「手を繋いで」 第1節

見覚えのない部屋の見覚えのないベッドの上で目が覚める。
ここはどこだろう。
体を起こし、部屋の中を見回す。
どこか・・・アパートの一室のようだ。
ありふれた質素な家具に、少しだけ飾り気のある小物と内装。
起きあがって、壁の鏡を見る。
若い女の顔がそこに移る。
長いまっすぐな髪。広い額。細い眉。薄い唇。
・・・・・・誰?

鏡に映る見覚えのない顔。
鏡に映っているのだから、これが私の顔なのだろう。
でも、見覚えがない。
まだ起き抜けで寝ぼけているだけなのだと言い聞かせながら
私は必死に思い出そうとする。
そして、顔だけでなく自分が誰なのか思い出せないことに気づいた。

コンコンとドアをノックする音に驚いて飛び上がる。
「絵美、起きてるか?朝飯どうすんだ?」
誰だろう。まだ若そうな男の声がドアの向こうから聞こえる。
「絵美?まだ寝てるのか?」
話しかける口振りは、優しかった。
何か答えなくては、と思い簡単に返事だけ返す。
「・・・起きてるわ」
「俺、もう少ししたら出かけるから、食べるなら早く出てきてくれよ」
私のことを「絵美」と呼んだ。それが私の名前・・・なんだろう、多分。
呼び捨てで名前で呼ばれるんだから、それなりに近しい人らしい。
家族とか・・・ひょっとしたら夫・・・
いや、眠っていたベッドはシングルだし、それはないか。
自分の今の姿を見下ろす。
まだパジャマ姿だ。ベッドにかかっていた薄いカーディガンをはおると
ドアに向かい、そっと開ける。
「お・・・おはよう・・ございます・・・」

目の前に、きょとんとした顔をした若い男の人が立っている。
背は私より少し高いぐらいだが、肩幅は広く胸は厚かった。
髪は短く刈り込んでいて、Tシャツにジーンズというラフな格好。
そして・・・とても、ハンサム。
でも、その顔を見つめていても何も思い出せなかった。
やがて、彼が呆れて
「なにが、ございます、だよ。まだ寝ぼけてるのか?さっさと食べちゃってくれよな」
「あ・・・はい」
とにかくどうなっているのか、聞いてみるしかないのだろうが
どう切り出していいものか悩んでいると
ドアの前を立ち去りかけた彼が怪訝な顔をして私の顔を見つめる。
「・・・なんだ?どうかしたのかお前?」
「ええと・・・」
はっきりしない私に、彼がいらつき始めたのがわかる。
思い切って、まず浮かんだ疑問を投げかけた。
「・・・どちら様、ですか?」

何を言われたのか、最初はわからなかったらしい。
だが、やがて怒りの表情が彼の顔に浮かぶ。
「・・・なんだそれ。学校で流行ってる新手の冗談か?にしちゃ笑えないぞ」
ああ、どう言えばわかってもらえるの?
「いえ、あの・・・本当に、貴方が誰だかわからないんです。ついでに言えば、私が誰なのかも」
彼は腰に両手を当て、じっと私を見てからため息を付いた。
「俺はお前の兄貴でお前は俺の妹!・・・出かけるんだよ、俺。わかったからさっさと飯を・・・」
・・・もうダメ。
冷静さを保つように努めていたけど、もう限界。
「わからないのよ!本当に、自分が誰なのか、貴方が誰でここが何処だか、全然わからないの!」
「・・・なに?」
「お願い・・・助けて・・・どうなってるの?・・・私、どうしちゃったの!?」
思わず彼の肩にすがりついていた。
「お、おい・・落ち着け・・・落ち着いて話そう、な?」
戸惑いながらも、彼が私の手を取って、そっと握ってくれる。
暖かく、大きな手だった。

キッチンで向かい合って座り
私は冷めたベーコンエッグをつつきながら彼の話を聞く。
「寝ている間に記憶喪失なんてあるのか?」
「・・・わからないわ、そんなこと。とにかく、目が覚めたときには何も覚えてなかったの」
「まるっきり?・・・たとえば・・・ここが日本だとか」
「それは・・・わかるわ」
「何県?」
「東京都」
「何区?」
「・・・う?・・・区?」
そんな調子で、問答を繰り返していった。
その結果わかったことは、一般的な知識は残っているが
自分に関係するようなことはすっぽり記憶から抜け落ちているということだった。
「・・・俺の名前も覚えてないわけか」
「・・・ごめんなさい」
「いいよ、しょうがない・・・俺は純一だ・・・えーと、こういう場合よろしく、っていうのか?」

兄・・・純一から自分がどういう人間なのか、いろいろと説明を受ける。
名前は菅谷絵美。都内の大学に通う2年生。
両親は・・・いない。母は幼い頃、父は高校2年のときに亡くなっている。
1年間親戚の家に預けられた後、卒業を待って上京し、東京の大学に進学。
先に上京していて学校に近い兄・純一のアパートに同居中。
おおよそ、こんなところ。
まるで他人のプロフィールを聞いているようにしか思えない。
「アルバムとか見るか?何か思い出すかも」
兄が押入からアルバムを引っぱり出してくる。
「ほら、これが父さんで・・・」
兄が写真を指さしながら細かに説明してくれるが
朝、鏡に映った顔と、目の前で心配そうにしている顔以外は
全然知らない顔だけだった。
「・・・病院に、いったほうがいいのかな」
ここでこうしていても何も解決しないような気がして、思わずつぶやいた。
「そうだな・・・もうちょっと様子を見て・・・だめだったら、かな」

することもなくアルバムを眺めていると
突然、兄がピクリと反応して、ジーンズのポケットから携帯を取り出す。
「もしもし・・・ああ!・・・すまん、忘れてた。いや、ちょっと立て込んでてな・・・」
・・・そういえば、出かけるとか言っていたような。
「いや、そうじゃない。ちゃんと済ませたよ・・・ああ、いやいいんだ・・・うん、俺は急がないから」
仕事でもあったのだろうか。
携帯を切った兄に頭を下げる。
「ごめんなさい・・・出かける予定だったんだよね。仕事?」
兄は手をひらひらと振って笑った。
「ああ、いいんだ別に。大した用事じゃない・・・そうだ、ちょっと外に出てみようか?」
「外?」
「ああ。ここにいても進展がないし、学校のあたり歩いてみれば何か思い出すかも」
「・・・そういえば、学校行かなくてもいいのかな・・・」
「あ、土曜日だから・・・土曜は授業取ってなかったはずだよ」
「そうなんだ・・・」
結局、何でもいいから手がかりが欲しくて、出かけることにした。

洋服ダンスの中をあれこれと引っかき回し、結局、無難にジャケットとブラウス、丈の長いスカートで落ち着いた。
・・・そうだ、バッグ。
壁に掛かっているいくつかのバッグの中に、財布やパスケースの入ったものがあった。
パスケースを開く。学生証。車の免許証。
どれも緊張した面もちの私の写真が張り付けてある。
別に兄を疑っているわけではないが、まだ兄の言葉からしか私が誰なのかを聞いていない。
こうして一つずつ自分を確認していきたかった。
簡単に化粧をすませ、自分の部屋を出る。
「お待たせ」
「ん。じゃ、まあ天気もいいし、ブラブラしようか」
兄と部屋を出ると、また見知らぬ世界。
部屋の中という狭い空間ではなく、見渡す限り知らない場所。
不安に駆られる私の気持ちを察したかのように
私の手に重ねられる、大きく、力強く・・・暖かな、手。
「行こう」
こうして、見守ってくれる人がいることを頼りに、私は記憶にない町並みを歩き始めた。

色づき始めた街路樹が並ぶ道を、兄と手を繋いで歩く。
「ほら、ここがよく晩飯食うところ」
兄はあれこれと私に街の中を案内してくれる。
だが、まるで何も思い出せないし、むしろ興味は別のところにあった。
この人は・・・兄は、どんな人なのだろう。
優しくて、頼りがいがあって・・・
私のことを大事にしてくれている、そんな気もする。
でも。
優しいのは、私が記憶を失っているから?
それとも、いつも誰にでもこんな風に優しいのだろうか?
「ねえ?」
「ん?何か思い出せそう?」
「そうじゃなくて・・・私のことはいろいろ教えてもらったけど、貴方のことはまだ教えてもらってないの」
「ああ・・・別にいいだろ、俺のことは」
少し困ったような、照れているような顔がちょっとだけそっぽを向く。
何故か、可愛いと思った。

といっても、やはり知っておくべきことは知っておきたい。
「でも、これから一緒に暮らすんだもの・・・最低限のことは教えてもらわないと」
「んー・・・名前は純一。菅谷純一。27歳。独身・・・後は?」
「いつも、私はなんて呼んでたのかしら」
「普通に、兄さんって言ってたぞ」
「そう・・・兄さん?」
「なんだ?」
「・・・何でもないの。ただ、こんな感じかな、って」
繋いだままの手を、ちょっとだけ強く握る。
すると、兄さんも少しだけ握り返してくれる。
「・・・こうしてると、恋人同士がデートしてるみたいね」
「そうか?」
兄さんが笑う。
私は・・・笑えなかった。
ただ、兄さんの手を握りしめるだけだった。

記憶にない町をしばらく歩き回ると
やがて高い時計塔のような建物が見えてくる。
「学校、行ってみるか?」
どうもここが私の通っている大学らしい。
「・・・うん」
言われて頷いては見たが
中には、私の友人などもいるのかもしれない。
もし友人らしい人に声をかけられたら、なんと答えればよいのだろう。
適当にお茶を濁すか、正直に事情を説明するべきか。
兄さんは私の手を引いてずんずん校門に向かっていく。
「あ、絵美ー!おはよー」
・・・いきなり、声をかけられた。悩みを解決するまもなく。
「お・・・おはよう・・・」
声をかけてきたのは丸顔でショートヘアーの元気そうな女の子。多分、同世代。
「どしたの?土曜は授業ないんじゃなかったっけ?」
なんと答えるか、今すぐに答えを出さなければならなくなった。

「こんにちは。いつも妹がお世話になっています」
悩んでいる私に兄さんが助け船を出してくれる。
「あっ・・・あ、は、初めましてっ!・・・なるほどぉ、これが噂の・・・絵美タンのお兄さまですかー」
「・・・噂の?」
「あはは、絵美ったらいっつも、兄さんが、兄さんが、って言うんですよー」
顔が熱くなる。記憶がなくてもこれは恥ずかしかった。
「やだ、赤くなってないでちゃんとお兄さんに紹介してよー。私、三浦です。三浦美保子」
「ああ!よく絵美から話聞いてますよ・・・なるほど、君が三浦さんね」
「うわ、私どんな風に言われてるの!?」
笑ったりふくれたり驚いたり、コロコロと表情の変わる彼女・・・三浦さんと兄さんは楽しげに話し続ける。
「ね、お昼まだでしょ?一緒しよっ。お兄さんも、一緒で」
「あー、もうそんな時間か・・・まだ学食すいてるかな」
「まだ平気ですよー・・・って、学食知ってます?」
「あれ、聞いてない?俺、ここのOBよ?」
「マジっすか!?じゃ先輩だ、ちっす!」
いつの間にか、繋いでいた兄さんの手は離れていた。

「兄さん。私、まだお腹すいてない」
嘘だった。朝はろくに食べなかったので、もう結構空腹だった。
でも、嘘をついた。
嘘をつく自分が少し嫌になって、私は二人から顔を背ける。
そんな私の気持ちに気づいた様子もなく、三浦さんは話し続ける。
「え、そう?んー、どうしよっかな・・・」
兄さんが、私の袖を引っ張る。
「絵美・・・ちょっと」
「・・・なに?」
「あー・・・三浦さんは、お前の話によればかなり仲がいいみたいだから・・・相談したほうがいい」
たぶん、そうなのだろう。理性ではそれはわかっている。
でも、嘘をついた自分がそれを拒絶する。
理由なんて知らない。ただ、この人と、兄さんを一緒にいさせたくない。
「え、相談?なんかあったの?」
「いや、ちょっとね・・・立ち話もなんだから、学食行こうか」
結局。兄が行くのなら私もついていくしかなかった。

「記憶喪失ぅ!?なんで!?いつ!?」
学食の、なるべく端の席を選んで座り、三浦さんに事情を説明し始めた。
「なんでかはわからないんだ。朝起きたら忘れてたらしい」
「へえ〜・・・そんなこと、あるんだぁ・・・え、じゃ、私のことも覚えてないわけぇ!?」
「・・・ごめんなさい」
「うわ〜・・・昨日は何ともなかったのに・・・」
三浦さんの言葉に、兄さんが興味を示す。
「昨日?昨日、絵美と一緒だった?」
「あ、はい。昨日の夜、理学部と合コンだったんですよ。そのときはちゃんとしてたんですけど・・・」
「あの・・・私、その合コンが終わってから、どうしたのかな・・・」
「えっと・・・私2次会まで行ったからわかんないけど、絵美は1次会で帰って・・・」
「んー・・・俺が帰った時にはもう寝てたんだけど・・・」
すると、その合コンとかが終わってから、家に帰って寝るまでに何かあったのだろうか。
「とりあえず、昨日の出来事を追ってみよう。三浦さん、悪いけど協力してくれるかな?」
「ええ、いいですよ・・・絵美、心配いらないよ。すぐに記憶なんて戻るって」

「ここが1次会の店です」
キャンパスからそう遠くない、ありふれた和風居酒屋の前に私たちは立っていた。
「・・・どうだ?」
どう、と言われても何も思い出せない。
「えーと、1次会が10時頃お開きになって・・・バスは終わってるから歩いて帰ったんじゃないかな」
「ここからか・・・ここからだと結構あるよな」
「ですねー」
突然、兄さんがビクッとして、微かな音を立てて震えている携帯を取り出した。
「ちょっとごめん」
すぐに話し始めないで、遠ざかってから話し始めた。
「・・・なに?・・・いや・・・・そんなはずは・・・」
何か揉めている様子が聞き取れる。
やがて、困惑した顔で兄さんが戻ってきた。
「すまん、絵美・・・ちょっと仕事の都合で、行かなきゃなんなくなった」
「え」
「三浦さん、悪いんだけど・・・後を頼んでいいかな」

兄さんが行ってしまう。私をおいて、行ってしまう。
それは、仕方がないことかもしれない。兄さんには兄さんの生活があるのだから。
だけど、今は行ってほしくなかった。
それでも、言葉は裏腹だ。
「私は大丈夫よ、兄さん。後は三浦さんにつきあってもらうし」
聞き分けのいい妹を演じたかったのか
彼女と兄さんをこれ以上一緒にいさせたくなかったのか。
「ええ、後は任せてくださいよ」
「悪いね・・・何かあったら電話して・・・携帯、持ってるよな?」
「うん」
バッグの中に入っていた携帯を取り出す。
不思議に使い方はわかっていた。つまらないことは覚えている。
メモリーに登録された番号の1番に
「兄」というのがある。わかりやすいな、私。
「じゃ、俺行くから・・・」
兄さんが心配そうに何度も振り返るのが、ちょっと嬉しかった。

「さって、それじゃ行きますか」
兄さんの姿が角を曲がって見えなくなって、三浦さんが私にくるりと振り向く。
「あ、うん・・・よろしく、三浦さん」
彼女がちょっと顔をしかめる。
「・・・あのさ」
「・・・なに?」
「ん・・・美保って、呼んでよ。いつも、そうだったんだし」
「あ・・・ごめん・・・なさい・・・」
彼女は慌てて両手を顔の前でブンブンと横に振る。
「ああ、いいのよ別に謝らなくたって!まあ・・・病気?みたいなもんなんだし?」
病気・・・なんだろうか。
「じゃあ・・・記憶探しに行きますか!なんか思い出したら言ってねー」
スタスタと彼女・・・美保が歩き始める。
「あ、待って・・・家までの道、わかってるの?」
ちょっと心配だけど、それでも美保の後を付いていった。
さっきまで感じていたわだかまりは、もうなかった。

「えーと・・・ここで曲がる・・・んだったかな?違うか?」
「・・・大丈夫?」
やや頼りない道案内に先導されて、家までの道を歩く。
「いやー、絵美の家って2回しか行ったことないからさー・・・っと、ここか」
話しながら急に道を曲がる。
眼前には鬱蒼と木々が広がっていた。
「ん、ここ、ここ。この公園を抜けると近道・・・のはず」
美保が公園の中に入っていく。どんどん、遠ざかっていく。
10メートルほど離れて、私がついてきていないことに気づき、振り返る。
「・・・絵美?どしたの?」
ついていかなければ、と思っているのに、足が動かない。
動かないだけならまだしも、膝がガクガクと笑っている。
いや。膝だけではない。全身がブルブルと、冷水を浴びたように震えていた。
「ちょっと・・・絵美!?どうしたの!?絵美っ!?」
駆け戻ってきた美保に抱きかかえられながら
私は悪寒と激しい頭痛を感じていた。

(第2節へ続く)

(Seena◆Rion/soCysさん 作)

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