるんですか?」
社会通念上忌避されるこの気持ちが分かるなんてそんな訳がない。
だって自分はどうかしている異常な人間なのだから。
同じ心情を抱いている者でなければ決して理解できるはずもない。
「ええ、分かるわ」
理解されるはずもないという感情をぶつけても流美はあっさりとそう言いのける。
「どうして分かるって言えるの!? どうして、どうしてそう言い切れるの!?」
「雪那ちゃん落ち着いて、落ち着いて私の話も聞いて?」
「だってそんな、こんなに苦しいのに、こんなに胸が痛いのに・・・・・・それが分かるなんて、どうして・・・・・・」
雪那の頭は混乱していた。
流美の言っていることに納得がいかない。
「理解しがたいこと」と言っていたのに今度は「分かる」と言っている。
精神的に不安定な今の雪那には冷静な判断力があるはずもなく、心に波風が立ち穏やかでいられなかった。
「私には分かるのよあなたのその気持ち。うそだと思っているだろうけど本当よ?」
流美の顔はいたって真面目な顔貌をしていた。
若干低く抑え気味の声色からもそれが冗談ではないことを物語っている。
そうして雪那の方へと顔を向けるとじっと目を見つめる。
瞳の奥を見通されているように感じられ何も言い表せられずにいると俄かに流美が口を開いた。
「だって私も弟が、真紀のことが好きなんだから」
今から彼女が言おうとしていることこそ、雪那の気持ちが分かる理由そのものであった。
同時に雪那にとって想像を超えた衝撃の一言でもあったのである。