14. 義務と意思の狭間にて
達する寸前に聞いた、社長の言葉。
―――愛してるよ、葵くん。
あの言葉はどういうつもりで言ったのだろうか。
僕たちは製品の性能を確かめるために抱き合い、そして限りなく利用者の状況に近づけるために恋人同士という架空の設定を作り上げた。
ただ、それだけだ。
けれど僕はいつの間にか社長に惹かれていて…否、もとから惹かれていたのかもしれない。
そうでなければ、たとえ秘書という立場やお金を守るためにでも身体を差し出すだなんてことはしなかっただろうから。
とにかく、社長を好きだと認識した僕は、社長にほとんど無意識のうちに好きだと言った。
そして社長も僕に愛していると言ってくれた。
あのときは製品の性能を確かめていたわけではないから、恋人同士という設定が作られてはいなかった。
けれど社長はそう言ってくれた。
…キスだって、してくれた。
それは僕がもの欲しそうに見ていたからなのだろうか?
それとも…それとも―――。
「おはようございます、社長」
「おはよう」
いつものように出勤して席に着く。
「今日は会議の結果をみんなに伝えようと思うから、よく聞いてねー」
社長はオフィスを見回しながら言った。
作業をしていた社員たちの動きが止まり、視線が一斉に社長へと向けられる。
社長はみんなが見ていることを確かめるようにもう一度オフィス内を見回すと、満足げに頷いた。
それから白い冊子を片手に話し出した。
正直、僕はその話を聞いていなかった。
ただ真剣な表情で話す社長の顔をじっと見つめていた。
時折向けられる視線に妙にドキドキする。
社長は話し終えたのか僕たちに背を向けて歩き出した。
社長がオフィスを出ると同時に、社員たちが一斉に動き出す。
僕はそんな中ぼーっと椅子に座っていた。
全く話を聞いていなかった。だというのに罪悪感も焦りも何もない。
あるのは…心地よい、少しだけ早い胸の鼓動のみ。
僕は社長を好きだと認識してから、何かというと社長を目で追うようになっていた。
「これ、プレゼンテーションの用紙です」
「ありがとう。これに判子押し終えたから、隅に持っていってくれるかな」
「はい」
書類の束を机の隅に移動させ、僕はチラリと社長の顔色を窺った。
それから、いつも通りの顔をしている社長に落胆する。
社長は何も意識していないのだろうか。
それとも、やっぱり僕だけが意識しすぎているのだろうか…。
もしかすると社長にとって、「愛している」という言葉はそれほど意味をなさないものなのかもしれない。
ただ、その場の雰囲気で言ってしまった。
それだけなのかもしれない。
そう思うと苦しくて、僕は知らず知らずため息をついた。
そのことに気がついたのは、社長が僕のことを心配そうに見つめていたからだ。
「何か?」
「いや…ため息なんてついてるからさ。葵くんらしくないな〜っと。…疲れてるの?」
「いいえ」
特別疲れているというわけではない。
ただ、心が重苦しいだけだ。
社長は僕を見てくれていない。
結局、僕はただ人体実験に使われていたというだけのこと。
そんなのは分かりきっていたし、それを受け入れた上での行為だったはずだ。
だというのに、今はそれが辛くてたまらなかった。
「…やっぱり、少し疲れているのかもしれません」
「じゃあ、休んでもいいよ。君にはいつも仕事を頑張ってもらってるしね。それだけ仕事をこなしていれば、疲れも溜まるさ。あそこの棚の上にクッキーの箱があるから、食べなよ。コーヒーは僕が淹れてあげる」
「そんな…社長にそんなことをさせられるはずがないじゃないですか! それこそ僕の仕事ですっ」
「いいからいいから」
社長はそう言うと立ち上がり、僕の背中を押した。
触れ合った背中からはじんわりと社長の手のひらの温かみが伝わってきて、僕は赤面した。
社長とこの部屋で行われる秘め事の感覚を思い出してしまったのだ。
「葵くん?」
「っ…なんでも、ない…です」
僕は赤くなった顔を隠すように、顔を社長から逸らすとソファーに座った。
「じゃ、葵くんはここで待っていてね」
社長はにっこりと気の良い笑顔を見せて歩いていってしまった。
僕はしばらくの間、呆然としていた。
頭が上手く回らない。
何も考える気にはなれないくせに、身体だけは妙に熱い。
そのことに少しだけ戸惑いを覚えつつも、僕は視線を棚の上へと向けた。
…確か、クッキーの箱が置いてあるとか言っていたよな。
僕は立ち上がると棚の前に立った。
少し背伸びして手を伸ばせば届きそうだ。
僕はつま先に力を入れて立つと、腕を伸ばした。
箱の下部に指が触れる。
けれどそれ以上先に僕の指は箱に触れることが出来なかった。
一応は届くものの、下ろすのには背丈が足りないらしい。
「ん……っ」
めいいっぱいに腕を伸ばして箱に近づくと、足を吊ってしまった。
「いつっ!?」
僕は痛みにバランスを崩し、そのまま床へと倒れそうになった。
「危ないっ」
「あ…っ」
咄嗟に駆け寄ってきてくれた社長が僕の倒れかけた身体を支える。
社長のぬくもりが、伝わってくる。
それは凄く温かくて、そして何より切ない―――…。
「やだ!」
パシンッと音がして、遅れて僕は自分が何をしたのか理解した。
僕は叩いてしまったのだ。
倒れないよう支えてくれた社長の手を。
「す、すみません…ッ!」
頭を大慌てで下げる。
何をしているのだろう。
せっかく支えてくれたというのに、その手を叩くなんて。
「いいよ、葵くん」
優しげな声に顔を上げると、そこには社長の笑顔があった。
「全然気にしないから。それじゃ、僕はこれから会議があるからもう行くね。君はここでクッキーを食べてゆっくりしていなよ」
社長は柔らかく微笑みながらクッキーの箱を棚から下ろすと、僕の横を通り過ぎた。
その笑顔に、胸がチリッと痛んだのが分かった。