心臓を鷲掴みにされたような感覚。
逃げよう、と思うのに
足が岩になったように動かない。
男は、一歩一歩近づいてくる。
男が辺りを見回す。確かめるように。
私も辺りを見回す。救いを求めて。
・・・誰もいない。誰もいない!
男の口の端が、にぃ、と吊り上がった。
そのとき
男の体から甲高い電子音が響く。
それが合図になって、私の金縛りが解けた。
男が携帯を出そうと私から目を逸らしたその一瞬
男に背を向ける。振り返ることはできない。
夕暮れの街をただ闇雲に。
走る。走って逃げる。
恐怖から。
どれくらい走っただろうか。
自分の荒い息が聞こえるだけで
後ろから男の足音が聞こえるかがわからない。
振り返りたい気持ちを抑え、ただ走り続ける。
息が切れる。限界が近い。
どこかに・・・逃げ込まなければ。
家?
・・・ダメだ。もし家の場所が知られてしまったら・・・
男をまいた、とわかるまでは家には帰れない。
駅前まで戻れば・・・人が沢山いる。
そうすれば、男も何もできないだろう。
問題は・・・闇雲に走って、駅がどちらかわからなくなっていること。
そして気が付けば、いつの間にか・・・
あの公園の前に来ていた。
一番、来たくなかった場所へ。
振り返る。男が角を曲がって姿を現したところだった。
公園への嫌悪感よりも
男への恐怖感が勝った。
公園へ走り込む。
もう、走れそうにない。
どこか・・・隠れられる場所を探さなければ。
小さな葉が生い茂る、大きな植え込みが目についた。
その陰に飛び込み、しゃがみ込む。
苦しい息を必死で抑え、じっと待つ。
男が気づかずに通り過ぎてくれれば・・・
じゃり、じゃり、と
敷き詰められた砂利を踏む音が近づいてくる。
こっちに来るなと念じる私が
息を殺して潜む植え込みの方へ。
・・・
止まった。足音が、止まった。
すぐ近くで、止まった。
もうダメ。飛び出そう。
そう思った矢先、男が何かゴソゴソしていることに気づく。
微かにぴ、と電子音がした。
「もしもし?・・・ああ、ワイや・・・ああ、見つけたんやけどな・・・うん・・・」
耳障りな関西弁の鼻声で、誰かと話している。
・・・携帯・・・?
「そや・・・ああ、それは間違いない・・・お前もこっち来て手伝え」
仲間を・・・呼んでる?
「ああ、あの公園や・・・大丈夫、サツはもうおらんわ・・・ほな、ワイはもうちょい探すで」
ダメだ・・・仲間まで呼ばれたら、もう逃げられない・・・
再び、じゃりじゃりと足音が聞こえてくる。・・・遠ざかっていく!
腰を低くしたまま、植え込みの後ろに下がっていく。
出口まで、気づかれないように戻れれば・・・
だが。踵に何かが触れた。
コンッ・・・コロコロコロ・・・
無情な音を立てて、空き缶が転がっていった。
躊躇はもうしていられない。
男との距離はわからないが、立ち上がって走り出す。
「待てやっ!」
声は思ったより遠い。
逃げられる!
出口まで・・・まずはこの公園の出口まで!
それから人気のある場所へ、それから交番まで、そしたら・・・!
見えた!出口っ!
だが、暗がりの中、公園の出口にゆらりと現れた人影に
私の足は速度を落とす。通れない。
脇を通り抜けるにはこの出口は狭すぎる。
この人が・・・あの男の仲間でないことを祈るしかなかった。
「助けてっ!助けてくださいっ!」
「え・・・?」
背後からも声が響く。
「その女や、捕まえてくれ!」
夜の公園の入り口で私は凍り付いていた。
「にい・・さん・・・?」
兄さんだった。公園の入り口にいたのは、兄さんだった。
「絵美・・・か?」
兄さんも、凍り付いたように動かない。
一瞬の混乱の後、私は叫び、兄さんの胸に飛び込む。
「たっ・・・助けて兄さん!あの・・・眼鏡の人が!」
背後から、あの男が迫ってくる。
「よっしゃ!ええタイミングやで菅谷!」
え・・・?なんで・・・名前・・・?
兄さんの手が・・・私の肩をぎゅっと掴み
背中にかばうように体の位置を入れ替える。
「待て郷原!これは・・・これは、俺の妹だ!」
・・・兄さん?・・・知ってる・・・の?その男を・・・?
数メートルまで迫った男が驚いた顔になる。
「なんやて?・・・ほな・・・目撃者て、お前の妹か?」
「すまん・・・どうも、そうらしい・・・」
なんで謝ってるの?この人は誰なの?
「さよか・・・で、どないすんねん」
「どない、って・・・言っただろ、記憶喪失になってるって。喋らないよ」
「放っておけば、自然に記憶が戻る、とも言ったわな」
「・・・それより郷原・・・本当に間違いないのか?目撃者は・・・」
「それは間違いない。逃げてくとこ、この目で見とんねん」
「じゃあ・・・どうするんだ?」
「さて・・・どないするか、な・・・」
私には意味のわからない会話を続けながら二人がにらみ合う。
男が懐に手を伸ばす。
兄さんは上着から黒い革手袋を取り出し、手にはめる。
男が上着から鈍く光る棒状の物を取り出すと同時に
兄さんのポケットから・・・銀色に光るナイフが。
それを見た瞬間
全部繋がった
「あ・・・ああ・・・ああああああああああああっ!」
思い出した。
思い出してしまった。
忘れていればよかった。
「絵美!?しっかりしろ!・・・こいつの・・・好きにはさせないから!」
兄さんが、手袋をはめた手にナイフを構える。あのときのように。
男・・・郷原、と兄さんが呼んだ銀縁眼鏡は
やれやれ、というように肩をすくめた。
「アホらし・・・なんでお前とやりあわなならんの。ヤメヤメ・・・」
男が構えていた手を下げる。
「妹なんやろ?思い出しても喋らんよう、お前責任持てや?」
「あ・・・ああ・・・もちろん、そうする」
そうね。
喋らないわ、絶対。
こんな忌まわしい記憶など。
あの晩
少し酔っていた私は
普段なら通らない公園を通って帰ろうとしていた。
そこで争う二人の人影を見つけ
怖くなって、物陰に隠れた。
やがて二つの影のうち、一つが倒れた。
もう一人が立ち去っていくときに
街灯の下を通っていった。
明かりに照らされたその顔は
兄さんだった。
見間違うはずもない。
そのまま兄さんは私に気づかず去っていった。
おそるおそる、倒れた人影に近づき
そのヤクザ風の男が死んでいることがわかった。
私は混乱しながらも公園を飛び出し
家に戻って震えながらベッドに潜り込んだのだ。
何かの間違いだ。
兄さんがあんなことするわけがない。
そう、言い聞かせた。
でも無理だった。
頭に、街頭に照らされた兄さんのあのときの顔が焼き付いている。
見てしまった。兄さんが、人を殺すところを見てしまった。
・・・ダメ。
私は何も見ていない。私は何も覚えていない。
全部忘れる。
兄さんのために。
どんな事情があろうと。どんな理由があろうと。
どんな・・・罪を犯したとしても。
兄さんは・・・私のものだ。誰にも渡さない。警察だろうとなんだろうと。
だから、忘れる。誰にも喋らないように。泣きながらそう決めて、眠った。
そして、翌朝には本当に忘れていた。忘れることができた。
それなのに今。思い出してしまった。
何かの間違いだ。
兄さんがあんなことするわけがない。
そう、言い聞かせた。
でも無理だった。
頭に、街頭に照らされた兄さんのあのときの顔が焼き付いている。
見てしまった。兄さんが、人を殺すところを見てしまった。
・・・ダメ。
私は何も見ていない。私は何も覚えていない。
全部忘れる。
兄さんのために。
どんな事情があろうと。どんな理由があろうと。
どんな・・・罪を犯したとしても。
兄さんは・・・私のものだ。誰にも渡さない。警察だろうとなんだろうと。
だから、忘れる。誰にも喋らないように。泣きながらそう決めて、眠った。
そして、翌朝には本当に忘れていた。忘れることができた。
それなのに今。思い出してしまった。
「兄さん・・・?・・・兄さんっ!?」
倒れた兄さんのそばにしゃがみ込む。
「アホゥ、見逃せるはずないやろ」
いつの間にか背後に忍び寄っていた郷原が、転がったナイフを拾い上げた。
「組んで2年か・・・ようやっとええ仕事できるようになったんにな」
兄さんは・・・息はしているが、倒れたままぴくりとも動かない。
「決めごと守れんのやったら・・・しゃあないわな」
直感的にわかった。
二人とも、殺すつもりだ。
・・・させない。
そんなことは、させない。
「・・・どういうことなの?」
郷原を睨み付けながら問いかける。
「まだ見当つかん?ワイら殺し屋やってん。金で殺し請け負うとったんや」
「・・・うそ。兄さんは、そんな人じゃないわ」
話しかけながら、チャンスを待つ。それしかなかった。
「信じられんっちゅー顔やな。けど、あの晩かてあんた見てるやろ?」
「あれは・・・!」
「あの後、アンタが公園から走って逃げてくのを、見張ってたワイが気づいたんや」
郷原が片手でナイフを弄びながらニヤニヤと笑う。
「アカン、誰ぞに見られた、思て必死で追いかけたんやけど・・・ようやっと捕まえたわけや」
顔が・・・真顔になった。
「まさか、相棒の妹とは思わんかったけどな」
「どうする・・・つもりなの?」
「言わせんといてや、これでも仕事以外の殺しは胸が痛むんやで?」
ぱし、と弄んでいたナイフを握り直す。
「ちょうどええわ・・・これで堂本殺しの犯人は、通り魔の仕業っぽくできる」
すっ、と
郷原が歩み寄る。
私は
兄さんに覆い被さる。
「可哀想やけど・・・兄妹揃って、送ったるわ」
そのときだった。
公園の奥から、凄い勢いで走ってくる人影。
人影が叫ぶ。
「ネーちゃん、どうしたっ!!」
郷原が舌打ちしながら振り返る。
「なっ・・・!?ど、堂本っ!?」
振り返った先から走ってくるのは、堂本さんだった。
「アホな!ど、どないなっとんねん!?」
「・・・ああ?」
私の頭に、一瞬である考えが閃く。
「堂本さんっ!この人ですっ!この人が!」
「なるほど・・・てめえ・・・てめえかぁっ!!」
郷原が狼狽して、叫ぶ。
「き・・・きっちり殺したはずやでっ!?」
「バッカヤロウ!俺ぁ・・・弟だっ!!」
怒鳴り声をあげながら、堂本さんが郷原に飛びかかった。
嵐はあっと言う間に過ぎていった。
まず、郷原がうめき声をあげながら崩れ落ちる。
胸からドクドクと血を流しながら。
堂本さんの手にいつの間にか握られた短刀は血に濡れている。
だが、堂本さんもお腹にナイフを突き立てられていた。
「ぐ・・・」
「・・・堂本・・・さん?」
堂本さんががっくりと膝を突き、苦しそうな息をあげて仰向けに倒れた。
おそるおそる、二人に近寄る。
「ネー・・・ちゃん、か・・・ありがとよ・・・おかげで・・・」
「ど・・・堂本さんっ!しっかり!」
「あ・・・兄貴の・・・仇が・・・討てた・・・ぜ・・・」
その言葉を最後に
首が力を失って、がくりと頭が落ちた。
死んだ。死んでしまった。
だが、その顔は満足そうだった。
もう一つの倒れている体。
警戒しながら、近寄る。
まだ驚いたような顔をして、郷原も死んでいた。
二人とも、死んだ。
ごめんなさい、堂本さん。
でも
あのとき閃いた考えよりも、いい結果になった。
兄さんに元に駆け戻る。
「う・・・」
うめき声!
助かる!ううん、助ける!
死なせるものか。離すものか。
兄さんの手を取る。
「大丈夫よ、兄さん・・・絶対・・・離さないわ・・・」
ずっと二人で、手を繋いで、生きていく。
あの日、そう決めたのだから・・・
(Seena◆Rion/soCysさん 作)