10. 義務と意思の狭間にて
K会社に向かうためのタクシーに乗りながら、僕は窓の外を眺めていた。
時間はまだまだ十分余裕がある。
そう思っていたものの、なかなかタクシーは進まない。
渋滞だった。
朝早くに出たはずなのだが道は思いのほか車でごった返しており、僕を乗せたタクシーはもうずっと同じ場所で止まっていた。
苛立ちを覚え始め、次第にそれは焦りに変わる。
どうしよう。時間がない。
「っ〜! …す、すみません。歩いていきます!」
現金を運転手に渡すと、僕はタクシーから降りて駆け出した。
K会社の社長――秋月さん――は、時間にルーズな人が嫌いなはずだ。
それなのに遅れたりしたら、せっかくの商談もオジャンだ。
ネクタイやスーツが乱れるだとかはもう無視し、とにかく走った。
社長室に僕が案内されてついた頃には約束の時間は過ぎていた。
といっても数分なのだが、商談において一分の遅刻は命取りだ。
それも大きな会社になればなるほど。
僕は内心でため息をつきつつ、社長室に足を踏み入れた。
社長室に入った僕に気がついた秋月さんは、背を向けたまま深く息を吐き出した。
まずい。
背中から感じるオーラが凄まじい。
不機嫌ゲージマックスのようだ。
「申し訳ありません、秋月さん。遅れてしまいました」
「…ここの窓から君が走っているのが見えたよ。渋滞に引っかかったようだな」
「…すみません」
見られていたのか…。
遅れた理由を説明する必要がないのは有難いが、必死で走っているところを見られていたと思うと気恥ずかしい。
「それでも、遅刻は遅刻だ」
秋月さんはゆっくりと振り返った。
怜悧。
その言葉がピッタリに思えた。
鋭く冷ややかな瞳に、口元に浮かべられた笑み。
見つめられるとゾクッとして、妙な威圧感を覚えた。
「申し訳ありません…!」
頭を下げるものの、秋月さんの冷たい瞳は変わらない。
「私は時間を守れない人間は大嫌いなのでな。この商談はなかったことにさせてもらおう」
「そんなっ! あ、あの…っ」
つい声を上げてしまったことを後悔する。
秋月さんは眉を吊り上げた。
もしかしたら、五月蝿いのも嫌いなのかもしれない。
「時間に遅れたくせにそんなも何もないだろう」
「あの…でも、困るんです」
「知ったことか。君が悪い」
「っ…」
どうしたらいいのだろう。
このままでは本当に商談がなしになってしまう。
社長の期待に応えられない…。
「それとも、何か? 君がそれ相応の支払いをしてくれるのか?」
その言葉に僕は困り果ててしまった。
秋月さんが納得してくれるような額の現金は持ち合わせていない。
「その…」
「どうなんだ?」
財布を取り出し、中身を確かめる。
入っているのは二万円ちょい…。
満足してもらえるような額には程遠い気がする。
「出来ないのだろう? ならば帰れ」
「お願いします! どうしても…契約、していただかないと…っ」
「クビにでもなるのか?」
「そういうわけでは…ないと、思います。でも、秋月さんの会社はとても大きな会社なので…」
「成るほど。商談成立すれば、君の株がだいぶ上がるというわけか」
「そうではなくて…」
ああ…でも社長を喜ばせたいわけだし、そういうことになるのだろうか。
困っていると、秋月さんは再び息を吐き出した。
「そんなに言うのなら、考え直してやらんこともない。もともと、商談する前から契約はしようと思っていたのでな」
「本当ですか!?」
「だが君が遅れたせいで契約する気は限りなくゼロになった。だから、私を契約させる気にさせてみろ」
契約をさせる気に…?
「でも、どうやって」
「そんなものは自分で考えろ。頭がきちんとついているだろうが」
冷たく言い放たれ、僕は黙り込む。
自分で考えろと言われても、どうすればいいのかが一向に思い浮かばない。
秋月さんをその気にさせるだなんて…僕に出来るのだろうか。
「出来ないのなら帰るといい」
「で、出来ますッ」
「ほぅ…」
秋月さんは顎に手を当てて興味深そうに僕を見下ろした。
言ったはいいものの、どうしたらいいものか。
「…現金がなければ、身体で払うというのがセオリーだとは思うが?」
秋月さんはそう言って机に腰掛けた。
身体で…?
それは、秋月さんを僕が気持ちよくさせることが出来れば良いということなのだろうか。
「…僕が秋月さんを満足させることが出来たのなら、契約していただけるのですか?」
「出来るのなら、な」
変わらず冷たく微笑む秋月さんの顔を見据える。
握り締めた拳は緊張によってかしっとりと湿っていた。
大丈夫、出来る。
僕はゆっくりと、秋月さんの前に膝まづいた。